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2019.3.24「主を恐れる者の幸い」(詩128:1-6)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
教団から「異端警戒情報」ということで、某団体の集会チラシが送られてきました。(著作権の問題から、当初掲示していた画像を削除しました)
主催者は、韓国の異端である救援派(クウォンパ)の一派、喜びのニュース宣教会に属します。
ウィキペディアからそのまま引用ですが、以下のリンク先にて、その異端性が警告されています。
韓国新興異端がイベントに勧誘:クリスチャン新聞(2012.4.11)
韓国異端リーダーの大会案内に注意!:クリスチャン新聞(2013.9.11)
新興宗教の最高指導者だった韓国沈没船の実質的オーナー:やや日刊カルト新聞(2014.5.2)
韓国異端グループの勧誘活発化 集会案内に注意喚起!:クリスチャン新聞(2018.9.1)

開催地に新潟は含まれていませんが、また別の異端については新潟市内でも報告が入っております。
聖書的かそうでないか自己吟味できるようにするために、礼拝説教や聖書の学びが必要なのですが、
「本当のクリスチャン」という甘言につられて、成長に至るまでに絡め取られてしまう例も多くあります。
豊栄キリスト教会は正統的プロテスタント教会ですから安心ですよと言いたいところですが、
福音派もまた、時代の流れの中で急成長した群のひとつ。看板だけに頼っていたらいずれ堕落します。
あれ、また辛口だぞ。とりあえず、ウチが正統か異端かどうかは、ここに集めた三百あまりの説教から判断してください。
ちょっとアヤシイのもいくつか含まれていますけどね。それを探すのもまた一興。週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』128篇1-6節 


1.
 以前、敬和学園のある先生が、「敬和学園は木を育てるように人を育てる」というタイトルで、次のように話されていました。
「人間にとって、生まれてから最初の5年間、どのように愛され受け入れるかということがたいへん重要である。
そしてその5年間は、「○○学校」ではなく、たとえば『乳児園』『保育園』『幼稚園』と、「園」という名前がついている。
それは、まさに木や草が園丁によって手塩にかけられて育っていくように、
人も人生の中で最も大事な時代、親を含めてまわりの大人たちから丹念に育てられ、養われていくことを意味しているのではないか。
敬和学園という名前の中に「園」が入っているのは、まさにここに導かれた子どもたちを私たちが丹念に育てるという教育者の決意である。
その意味で、敬和学園は、木を育てるように人を育てる。」

 この詩篇128篇は、神に祝福された人生を伝えています。その中では妻がぶどうの木に、子どもたちがオリーブの木にたとえられています。
どこか、先ほどの話と通じるものを感じませんか。神に祝福された生活とは何でしょうか。その中心にあるのは、家庭です。
じつは、家庭という言葉は日本だけのものです。英語のhomeやfamilyに、庭という意味の言葉は本来含まれていません。
home、あるいはfamilyを家庭と訳した最初の日本人は、もしかしたら聖書を読んでいた人だったのかもしれません。
日本語にも、家族を庭にたとえる考え方はなかったからです。しかし聖書には、家族を木々にたとえているところが多くあります。
いま、家族そして家庭が、その本来の意味を見失いかけています。
最近、「教会が子どもたちの居場所になるべきだ」という論調をよく聞きます。しかし彼らの本来の居場所は、家庭でなければなりません。
教会は、子どもたちにとって家庭が居場所として回復するためのお手伝いをするところです。
子どもたちだけでなく、親にとっても、祖父母にとってもそうでしょう。聖書は、家庭こそが祝福された人生の基であると教えています。

2.
 では、どうしたら、家庭が祝福された人生の基としての場を取り戻すことができるでしょうか。
聖書は、そのキーワードを私たちにはっきりと繰り返し伝えています。それは、「主を恐れ、主の道を歩む」ということです。
誤解を恐れずに言い換えるならば、どんなに幸せな人生のように見えても、主を恐れていなければ、その幸せは偽りです。
ある有名なカウンセラーによれば、人の悩みは、次の三種、カネ、モノ、ヒトに集約されるそうです。
カネとモノについては説明の必要はないでしょう。ヒトには、他人との人間関係だけでなく、自分の病気や生きがいなども含まれます。
しかしそのカウンセラーによると、どんなカウンセリングも、これらの問題について直接介入することはできない、
ただできることは、これらは自分の手ではどうすることもできない、と本人が認め、心と手をそこから離すようにさせることだけだ、と言うのです。
なんだ、気休めか、と思われるかもしれません。
しかし私の人生は私のコントロールのもとにはなく、もっと大きな存在によって導かれているのだ、ということへと繋がっていく方もいるのです。
それは、まさに聖書が言う、「主を恐れる」ということへの入口ではないでしょうか。
この「恐れる」は、かつての私たちが神と信じていた、偶像の前で感じていた、得体の知れない物への恐ろしさとはまったく異質なものです。
「主を恐れる」とは、まことの神を知っているからこその恐れです。私を無条件に愛し、どんなことがあっても捨てないと約束してくださっているお方。
私を罪と滅びから救い出すために、十字架で身代わりになってくださったお方。私たちはその恵みを知ったからこそ、正しく主を恐れています。
主をまず私たち一人ひとりが知り、恐れ、愛するとき、この詩篇が約束しているとおり、私たちの労苦の実は無駄になることがありません。
 この詩篇128篇の1節で語られている、「主を恐れ」と「主の道を歩む」という二つの言葉は、それぞれが車の両輪のようなものです。
主を正しく恐れる人は、主が示された道に自分から進んでいきます。そして主の道を歩み続けるなら、さらに主への恐れは正しくされていきます。
私たち一人ひとりが、自分自身に与えられた恵みをかみしめましょう。私を救うために、主はどれだけの犠牲を払ってくださったのか。
私の今までの生涯の中で、主は私の数々の罪をどれだけ耐え忍んでくださったのか。
ここで言われている「主の道」は、一本ではなくて、複数形です。生活のあらゆるところに、主の喜ばれる道が満ち満ちています。
私たちがその道一本一本を、みことばにしたがって選び、歩んでいくならば、神は必ず私たちの家庭を祝福してくださいます。

3.
 最後に、この詩篇のなかで繰り返し語られている、「食事」についてともに分かち合いたいと思います。
2節をご覧ください。「あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。」
また3節の後半にはこうあります。「あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。」
そして4節ではこう結論されます。「見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。」
現代は、家庭の中で、ともに食事をするというのが軽んじられている傾向にあります。
しかし家庭の祝福とは、まさに家族がいっしょの食卓を囲み、同じ食べ物をいただくということに現れるのではないでしょうか。
古代においては、飢饉や洪水、その他作物の出来不出来で、食べ物が手に入らないということは、日常茶飯事でした。
現代の日本では、そこまでではないとしても、同じ食卓を囲めないというのは、理由はどうあれ、やはり家庭の痛みであると思います。
 私が教会を初めて訪れたのは高校生の時でしたが、礼拝が終わったらさっさと家に帰りたいという、今どきのクチでした。
ところが礼拝が終わって帰ろうとすると、必ず「ご飯食べてけ」と言われて引き留められるのです。
よっぽど腕に自信があるのかなと思うと、漬物とかおひたしとか、いまどきの高校生が喜ばないようなものが並べられる。今だから言うけど。
お寺とか神社の延長線上で教会を考えていましたので、基本的に食べたりしちゃいけないところなのかと思っていました。
しかし月初めには聖餐式というのがあって、礼拝式の最中に、少量ですが、食べたり飲んだりする。これも不思議でした。
また礼拝の中で「主の祈り」というのを毎週唱えるのですが、「われらのにちようのかてをきょうもあたえたまえ」というくだりがありました。
最初聞いたとき、日曜日の昼ご飯がそんなに待ち遠しいのかと思いましたが、
後で文章を読んだら、日用というのは日曜日じゃなくて毎日のことだと知って、ちょっとした赤っ恥を掻いたのを思い出します。
こうしてみると、キリスト教会は「食べる」ということを伝統的にものすごく大事にしているわけです。
 韓国人のクリスチャンがよく話す、天国のジョークがあります。
韓国は日本と同じように、箸を使う文化ですが、天国で兄弟姉妹が一緒のテーブルにつくとき、ものすごく長い箸を使うのだそうです。
食べ物を自分の口に運ぼうとしても、長すぎて無理。だけどテーブルの向かいや隣の人の口にあーんとするにはちょうどよい長さ。
自分のために生きるのではなく、他人のために生きるというのが食卓に表れる、これもじつにキリスト教らしいと思います。

結.
 一緒に食事の席につけばそれでよいということではありません。
けれども、家族がともにひとつの食卓を囲み、ともに食事ができることを喜ぶ姿は、神に祝福された家庭、家族を象徴しています。
たしかに日本だけでなく、世界中に、一緒に食事をするという文化はありますが、
家長よりも先に手をつけると怒られたりとか、さまざまなマナーがあったりと、窮屈な感じは否めません。
でもイエス・キリストを信じる者たちの食事には、自由があります。
緊張することなく、同じテーブルにイエス・キリストがおられるという確信をもって、どんなことでも分かち合うことができます。
この詩篇の5節、6節をかみしめましょう。
主を恐れる人が、家庭で受け取っている祝福が、シオン、エルサレムへと広がっている姿が描かれています。
そしてあなたの子らの子たち、と、よき妻、よき子どもたちの祝福が、孫の世代へと広がっています。
今日の説教の最初のほうで、家族の居場所は、本来家庭であるべきだという話をしました。教会はそのお手伝いをするのだ、と。
家庭から社会へ、社会から家庭へ。神がこの世界を祝福される循環の中心で、教会が中継点としての役割を果たします。
いま、この礼拝を通して、家庭から社会へ、社会から家庭へ祝福が流れていく道筋を、自分自身の生活を通して生みだしていくのです。
一人ひとりが、主を正しく恐れ、主の道を歩み、その家庭が祝福され、この世を潤していくことができるように。お祈りいたします。

posted by 近 at 17:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ
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