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2018.4.28「賛美がのろいを飲み込んだ」(詩137:1-9)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
本日のニュース記事に「ホリエモンロケット、打ち上げ成功 民間単独で国内初」という見出しが躍っていました。おめでとうございます。
ホリエモンは青年時代にアニメ「オネアミスの翼」を見て以来、ロケットの打ち上げを夢見ていたと聞いたことがあります。
彼と同年代である私も高校生のとき、新潟市の映画館で5回これを観て、人生が変わったと言っても過言ではありません。
ただしホリエモンがロケット発射へのストーリーに注目したのに対し、私は別のところに影響を受けました。
ネタバレ注意ですが、主人公であるシロツグ(声:森本レオ)が路傍でリイクニという少女からいわゆるトラクトを受け取ります。
求道者を装いつつ、その子目当てに教会(?)に入り浸る中、ロケット打ち上げ計画に巻き込まれていく・・・・
(というか、彼女に良いところを見せようと自分から言い出しっぺになる)ストーリーが、当時の私にとって他人事と思えませんでした。
シロツグとリイクニはその後あれやこれやありましたが、結局、思いが結ばれることなく、危険な打ち上げへと向かいます。
信仰をカモフラージュしているように見えた彼でしたが、最後にはロケットの中で、人類に対する赦しと守りを「神」に祈るシーンが印象的です。
(といっても死んでしまうわけではなく、エンディングのラフ画からすると、ちゃんと帰還したようです)

音楽はあの坂本龍一、制作は後にエヴァンゲリオンで社会現象を起こした面々ですので、紛れもない名作です。
ふだんアニメなど見ないクリスチャンの方に一度は観て頂きたいと思いますが、感想には個人差があるでしょう。
しかし少なくともホリエモンと私はこの作品で人生が変わりました。勝手に友だちのように扱ってしまってすみません。
週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』137篇1−9節


1.
 県外から友人が来たときに一番困るのは、新潟市の観光名所に連れて行ってくれと頼まれることです。
もと新潟市職員の私が言うのも何ですが、新潟市の名所って何だろ、と本気で悩んでしまいます。
マリンピア日本海、新潟ふるさと村、朱鷺メッセ、他にもいろいろありますが、平成になってできたものばかりです。歴史的名所とは言えません。
豊栄に住むようになって、河川蒸気というお菓子を知りました。そのパッケージに、川を悠々と進む蒸気船が書いてあります。
聞いたら、戦後しばらくまでは、こんな光景が新潟の川にはあったそうで、とくにむかし新潟市の中心部には、堀が張り巡らされていたそうです。
ところが昭和39年の新潟国体の前に、堀を全部埋め立てて、道路にしてしまった、と。なんと勿体ない。
堀を残しておけば、それだけでりっぱな観光資源になり、県外から来た友人も小舟に乗ってご満悦、となったのではないかと思います。
 じつはバビロンという町も、水路が張り巡らされた都市であったと言われています。
1節をお読みします。「バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた」。
異国の町、柳の木が植えられた水路のそばで竪琴を奏でる人々の姿、何かロマンチックな場面に思えますが、そこには痛みがありました。
エルサレムの人々は、このバビロン軍に町を滅ぼされて、このバビロンに強制的に移住させられていました。
そしてエルサレムから連れてこられたひとりであるこの詩人は、バビロンの人々から、故郷の歌を歌ってみろと言われたのでしょう。
しかしシオンの歌、つまりイスラエルの歌は神をほめたたえる賛美です。それは神にささげられるために作られ、歌われたものです。
決して宴会の余興で歌えるようなものではない。そこで詩人は、木に竪琴をかけて、歌を拒絶し、バビロンの人々は彼を嘲りました。
 しかし詩人は、彼らの前では歌うことを拒みましたが、その一方で、決して神への賛美を忘れまいと心に誓いました。
5節から6節にはこうあります。「エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右の手がその巧みさを忘れるように。
もしも私がお前を思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。」
イスラエルの人々は、故郷エルサレムとはまったく風土の違うバビロンという異国で、まるで奴隷のように明日の見えない生活を過ごしていました。
その中で、唯一彼らの心の支えになっていたものは何でしょうか。それは、エルサレムに対する、たぎる思いでした。
エルサレムという町そのものをほめたたえるのではありません。エルサレムを神の都として建ててくださった、神への賛美。神への感謝です。

2.
 私たちは、この詩人と同じ時代には生きていませんし、同じ状況に置かれているわけでもありません。
しかし、どんなに苦しいときであっても、そこで私たちを支えることができる力は、主イエス・キリストに対する賛美、感謝です。
苦しかったら賛美できない。苦しかったら感謝できない。人はそう考えやすいものです。しかし果たして本当にそうでしょうか。
人は食べ物や持ち物に満ちあふれているときではなく、むしろ欠けを感じているときにこそ、神へと心が向けられていくのです。
 どんな苦しみにも必ず出口があります。だからこそ私たちは、次のことをおぼえるべきでしょう。
出口はある。そしてそれまでの困難な道のりの中にこそ、ふだん見えないものが見え、学ぶことができないものが学べる機会がある、と。
そのようなかけがえのない時として、神が私をより神にふさわしい者としてととのえてくださるのだと信じたい、信頼したいものです。
余談ですが、最近視力がとみに弱ってきて、眼鏡を作り直しました。今までのと違い、遠近両用のレンズで、うん万円しました。
遠くの小さい文字がよく見えます。ところが足元を見ると床や道路が盛り上がって見えます。
うん万円しましたので、レンズが安物ということではありません。これぞ本当のメガネ族の苦しみなのです。
遠近両用といっても、どっちも100%よく見えるというわけではない。遠くを見るためには近くを犠牲にし、近くを見るためには遠くを我慢する。
そんなわけで、歩いているとき、下を見るとゆがみますので、足元を見なくなりました。最初はおっかないと思いましたが、そのうち脳が慣れます。
この経験から、私は信仰について考えさせられました。
信仰によってはるか将来に約束されたものを手に入れるためには、近くのものを犠牲にしなければなりません。
目の前のものに執着する生き方を指して、近視眼的、ということがあります。
私たちはその逆で、永遠の神を信じて、神の永遠の視点を手に入れ、無限の神を信じたとき、有限の所有物にこだわらなくなりました。
イエス・キリストを信じて救われたことは、はるか将来に約束されたものから目を離さずに生きていくためのメガネにたとえることができます。
このメガネをかけながら、自分の生活、つまり足元にあるこまごまとしたものをじっと見つめようとしても、歪んだ像を描くだけです。
足元を見ないと転びやすくなるでしょうか。信仰のメガネをかけると、足元ばかり見ている方がはるかに転びやすくなるのです。
キリストは、私たちが信仰から目を離さずに歩んでいくならば、必要なものは心配しなくてもすべて備えられると約束してくださいました。
メガネを外すと何も見えません。遠くのものと近くのもののどちらがよく見えた方がよいかと問われたら、私は躊躇なく遠くのものと答えます。
信仰の世界に当てはめてみれば、はるか遠くにある、しかし確かに約束されているものが見えていれば、そこに賛美と感謝が生まれます。
私たちが遠くのものから目を離さないかぎり、私たちではなく、神がそれらを解決し、いちばん必要な道を備えてくださいます。

3.
 しかしこの詩篇の最後には、なんだか恐ろしい言葉が並んでいます。7節から9節までをお読みします。
「【主】よ。エルサレムの日に、「破壊せよ、破壊せよ、その基までも」と言ったエドムの子らを思い出してください。
バビロンの娘よ。荒れ果てた者よ。おまえの私たちへの仕打ちを、おまえに仕返しする人は、なんと幸いなことよ。
おまえの子どもたちを捕らえ、岩に打ちつける人は、なんと幸いなことよ。」
 エルサレムの都がバビロンに滅ぼされたとき、もともと祖先は兄弟同士であったエドム人は、イスラエルの不幸を喜びました。
エドムの子らであろうが、バビロンの子らであろうが、おまえたちに復讐するものは、なんと幸いなことよ。
新約聖書には、イエス・キリストが十字架の上で、罪人のために神に赦しを祈ったことばが記録されています。旧約新約の違いこそあれ、
「おまえの子どもたちを捕らえ、岩に打ちつける人は、何と幸いなことよ」というこの祈りが、同じ聖書の祈りなのか、と混乱せざるを得ません。
しかしその両極端の姿こそが、どのような罪人をも救おうとされた、神の真実な愛が表されているのだということを知りましょう。
私はイエス・キリストの十字架を信じました。イエスのように敵のためにゆるしを祈る道を知りました。またそのように生きたいと願っています。
しかし同時に、自分の中には何十年経ってもいまだに許すことのできない相手や出来事があることを認めないわけにはいかないのです。
 私だけでなく、聖書は、すべての人間の心を映し出す鏡です。神は聖書を通して、それを読む者の内面、素の部分をえぐり出します。
そのうえで、たとえ私がどんな人間であったとしても、あなたを愛している、あなたはわが子どもなのだ、と神は確かに語りかけてくださいます。
イエス・キリストを十字架につけたのは私自身です。私の罪は、イエスの十字架以外には、決して拭い去ることはできません。
この詩篇の中には、神への賛美を何よりも大切にするすばらしい信仰の一方で、己の復讐心を抑えることのできない人の姿が現れています。
それは数千年前の、私の知らないエルサレムの詩人のものではなく、私の姿、そして私だけでなく、すべての人の心です。
しかしたとえそうであっても、私たちはイエス・キリストを信じるならば、心の二面性から解放され、完全に救われることができるのです。
過去の傷をいまだに忘れ得ず、赦すこともできない、か細い心だからこそ、キリストによる救いと解放を必要としています。
主に感謝しましょう。私たちに十字架と復活を示してくださった主をほめたたえましょう。この方を信じる者は、だれでも救われます。
どうか、一人ひとりが、イエス・キリストの恵みを受け取って、賛美、感謝、ゆるし、あらゆる恵みの中に生きることができますように。

posted by 近 at 21:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ
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