本日は(といっても現在の時点で六日前ですが)ペンテコステ特別礼拝でした。
教団が派遣している数組の国外宣教師家族からのビデオレターを視聴し、メッセージを語りました。
ビデオレターに関しては、宣教地が特定されると危険な場合があるかもしれませんので、アップを控えさせていただきます。
それと、もう明日に迫りましたが、TCU新潟地区支援会の特別講演会を行います。来てね!

週報はこちらです。
聖書箇所 『マタイの福音書』28章16−20節
1.
今、それぞれの宣教師家族からのビデオレターをご覧いただきました。
私たちが所属する、この日本同盟基督教団が、最初の海外宣教師を送り出してから、今年で55年になります。
ずいぶん昔のように思われるかもしれませんが、戦前から続く同盟教団の歴史に比べたら、始めるまでに時間がかかりました。
それは、今も聞こえてくる、クリスチャン自身の狭い考えにとらわれていたことは否めません。
国内宣教でさえ、まだ1%しか進んでいないではないか。海外に宣教師を送る予算と人材があれば、まず国内宣教に力を注ぐべきだ。
それが確立して余裕が生まれたら、海外宣教師を派遣すべきだ。
しかし55年前の教団理事たちは先見の明がありました。余裕が生まれるのを待っていたら、いつまで経っても派遣できなかったでしょう。
最初の派遣まで時間がかかったとは言え、55年にわたって着実に海外宣教師を送り、支えてきた、この教団の歩みを感謝します。
国外宣教は、すでに二千年前から、イエス様が私たちにゆだねられた働きです。
さきほど、司会者に呼んで頂いた聖書のなかで、イエス様はこう語っておられます。
「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」。
これは日本語では「大宣教命令」、英語では「the Great Commission」と呼ばれます。
Greatは「大」ですが、じつはCommissionには命令という意味はありません。
「委託」です。本来自分がする仕事を誰かに代わりにしてもらうということです。
このイエス様の言葉は、じつは命令ではないのです。ご自分がしたいと願っていることを、私たちに分けてくださったのです。
私は、救われたばかりの頃にこのみことばが大宣教命令と言うのだと知りました。
最初は、「命令」という言葉に心が震え、背筋がシャンとするのを感じました。しかしそのうち面倒くさくなり、背筋も丸くなりました。
なぜでしょうか。「命令」を果たせるだけの熱意も賜物も自分にはない、とあきらめてしまったからです。
代わりに、牧師や宣教師の皆さん頑張ってください、と考えて、献金を少し増やしました。
イエス様は、私の命令は重荷にはなりませんと聖書のどこかで約束しておられますが、実際重荷に思った人が実際いたわけです。
しかしイエス様は弟子たちに、命令ではなく、委託として宣教を任せられました。
「委託」という言葉は、「命令」に比べると、どうしても弱っちい響きがあります。
しかし「委託」には、それをやり遂げる力をはじめから認められているゆえの約束事というニュアンスがあります。
2.
牧師になる前、市役所に何年か勤めました。
私が担当する仕事の中に、地元の老人クラブと老人憩いの家の「管理委託契約書」を締結するというのがありました。
老人クラブの会長の家を回ると、「役所はこんな年寄りにまだ仕事させんかね」と軽口を叩かれましたが、
「いやいや、会長さんにしか任せられないからこそですよ」と言うと、みなさんまんざらでもない顔をされました。
委託というのは、相手の能力を認めたからこそできるのであって、そうでない相手とははじめから結びません。
イエス様の大宣教委託が、この世の委託契約と違っているのは、それが任せっぱなしということではないということです。
イエス様は天に上られましたが、私たちといつまでもいっしょにいてくださるお方です。
もしみなさんが、まわりのだれかに救いを語るとき、どちらかというと微妙な反応をされることが多いでしょう。
場合によっては、怒られてしまうこともあるかもしれません。しかし、興味を持って聞いてくれる人もいるのです。
長年クリスチャンをやっていても証しが苦手という人は、この最後の例に会う前に、いや〜な顔をする人ばかりに出会い過ぎて、
いい人にたどり着く前にあきらめてしまいそのまま来てしまったのかもしれません。
しかし、だれが救いを受け入れて、だれが救いを拒むかということは、どんなに熟練した個人伝道者でもわからないのです。
それは、完全に神様の領域です。私たちにできることは、受け入れるかどうかは神様におゆだねすること。
そしてただ私たちはイエス様が委託してくださったとおりにひたすら語っていくということです。
みなさん、イエス様はみなさん一人ひとりと、福音を伝える委託契約を結ばれたのです。
誰であっても、「いや、私には無理です」とは言えません。なぜならば、イエス様がこう言われているからです。
「わたしには、天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ」(18節)。
あなたはイエス様が、この世界のどこにおいても完全な権威を持っているお方であることを忘れてはいけません。
あなたの話し方が堂々としている、理路整然としている、それは証しには一切関係がありません。必要なのはイエス様の権威です。
どんなにたどたどしい証しであっても、ただイエス様の権威によりたのむとき、一人でも二人でも、必ず耳を傾けてくれる人が現れます。
それは偶然ではなく、神が永遠の計画の中で、あなたの証しを通して定めてくださった出会いと変化です。
私の権威、あなたの権威はいりません。ただイエス・キリストの権威だけに信頼するのです。
3.
先日、ふざけて妻にこんな質問をしました。
「もし無人島で生活することになって、聖書以外にもうひとつだけ持って行けるとしたら、何を持っていく?」
みなさんだったら何を選びますか。ライター?携帯電話?充電が切れたらおしまいですが。
妻の答えは、聖書以外にあと一つだけだったら、「聖書カバー」でした。アホかと思いましたが、すぐに心の中で悔い改めました。
人生に必要なのは、聖書だけです。あえてもうひとつだけ挙げるならば、聖書がすり切れないように守ってくれる聖書カバーです。
しょうもない冗談に聞こえるかもしれません。
しかし、この聖書のみことばだけが、私の人生を永遠の死から救い出し、代わりに永遠のいのちを与えてくれる唯一のものなのです。
いま、同盟教団が派遣している海外宣教師の方々は、全員が何十年も牧師をされてきた方々です。
今までも、そしてこれからも、彼ら彼女らの確信は、世界のどこででも、人を救うことができる唯一の力、それはただ聖書のみ、に違いありません。30年前の私が試してみたように、いま、心の中にどうしようもない不安がある方は、聖書をはじめから終わりまで読んでみてください。
きっと終わりまでたどり着かないうちに、ひとつのみことばがあなたの心を突き刺して、不安から解放してくれる経験をするはずです。
そしてクリスチャンは、例外なく、みんながこの聖書を人々に伝える使命をイエス様から委託されています。
宣教師たちの労苦をおぼえながら、私たち自身も、このみことばを伝えていく働きに召されていることを心に刻みつけましょう。
このみことばの中にこそ唯一の救いがあります。
このみことばの中にこそ、闇に満ちた世界を変えることのできる、唯一の答えがあるのです。