こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。
聖書箇所 『詩篇』130、131篇
1.
星野富弘さんという方をご存じの方も多いと思います。
若い頃、小学校の教師でしたが、不慮の事故により首から下の自由を失いました。人生に絶望し、何度も死を考えたそうです。
しかし数年間の苦しみの果てに、イエス・キリストを信じた富弘さんは、口に絵筆をくわえて花の姿を描くようになりました。
富弘さんが1981年に出した、はじめての詩画集のタイトルが、今日の聖書のみことばにもある、「愛、深き淵より」というものです。
その本のまえがきで、富弘さんがこう書いています。
「今、もう一度振り返ってみると、深き淵には、澄んだ美しい水が湧き出ていたような気がします。この本は新しい私の出発点です。」
聖書の中には、「深き淵」という言葉が繰り返し出てきます。そのほとんどが、神との断絶を表す、絶望を指しています。
富弘さんもまた、この詩人と同じように、深い淵から神を呼び求めました。
その中で、神が叫びに耳を傾けてくださる愛の方であることに気づかされたのです。
130篇の1節、そして2節をもう一度お読みします。
「主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。」
この深い淵の中に満たされている水の黒さは、じつのところ、自分自身の心の中にある闇の色です。
苦しみの中で、私たちは自分自身の本当の心と出会い、そこにうごめいている、自分自身の罪と向き合うことになります。
しかしその経験があって、はじめて、神の愛がいかに底のないもので、私たちの想像を超えているほどのものだということに気づくのです。
3節をお読みします。「主よ、あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう」と。
「不義」とは「罪」と言い換えることができます。ある人は、自分にも罪はあるかもしれないが、あの人に比べたら少ない、と言うでしょう。
自分はまったく罪を犯したことがない、と言い張る人さえいるかもしれません。
しかし聖書は、私たちは生まれながらに罪人である、と言います。ただ自分では気づかず、見えないだけなのです。
罪は、私たちが考えている以上に、心の中にうごめいています。
そして罪は、どんなに他人にはうまく隠しているつもりでも、確実に自分を傷つけ、周りを汚し、腐らせていきます。
2.
ところで、神は人の不義に目を留めず、そして赦してくださる、と詩人は告白しています。
しかし本当でしょうか。神とはそんな都合の良いお方なのでしょうか。私たちが幼い頃から教えられてきた神は、そうではありませんでした。
いつも私たちを見張っていて、何か私が悪いことをしたら、待ってましたとばかりにバチをあててくるような、そんなものでした。
しかしどうか忘れないでください。ただひとりの、まことの神は、私たちの罪をさばくことよりも、罪を赦すことに命をかけておられるお方です。
まことの神、イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかってくださいました。そこに神の愛が表されています。
もし私たちが、自分の罪を神様に告白するならば、神様は必ず赦してくださいます。聖書の神は赦す神です。
キリスト教以外の宗教は、「罪の赦し」を報酬として教えます。
よい行いをすれば、たくさん寄付すれば、先祖を大切にすれば、その報酬として、あなたの罪を赦そう。どの宗教もそこに落ち着きます。
しかしキリスト教だけは、罪の赦しを報酬ではなく恵みとして教えます。恵みとは、受け取る資格のない者に与えられるもののことです。
私たちはだれもが罪人です。自分では至極まともな人間と思っていますが、実際には赦される資格のない罪人として生まれてきました。
イエス・キリストが私の代わりに十字架でさばきを引き受けてくださったということを信じるならば、私たちは赦されるのです。
昨日、教会のメールアドレスに、英語のメールが届きました。差出人は、なんとかという外国の銀行の頭取からです。
何でも、その銀行の顧客に、身寄りのない資産家がいたが突然亡くなったそうで、その遺産相続について相談したいとのことでした。
いわゆる迷惑メールです。こんな内容に騙される人がいるかどうか知りませんが、個人情報を聞き出そうとするものです。
くだらないといえばくだらない。しかし考えてみたら、イエス・キリストを信じるだけで罪が赦される、というのも同じくらいいかがわしいものです。
それでも私たちがイエス・キリストを信じるのはなぜでしょうか。あるいは、信じたのはなぜでしょうか。
そこには、罪の赦しというものをどう考えているか、いや、罪をどう受け止めているか、ということです。
自分には罪などない、赦される必要などない、そう考えている人にとって、聖書のメッセージは、迷惑メール以下の内容でしかありません。
しかし、自分の心の中にある罪を知った者。この罪が私の人生を傷つけ、家庭を破壊し、喜びを奪い、さらに私の永遠の行き先も決めている。
私はこの罪から救われなければならない。そのために、このイエス・キリストが死んでくださったのだ。
聖書のことばは、私たちが信仰をもって受け止めるとき、たしかに私たちを罪から救い出し、永遠のいのちを与えてくれる、神の力です。
3.
先日、敬和学園大学の卒業式がありまして、同窓会長として三分程度のメッセージをする場が与えられました。
今回が第25回卒業式とあって、私が第1回の卒業生ですので、24歳離れています。これだけ離れると、もう何を言っても届きません。
どうせ届かないなら、好きなこと言ってやろうと思って、
「君たちはこれからは社会人だと思っているかもしれないが、実際には赤ん坊だ」と言ってやりました。
「私も赤ん坊。みんなが赤ん坊。どれだけ長く働いても、どれだけ年を重ねても赤ん坊。人生、いつでも自分は赤ん坊とわきまえなさい」と、
我ながらよくわからない話しをして帰ってきました。
自分を赤ん坊のようだとわきまえるとは、自分は何も知らないのだと受け入れることだと言いたかったのです。
実際、私たちは何も知りません。この世界が誰によって支えられているのか。
永遠無限なる神がこの世界を支えておられることを知ろうともせず、あたかも自分の努力によって世界は支えられているとさえ考えます。
救いについて知らないというのは、罪についても知らないということです。
罪について知らないというのは、落ち着いて、本当の自分を見つめようとしないということです。
この詩篇130篇、131篇は、二つに分かれてはいますが、そこに込められている叫びはひと続きになっています。
わがたましいよ、おまえは何も知らない。知っていたとしても、ようやく乳離れした子ども程度にしか、知らない。
誇らず、高ぶらず、ただひとりの小さな幼子として、主を待て。主の恵みを待て。主のみことばを待て。今よりとこしえまで主を待て。
私たちは、いまも自分自身についてよく知らないかもしれません。自分の罪を知らないだけではありません。
自分が本来神によって作られた、尊いものであることも知りません。だから人生に喜びがなく、人をさばいてばかり、ということもあります。
しかし神は、私たちにみことばを通して教えてくださいます。
イエス・キリストが、私たちを深い淵から引き上げて、永遠のいのちに至る道へと誘ってくださっているのだ、と。
いま、主の前に静まり、心を神様に向かって明け渡しましょう。
私のすべてを知っておられるお方が、私の罪には目を留めることなく、赦しと恵みを与えてくださることに感謝をささげましょう。
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