先週はブログを更新することを忘れていました。我ながらこのモティベーションの低さ。継続が危ぶまれます。
さて、もう明日に迫ってしまいましたが、今年もNBIバザーで茶会をやります。
今回のポスターは、フォントは「エヴァ文字」で有名なマティスEBを縦110%、横90%で雰囲気を出してみました。
茶会のイメージは、歴史シミュレーションゲーム「信長の野望」からです。許可をとっていませんが。
てなわけで、来てね。週報はこちらです。


聖書箇所 『マルコの福音書』16章1−8節
1.
イースターおめでとうございます。「あけましておめでとうございます」ではありませんが、
いつか日本中でイースターおめでとうございますという挨拶が飛び交うようになればよいと思いながら、いつもこの時期を迎えていました。
しかし少しずつですが「イースター」という言葉が、日本でも知名度を上げて来たように思います。
数年前ですが、スーパーで妻がプリンを買ってきたら、かわいいウサギの絵が描いてあって、「イースター」と書いてありました。
何でも卵をウサギが運んでくるからだそうです。
じつは聖書の中ではウサギもたまごもほとんど出てこないのですが、まあ良しとしましょう。
ウサギはともかく、卵は、いのちがその中に詰まっているものであり、古来よりキリストのよみがえりの象徴とされてきました。
イースターとは、キリストのよみがえりのことです。
そしてキリストのよみがえりは、キリストの十字架と表裏一体、どちらが欠けても救いは成り立ちません。
イエス様は、私たちが受けるべき罪の罰の身代わりとなって、十字架の上で私たちのために死んでくださいました。
私たちは「死」が当たり前の世界に住んでいるので、死の本質に気づかないかもしれません。
聖書は、死は罪の報酬であると言っています。
ひらたくいうと、私たちは生まれつき罪人であるがゆえに、生まれたときすでに死に囲まれています。
しかしキリストは死んで三日目によみがえり、墓の中から出てこられました。
それは、キリストが死を打ち破ったこと、ひいては死の根源である罪を打ち破ったことを意味しています。
きょうは、イースターであると同時に、私たちの教会にとっては、先に天に召された信仰者の方々をおぼえる日でもあります。
愛するあの方々は、確かに死んでいきました。私が葬儀をしたのです。
しかし肉体は死にましたが、信仰によって今も生きています。
イースター、それは私たちが信じたイエス・キリストが、確かに十字架で罪を打ち破り、確かに復活で死を克服したことを表すものです。
そしてこのキリストを救い主として信じる者は、死んでも生きるのです。そのことを私たちは改めて信じましょう。
2.
まず、1節をお読みします。
「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った」。
「油を塗りに行こうと思い」というのは、ちょっとゆるすぎる翻訳に思えます。
原文では「塗りに行こうと思い」ではなく、はっきりと「塗るために」という決意を表しています。思いつきではなく、命がけの行動でした。
というのは、ユダヤ人たちは、弟子たちがイエスの死体を盗まないように、墓の周囲をローマ兵たちに見張りをさせていました。
もし彼らに見つかれば決して無事にすみません。危険と隣り合わせの状況です。しかし彼女たちは向かったのです。
ただ、イエスの亡骸に油を塗るために、そのひとつの目的のために、彼女たちは危険を顧みずに墓に向かいました。
しかも、万に一つ番兵をやり過ごすことができたとしても、墓の入口は女性では動かせないような大きな石で塞がれているはずです。
これも無計画と批判することもできましょう。しかし油を塗るために、ただ油を塗るために、彼女たちはとにかく進んでいきました。
私たちがイエス・キリストに近づくならば、神は不可能と思われる道を開いてくださいます。
しかし実際には、人は自分の力では神に近づくことはできません。生まれつき、罪によって目が曇らされているので、神がわからないのです。
だから私たちがイエス・キリストに近づくことができるのも、それは神が私たちをそのように導いてくださればこそ、ということになります。
人生には苦しみがつきものですが、たいがいの苦しみは、じつのところ時間が経つと何とかなってしまうものです。
ところが、それまでの自分の経験が一切通用しないような困難がときおり起こります。
それは病気であったり、災害であったり、さまざまで、しかもほとんどの人は、それらをとんでもない不幸がふりかかったと考えてしまいます。
しかしじつはこれらの途方もない困難こそが、神様が私たちの目を開かせて、圧倒的に人生が変わっていくことへの入口にほかならないのです。 途方もない困難が起きたとき、人は自分の力を超えた圧倒的な存在にすがらずにはいられません。
しかしそれは敗北ではなく、この世界と私自身を造ってくださった唯一の神のもとへと戻っていく、永遠の勝利への入口です。
墓にその名が刻まれた先輩方も、その入口を通り抜けて神を信じ、そして喜びに包まれながら肉体の死という出口を通り抜けて行かれました。
人生80年、永遠の視点から振り返ってみれば、入口から入ったと思えばすぐに出口から出て行く、せまい小部屋のようなものです。
しかし入る部屋だけは間違えてはいけません。神、すなわちイエス・キリストの招きに気づかないまま、この短い人生を終わってはなりません。
私たちも、また私たちの先輩たちも、このイエス・キリストを信じました。
残された者は、愛する者がその人生をかけて選んだお方が本当にそれに足る者なのか、自分の眼をしっかりと開いて見つめなければなりません。
3.
この女性たちはイエス・キリストがよみがえられるという信仰は持っていません。しかしイエス・キリストを愛してやまない信仰を持っていました。
途方もない困難の中で、それでもイエスを愛してやまない彼女たちは、墓へと向かっていきました。しかしなんということでしょうか。
見張りの兵士は逃げていなくなり、石のふたは開かれていたばかりか、天使からキリストがよみがえったという知らせを直接受け取りました。
にもかかわらず、彼女たちは恐ろしくて逃げてしまい、だれにも話さなかったというのです。どうやって説教をまとめたらよいか、ちょっと困ります。
しかし言わなかったのは初めだけでした。やがて彼女らは立ち上がり、イエスがよみがえったことを力強く伝えていきました。
「恐ろしかったからである」ということばは、復活とは、本来それほどまでに恐ろしいものなのだということを表しています。
一度完全に死んだ者が再びよみがえる。それは人間の常識では信じられないことです。
危険を顧みずに墓へ向かった彼女たちの信仰がどれほど愛に満ちたものであったとしても、やはり復活は人智を超えた恐ろしいできごとでした。
私たちの理解を超えた出来事にまみえるとき、人は心臓を掴まれるように感じて、恐ろしくなります。
そうです、神は私という小さな存在をいつでも握りつぶすことができるほどの力を持っている、恐ろしいお方なのです。
しかし神は、恐ろしさ以上に愛にあふれたお方です。神のひとり子イエス・キリストを十字架につけることで、私たちを救ってくださいました。
かつての私たちは、ちっぽけな自分自身から溢れてくる、罪の数々、死への恐れに対して、右往左往していたような者でした。
しかしこの神の大きさを知りました。その気になれば私たちは握りつぶされても不思議ではない、恐ろしい方であることも示されました。
この方が私たちの味方なのです。であれば、神以外に、何を恐れる必要があるでしょうか。イエスの復活は、まさにその喜びをあらわす日です。
復活を信じるとき、自分の生活を手放したくないという恐れは、キリストのために自分をささげたいという喜びに変わります。
回りの人に白い目で見られるんじゃないかという恐れは、このいのちの主を回りに伝えたいという喜びに変わります。
キリストを信じたい、だけど私の中には恐れがあるという人がいるでしょうか。一歩ふみだすのです。
あの女性たちが恐れをもちながらも、イエスを慕って墓に向かったとき、神は既に道を開いてくださっていました。
最初は恐れに支配された彼女たちも、やがてその恐れが喜びに変わり、弟子たちにその喜びを伝えました。
このイエス・キリストがあなたの人生を根底から変えて、永遠のいのちを与えてくださることを心に刻みつけていきましょう。