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2019.5.5「闇が闇でなくなる日」(詩139:1-12)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
私のパソコンには「G-DATAインターネットセキュリティ」というウイルス対策ソフトが入っているのですが、最近ブログを更新しようとすると、
不正コードが含まれているのでアクセスをブロックしました」というメッセージが出て、操作ができなくなってしまいました。
それで「さくらのブログ」の運営会社が対応してくれるのを待っていたのですが、ウンともスンとも。
どうもG-DATAのほうの誤検出のようで、ただでさえ一週間遅れの更新がさらに遅くなってしまいました。
こんなブログでも更新を心待ちにしてくださっている全国10人くらいの方々(推測)、たいへん申し訳ありません。
「さくらのブログ」はたぶん無実ですので、とりあえず安心してご閲覧ください。
「ドイツ生まれの、世界が認めたG-DATA」(某電気カミソリのキャッチコピーみたい)という宣伝文句に惹かれて信じていたのですが、
まことの神様以外には頼ってはならないということでしょうか。週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』139篇1−12節


1.
 新しい元号(げんごう)に入りました。
「令和」ということばは万葉集からとったそうですが、じっとこの漢字を見つめていましたら、すごい発見をしました。おそらく私が日本で最初です。
まずメガネをとります。そうすると令和という文字が、なんと「全知」、すべてを知るという二文字に見えてくるのです。それだけです。
しかしどうせ元号を探すならば、日本人しかわからない、というか、日本人でもほとんど知らない万葉集ではなくて、
世界共通のベストセラー、聖書を通読してそこから元号をとればよいのに、と思わされます。とりあえず私の中では、今年は全知元年です。

 さて、今日の説教のテーマはもちろん「神の令和」ではなくて、「神の全知」です。
神の全知とは、「神はすべてを知っておられる」という、まことの神が持っておられる特質を表すことばです。そしてそれは祝福に満ちています。
たとえこれからどんなことが起ころうとも、神がすべてを知っておられるというこの事実は、私たちが平安を受け取ることができる基盤です。
人生にはなぜ、どうして、理解できない、そんなことが数多く起こりますが、私にはわからなくても、主はそのすべてを知っておられるのです。
クリスチャンでも、いな、クリスチャンだからこそ、神さまの守りを実感できないような孤独と疑いの中での戦いも経験します。
しかし神は次に起こることをすべて知っておられます。そして私たち、神の子どもとされた者たちを決してないがしろにすることはありません。
どんな苦しみも、そこには意味があります。地上に起こるいかなる事柄も、神にとって想定外、などということは一切存在しません。
「主はすべてを知っておられる」。この「全知」という二文字からなる神のご性質は、冷たい神学用語ではなく、血の通ったことばです。
どんなにお手上げの事態の中でも、神が私たちの知らないところで、とっくに御手を動かしてくださっていることを確信、期待することができます。
だからこそ、クリスチャンはどんなに絶望的な状況の中でも、安心して悩むことができます。心ゆくまで悲しむことができます。
三浦綾子さんだったか、遠藤周作さんだったか忘れましたか、「安心して絶望できる」という状況が確かにあります。
reiwa_zenchi.jpg並べて書くとこんな感じ。ちなみにフォントは龍神改。


2.
 まず、詩人の最初の告白に耳を傾けましょう。
「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に、なんと【主】よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。」
神の前に、何も隠すことはできません。私たちは、すべてを神に知られています。
語ることばそのものも。そのことばを生みだした心の中の思いも。その思いに至らしめる原因となる、まわりの現実、状況も。
私たちに関するあらゆることを神は知っておられ、私たちは何も神さまの前に隠すことはできません。

 だからこそ幸いなのです。
なぜならば、神は私たちの心の中をすべて知っておられるにもかかわらず、私たちを完全に受け入れてくださっているからです。
自分の心の中が、他人が想像しているよりもはるかに汚いもので満ちていることは、自分自身が一番よく知っています。
しかし私自身の心の中のみにくさ、神は私よりもはるかにその事実を知っています。
知っているにもかかわらず、イエス・キリストは私のためにいのちを捨ててくださっただけでなく、私が生きるべき新しい人生を与えてくださいました。
「あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました」と詩人は告白します。
神の目を恐れる者たちには重荷でしょう。しかし神の子どもとされた私たちにとって、これほど幸いなことはありません。
天にも、よみにも、海の果ても、暗やみも、どこにでも主はおられます。私が途方に暮れる時にも、すぐかたわらに主はおられます。
私にとって明日はやみかもしれない。その次の日にはよみにいるかもしれない。しかしたとえそうだとしても、何も恐れなくてよいのです。

3.
 11節で、詩人はあえてこう叫びます。「おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ」。
彼は人生の奈落の底に自ら落ちて、さらにその底よりも深い闇の中に自分を埋めたいと思うほどの、苦痛と苦渋の中に蠢いています。
しかしその次の瞬間に彼はこう告白せずにはいられませんでした。
「あなたにとってはやみも暗くなく、夜は昼のように明るいのです。暗やみも光と同じことです」。
これは新改訳による翻訳ですが、私は新共同訳による翻訳、「闇もあなたに比べれば闇とは言えないのです」も好きです。
「闇もあなたに比べれば闇とは言えない」。
まさにそうなのです。私たちをどれだけ闇が覆っていたとしても、神に比べればそれは闇とは言えない。
聖書が私たちに教えている神は、闇を嫌われ、闇を避けられる方ではありません。
私たちに近づくためには、闇の中にも入ってきてくださり、闇の中で私たちを抱きかかえてくださる方です。
イエス・キリストは人々にこう語りました。「私は世の光です。私を信じる者は、決して闇の中を歩むことがありません」。
またイエスの12弟子のひとりヨハネは言いました。「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。」
しかし神の光は、闇を容赦なく切り捨てていく光ではなく、闇さえも優しく包み込んでいく光です。
もし神の光が、闇を単純にばっさばっさと切り捨てていく光であれば、どうしようもない闇を抱えている私たちには希望はありません。
しかしイエスの光は、人工的な、無機的な光ではなく、自然で暖かな光です。
朝日の光のように眠りから柔らかく起こし、夕日の光のように一日の労苦を後ろから優しく包み込んでくれます。
私たちの心の中には、闇があります。人に見せることのできない闇。自分でもどこまで深いのかわからない闇。
しかし神はその闇を優しく照らし出す。そのときに私たちにとって、闇は闇でなくなります。
私は牧師として、人生のどん底と見えるようなクリスチャンたちが、喜びをもって生きている姿を何人も見てきました。
闇が闇でないからです。神を知らない人には闇としか見えないものが、神を信じるときに闇でなくなるのです。
そしてイエス・キリストが十字架でご自分のいのちを捨てられたのは、闇が闇でなくなる人生をあなたに与えるためでした。
あなたが受けるべき罪のさばきをすべてイエスは引き受けました。闇が闇でなくなる。そんな人生を歩ませるために。

結.
 主はすべてを知っておられます。私は生きるにしても死ぬにしても、神の御手が届かぬ所に行くことは決してありません。
私を造ってくださった主は、私の命に全責任を負ってくださいます。
もちろん私たちは試練の中で神の愛を疑うこともあるでしょう。もういやだ、と神から離れようとすることもあるでしょう。
しかし神は、そんな私たちの弱さも知っておられます。そのために十字架があるのです。
神の愛にこれだけ取り囲まれていながら、それに気づかず、神など必要ないと言っていた私たちです。
その私たちのために、イエス・キリストは身代わりになって死んでくださいました。そして私たちに永遠のいのちが与えられたのです。
この方を信じる者に対して、神がその手を離すということは決してありません。
どうか、ひとり一人がイエス・キリストを信じることができますように。

posted by 近 at 20:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ
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