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2019.3.17「主(しゅ)か主(あるじ)か」(詩127:1-5)

 こんばんは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週、わが同盟教団の第70回総会が東京・両国にある国際ファッションセンター(KFC)で開催されました。ケン○ッキーじゃないです。
私は、昨年をもって宣教区長から退きましたので不参加ですが、会場の名前からするとこんな感じでしょうか。
tiff-1003-01.jpg むう、楽しそう。さすが70回目の節目だけあるわ。

 冗談はさておき、今回の教団総会で個人的に気になっていたのは、第6号議案「教師試験規定変更の件」。
細かい文言はさておき、変更理由は「教会奉仕に差し障るほどの負担を軽減し、実践的なものとし、より適正な人物評価をすることを目指して、教師試験規定を変更する」とのこと。
教会奉仕に差し障るほどの負担」って、そんなことを訴えていた受験生がいたんでしょうか。福音派も優しくなりましたね。
「より適正な人物評価」のための変更点も、神学校で一緒に寮生活を二年以上過ごした人に推薦書を書いてもらう決まりの追加だそうです。
でも牧会の現場で?な人って、じつは独身寮よりは家族寮出身者に目立つというのが率直な感想です。
自分は社会で実績を挙げ、家族も養ってきた、それを捨てて献身したのだ、といつまでも自負していたら、教会員ともぶつかります。
社会人経験者にもコマッタ人はいるし、大卒からのストレート組でも、しっかりしている人はいるんですよ。牧師に限りませんが。
メールで送られてきた議事録によれば、この第6号議案も賛成多数で通過したようですが、改悪にならないか不安を感じます。 
備えの日なのに、ちょっと辛口ですね。教団批判ではなく、私自身への戒めとして受け止めてください。ね、理事長。ね、ね。
週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』127篇1-5節 


序.
 昔、クリスチャンの方が家を新築するときに、工務店の社長さんにこの聖書のことばをお伝えしたら、妙に納得されたそうです。
社長さんいわく、「聖書というのはすごいね。あっしら家を建てる人間が、つねづね思っていたことをずばっと言っているんだから。
あるじが奥さんやお子さんの声ばかり聞いてふらふら間取りを変えちゃ、建つものも建たんのですよ。ご主人、いっしょにがんばりやしょう」
ただここで言われているのはあるじが家を建てるのではなく、主が家を建てる、ということです。主というのはいうまでもなく神さまのことです。
家を建てること、町を守ること、この二つのことが象徴しているのは、それぞれ家庭生活と社会生活と言えるでしょう。
人は、家庭で育まれ、社会に仕えます。朝、社会へと向かい、夕に家庭へと戻り、翌朝また社会へと向かっていきます。
この家と町という繰り返しを通して、私たちの人生は作り出されていきます。そして聖書は私たちにこう呼びかけるのです。
あなたの人生すべてにおいて、あなたは自分をあるじとするのではなく、神ご自身をあなたの主人として認めていますか。
生活の主導権を握っているのは人間ですか、神ですか。
 どんな人の心の中にも、その真ん中には心の王座というものがあります。
その王座に座っているのは、あなた自身ですか、それともイエス・キリストですか。
主を片隅に追いやって、自分があるじとして、ふんぞり返っているということはありませんか。
そんな問いかけを自分自身へのものとして発しているのが、今日のこのみことばです。一緒に、このみことばを味わっていきたいと願います。

1.
 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きは、むなしい。
 主が町を守るのでなければ、守る者の見張りは、むなしい。
 早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それは、むなしい。
まさにむなしいのオンパレードであります。
この詩篇の標題には、ソロモンによる、と書かれていますが、彼はすべての富と知識と栄光を与えられた、イスラエルの王として知られています。
しかし同じようにソロモンの作と言われている、伝道者の書というものにも、やはり「むなしさ」を意味することばが連発されています。
家を建てることも、町を守ることも、がんばって糧を得ることも、むなしい営みにすぎないのでしょうか。
いや、家を建てること、町を守ること、糧を得ること、それ自体は決してむなしいことではありません。
問題は、それを自分自身の努力、あるいは人様から助けられたから、とすることです。
実際に働かれたのは神さまであり、それを人間が認めないこと、そのことがむなしいと言っているのです。
 ソロモンの時代から約500年後、一度廃墟になったエルサレムの町の城壁を建て直すために民を指導したネヘミヤという人がいました。
彼の業績については、旧約聖書の「ネヘミヤ記」に詳しくありますが、その中にはまさにこの詩篇そのもののような状況が描かれています。
彼らは敵の攻撃への備えのために片手には槍を持ち、もう片手では石を運び城壁を再建しました。
家族みなが総出で、かわりばんこに寝ずの番をし、いつ襲われるかわからない緊張と不安の中で夜を過ごした日々が描かれています。
 この中にも、自分ががんばらなければ、という思いで生きている方がおられるやもしれません。
自分ががんばらなければ子どもたちを学校に行かせられない。自分ががんばらなければ、教会の赤字が収まらない。
自分がしっかりしなければ、家族も町も守れない。確かにそうです。私たちの常識から言ったら、確かにそのとおりです。
しかしこの詩篇は、私たちにこう伝えるのです。「主があなたのその働きをされるのでなければ、あなたがしていることはすべてむなしいのだ」と。
詩人は、建てること、守ること、勤勉な生活をすること、決してそれらすべてを否定しているわけではありません。
問題はそれが主がなされ、主が備えられるということを無視して自分の力で進めようとすること、それがむなしいといっているのです。

2.
 主が建てるのでなければ。主が守るのでなければ。イム・アドナイ・ロー・イブネー。イム・アドナイ・ロー・イシュモル。
ヘブル語の美しい繰り返しの中で強調されているのは、私でもあなたでもない、神である主を表す、アドナイです。
「主」はまさにここでは「主語」そのものです。主と建てるという協力関係でもない。主のために建てるという目的の正しさでもない。
「主が建てるのでなければ」。私たちの力が必要ないという意味ではない。そして人間の努力そのものを否定しているわけでもない。
しかし、私たちの想像を超えた、はるかな高みにおられる方。私たちの常識を超えた、すべてを変えることのできる力を持っておられる方。
その主なる神が、私たち愛するもののすべての必要を知っておられる。そして、私たちが眠っている間に、すべてのことを備えてくださっている。
何という励ましでしょうか。このお方におゆだねすることができるのは、何という幸いでしょうか。
 私が牧師になる前、市役所のメンタルヘルス研修のときに配られた小冊子に、「わし族」というストレス症候群が載っていました。
それまでは課長、部長と呼ばれ、肩書と責任と居場所を会社に持っていた人が、ある日、何も持たない人になる、それが定年退職です。
ゴミ出しや町内会の仕事も全部奥さん任せ、仕事一筋で来たので趣味も友人もいない。
何も知らない、何もできない、自分の存在価値がわからない。それがわし族です。
家族が自分をじゃまげにしていると考えて、「わしが働いて食べさせてやってきたのに」と「わしが」「わしが」を連発し、心も病んでいきます。
 クリスチャンはどうでしょうか。「わしががんばらねば教会が立ちゆかない」。それは私たちから喜びを奪い、義務感に支配されてしまいます。
私たちの信仰生活は「わしが」ではなく「主が」です。私たちの労苦のわざは、主がそれをなしてくださるという確信のゆえに喜びがあります。
自分を第一とするのではなく、教会を第一とするのでもなく、第一とすべきは、主なる神ご自身です。
詩人は私たちに次のように語りかけているのではないでしょうか。早く起き、遅く休み、苦しんで糧を得ようとする者よ。
あなたの生活のすべてにおいて、主があなたの代わりになしてくださることを認めよ。
そうすれば主はあなたに必要なものをすべて与えてくださるのだ、と。

3.
 最後に、後半部分を味わって、説教を閉じましょう。3節からは、今までの内容が一転して、子どもについての祝福が描かれます。
見よ。子供たちは主の賜物、胎の実は報酬である、と。人は愛する子どもたちのために、家を建て、町を守り、糧を得ようとします。
確かに親は、子どもたちを養い育てる責任があります。しかし子どもたちそのものが、主が与えてくださるものなのだ、と。
親が責任という重荷に押しつぶされることなく、子どもが与えられることを豊かな祝福として受け取っていく幸いを、ここに見ることができます。
 4節では、「若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ」と語られています。
「若い時の子ら」とは、子どもが若いという意味ではなく、親がまだ若い頃に神に与えられた子どもたち、という意味です。
親がまだ現役の戦士として戦える年齢のときに、もう子どもが成長して立派な戦士としてともに並んでいる姿がここに描かれています。
こういう姿は、現代では少ないかもしれません。もう親が現役を引退しても、まだ独り立ちしていない子どももいたりします。
しかし、教会というところは、ある意味、この詩篇後半に描かれているような姿を見ることのできるところではないでしょうか。
まだ幼子や小学生でも、信仰においてはじゅうぶんに立派な戦士として、
自分の両親や祖父母の世代とともに賛美し、祈り、聖書を学び、他者に仕える姿を、私たちは見ることができます。
その世代を超えた、共通の姿の中心にあるものは、まさに神がすべてを備え、与えてくださるという確かな信仰です。

 この詩篇をどうぞ心の中で繰り返してください。
主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の働きはむなしい。
建てる者の働き、守る者の見張り、私たちのすべての労苦は、主なる神を自分の人生に認めてこそ、意味を持ちます。
神が全部してくださるのならば、何もしなくてもよい、ということではありません。
神が絶対的な主導権をもって、すべての働きを導いてくださるからこそ、どんな失敗も恐れずに挑戦していくことができるのです。
そんな喜びと期待を胸にして、主の家を建てるわざ、主の町を守るわざに、私たちも加わっていきましょう。

posted by 近 at 17:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ
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