今週の礼拝では、役員就任式・CS教師任命式・子ども進級式(祝福式)を行いました。礼拝後は恒例の記念撮影です。
こういうのって、目線入れたりとかモザイクかけるべきなんでしょうか。ちょっとわかりません。
外部から来ている子どもは含まれていないので、いいのかわるいのか。
一脚だけ誰も座っていない椅子が気になりますが、人によってはイエス様が見えるかもしれません。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』23章32−49節
序.
遠藤周作の『沈黙』という小説を原作として作られた「サイレンス」という映画の中に、印象深い場面が登場します。
主人公である外国人司祭が、幕府の役人に捕らえられて、みずぼらしい牢屋のようなところに入れられてしまいます。
するとすでにそこにはやはり同じように捕らえられた日本人の信徒たちがいました。そしてその中のひとりが主人公にこう尋ねてくるのです。
「司祭様、私たちが殉教したあとに行くパライソは素晴らしいところなのですよね?」
「パライソ」とは、「天国」を意味するポルトガル語です。
そしてこの言葉は、新約聖書に三回だけ出てくる、「パラダイス」というギリシャ語から派生した言葉です。
「パライソは素晴らしいところなのですよね?」と聞かれたとき、この外国人司祭は、しばし何と答えて良いかわからず、沈黙します。
なぜ彼はしばらく言葉が出なかったのか。それは、彼らはパラダイスを死んだ後に行くところとは教えていなかったからです。
パラダイスは、信じた者にすぐに起こる新しい生き方です。死んだ後ではなく、信じたときに生まれる、新しいいのちそのものです。
しかし日本人の信者たちはパラダイスを浄土真宗で言う「極楽」と混同して受け止めていました。
遠藤周作がこのやりとりの中に含めたメッセージは、たいへん辛辣なものであると言えるでしょう。
いまも日本のクリスチャンは、彼らと変わらないのではないか。パラダイスを死んだ後に行く世界と考えているのではないか。
むしろ信じたときに確かに起こる、人が内側から変えられる奇跡そのもの、それが「きょう、パラダイスにいます」という言葉のまことの意味です。
1.
十字架の上でのやりとりのなかで、信じたほうの犯罪人の一人は、イエスに向かってこう呼びかけました。
「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思いだしてください」。
この犯罪人もまた、日本人キリシタンと同じでした。イエスが御国の位に着くのは、自分たちの命が終わった後だと考えていました。
しかしイエスはその呼びかけにこう答えられました。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」。
イエス様は、パラダイスは「きょう」と言いました。しかし十字架刑の特徴は、死ぬまでに何日もかかるというところにあります。
十字架にかけられて、「きょう」すぐに絶命するということはあり得ないことでした。
イエスがわずか6時間で息を引き取ったのは、それが神ののろいを全人類にかわって引き受ける特別な役割を果たされたからです。
しかし通常の十字架刑は、気が狂わんほどの激痛を、一週間、二週間と長く与え続けることが目的の処刑方法でした。
この犯罪人も、イエスが十字架からとりおろされた後も数日間、もだえ苦しみ続けたことは間違いありません。
しかしイエスはそれにもかかわらず、「きょう、あなたはパラダイスにいます」と答えられました。
「きょう」が死んだ後のことを指していないことは明らかです。「きょう」とは、信じた今このときということです。すでにあなたはパラダイスにいます、と。
自分には救いが必要だということを認め、キリストだけがそれを与えてくれることを信じた者は、
たとえからだは十字架にしばりつけられていたとしても、どんな苦痛に支配されていたとしても、いまパラダイスにいるのだ、ということです。
イエス・キリストを信じる者はもはやパラダイスにいる。これは信じていない人からは笑われてしまうに違いありません。
事実、この犯罪人はイエスを信じたからといって痛みがひくわけでも、十字架から抜け出せるわけでもありませんでした。
しかし彼はイエスが取り下ろされたあと、自分自身の死へのカウントダウンが始まるなかでも、ただキリストのことばだけにすがりついたことでしょう。
すがりつく、ということばはいささか語弊があるかもしれません。むしろ信じたものは、喜んでキリストに身も心もゆだねるものになります。
この数時間後に絶命するイエスも、これから何日か後に絶命するこの犯罪人も、世間から見たらあわれな死に様としか見えなかったでしょう。
しかし、信じた時に確実に救いは現実のものとなっていたのです。
驚くべきことですが、この犯罪人こそ、キリストがはっきりとパラダイスという言葉を約束した、最初のクリスチャンでした。
そして、この一人の犯罪者に起こったことが、すべての信じる者にも起こります。信じたときすでに、私たちは主とともにパラダイスにいるのです。
2.
しかし聖書を丹念に遡ってみると、この犯罪人もはじめからイエス様を信じていたわけではなかったということがわかります。
はじめのうちは、十字架につけられたもうひとりの犯罪人といっしょになって、彼もイエスを嘲っていました。
しかしイエスは、その嘲りにひと言も反論されませんでした。むしろ、自分を十字架につけた者たちのために父なる神に祈りました。
彼がいつ、嘲る者から信じる者へと変えられたのかはわかりません。そこには、神さまだけが知っておられる、神のご計画があります。
そして私たちにも、必ずその神のご計画に従って、信仰と救いへと招かれるときが用意されているのです。
それが今日ではないと、どうして言い切ることができるでしょうか。神のご計画は、いつも私たちの予想のはるか斜め上にあります。
現代の歴史の教科書でも、イエス・キリストを実際に存在し、十字架に確かにつけられた人物として認めています。
しかしなぜイエスが自分から十字架刑に進んで行ったかについては、もちろん書かれていません。
何のためにイエス様は十字架に向かっていかれたのでしょうか。
それは、私たちすべての人間が本来受けるべきであった十字架刑を、身代わりとして受けてくださったのです。
すべての人間は罪人です。たとえ犯罪行為はコントロールできたとしても、心のうちに湧き出てくるものを抑えることはできません。
だれの心の中にも生まれた時から眠っている、人へのねたみ、怒り、憎しみ、自分でも押さえたくても押さえきれない感情があります。
しかしこれさえも罪の正体ではなく、罪の原理が生み出すものにすぎません。
だとしたら、私たちの心の中にはいったいどれだけの、まったく得体の知れない悪と罪が潜んでいることでしょうか。
私が初めて教会に導かれてから、実際にイエスを救い主として信じるまで、約一年間ほどかかりました。
頭では、つまり知識では、キリスト教の教理はすぐにわかりました。しかし理解することと、信じることの間には天と地ほどの開きがあります。
聖霊、すなわち神がその心に働いてくださるまでは、
イエスが十字架で死なれたのはほかならぬ自分自身のためだということがどうしてもわからない、いや受け入れられないのです。
イエス・キリストを十字架につけたのはほかならぬ自分自身の罪だということも、神が心に働いてくださるまでは、受け止めることができません。
しかし神がその心に働いてくださるとき、その人が今までどんな生涯を送り、いまどんな問題を抱えていたとしても、内側から変えられるのです。
3.
イエスが十字架にかかられるとき、全地が暗くなったと、福音書は伝えています。そのとき、世界のあらゆるものが闇に包まれました。
そしてその日、闇に覆われた世界の中で、イエスの十字架だけが光り輝いていました。
そして今日も、私たちの心の闇を照らすことができるのは、イエスの十字架しかありません。
私たちの心の中を覆っている、自分でもどうすることもできない闇。その闇を取り去るために、イエスは死んでくださいました。
イエスの十字架の苦しみは、他の誰でもない、私のためであり、あなたのためです。
私のために、あなたのために、すべての罪ある者にいのちを与えるために、イエスはあなたの代わりに十字架についてくださったのです。
イエスが十字架にかけられたという事実を知っただけでは、救いは私たちのものにはなりません。
私たちが自分の罪を認め、キリストが十字架で死んでくださったのは私のためだと認めるとき、救いは私たちのものとなるのです。
信じるまでに早すぎるとか、信じるには遅すぎる、などということは決してありません。
キリストはあなたのために死んでくださいました。そして私たちに命がけで本当の愛というものを教えてくれました。
今日が救いの時です。そして一度キリストが与えてくださった救いは、決して二度と取り去られることはありません。
イエス・キリストを心に受け入れましょう。そうすれば、私たちはきょう、パラダイスにいるのです。