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2019.6.30「いのちのことばを握りしめて」(使徒5:17-42)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
わが同盟教団は、教団の公式ホームページの中に「緊急災害情報掲示板」というページがあります。
災害が起きると、教会が自発的に書き込んで安否を報告するというものなのですが、パスワード認証がかかっていません。
つまり、だれでも見れちゃいます。おそらく緊急の時には教会員の誰でも書き込めるようにということなのでしょう。
 ただ、機関紙の閲覧にはパスワードが必要なのに、こちらはダダ漏れというのはいささか違和感をおぼえます。
先日の新潟北部地震の際についテンションが上がった私がうっかり書き込んでしまった、
「(築50年の)教会が無事ならば、どの家も無事ですよと役員から言われた」なんてコメントも外部の方にダダ漏れ。
新潟弁で言うと、しょうしいわ(=恥ずかしいです)。だったら最初から書くなよ、と言われそうですが。
 気になるのは今回、九州南部を襲った水害に関しては、まったく誰も書き込んでおらず、今も放置状態であること。
毎日チェックしているのですが、開拓二年目の鹿児島いずみ教会は無事だったのでしょうか。
実際に掲示板に書き込んでみて思ったのですが、匿名でないので、最初に投稿するのは結構気を使います。
震度4くらいで書き込んでしまうと「これくらいで大騒ぎするなよ」と言われないだろうか、とか余計なことを考えてしまいます。
だから教団総主事なり社会局長なりが最初にスレッドを立ててくれると助かるのですね。ご検討ください。週報はこちらです。

聖書箇所 『使徒の働き』5章17-42節


1.
 「使徒の働き」という、現代訳での書名は、明治時代に出版された文語訳聖書では「使徒行伝」と訳されていました。
その時代のある牧師は、これは使徒行伝ではない、聖霊行伝であると言いました。
まさに、この書に書かれている出来事は、はじめから終わりまで、聖霊に導かれて初代教会が成長していった姿を描いています。
この5章では、まだ迫害は起きていませんが、ペテロたちがユダヤ人当局ににらまれ、宣教を禁じられる場面が記されています。
しかし私たちは、このような状況さえも、すべては聖霊なる神のご計画の中にあったのだということを忘れないで読んでいきたいと願います。
 まずこれらの聖書箇所から私がみなさんにお伝えしたいことは、世の中に神の知らないトラブルなど起こりようがないということです。
人の目にはトラブルと見えることが突然起こります。しかしそれは私たちが何かに気づかせるために、神が計画し与えられたものです。
その「何か」とは、多くの場合、自分の中に抱えていたが、がんとして認めようとしなかった、さまざまな事柄です。
トラブルの中で、人は気づき、悔い改めへと導かれることをよく経験します。
あるいは、私たちの信仰をさらに高みへと引き上げるために、神がトラブルを与えることもあります。それは聖書では試練とも呼ばれています。
初代教会にとって、サドカイ派の有力者たちに宣教を禁じられることは、彼らの信仰をより強めていくために、神が与えられた機会でした。
みなさんの生活や人間関係の中に、いま何らかのトラブルが起きていたとしても、それ自体は何ら恐れる必要はないものです。
しかし気をつけなければならないのは、そのトラブルにだけ目と心が向いてしまい、その背後に隠れている神から目を離してしまうことです。
神は、使徒たちがサドカイ人に捕らえられて投獄されたとき、御使いを遣わして彼らを解放しました。
しかしただ牢屋から解放するだけであれば、わざわざ御使いを遣わす必要はありません。遣わしたのは、次のことばを彼らに伝えるためでした。
それが20節のみことばです。「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」。
 ただ「行って」ではありません。「行って、宮の中に立ち」と言われています。「宮」とは言うまでもなく、神殿のことです。
この投獄の出来事を通して、神は次のことを使徒たちにお示しになりました。
本来、宮で神の言葉を語るはずの祭司、つまりサドカイ人たちはその役目を果たせなくなっているという事実です。
祭司たちが神殿で神に民のとりなしの祈りをささげるよりも、議会で使徒たちを罠にかける相談に時間を費やしていました。
宮から離れるべきでない祭司たちが、逆に守衛長から宮に呼び出されて、宮で使徒たちが説教している姿を聞く、なんと皮肉なことでしょうか。
宮も、宮で仕える働きも捨てていた祭司たちに対し、教会は神にこう命じられました。あなたがたが宮に立ち、いのちのことばを語りなさい、と。
そして神の命令は、今日も同じです。宮、すなわちこの礼拝をまず第一にするということ。そこから教会のすべての活動が始まっていきます。
クリスチャンはこの礼拝を通して、神のことばを受け取り、それを自分を養い、他の人々に祝福を与える力として用いていきます。
求道者は、この礼拝の中にあなたが求めている人生のまことの答えがあることをおぼえてください。
この礼拝の中に、クリスチャンであるかないかを問わず、神が与えようとしておられる祝福が凝縮されています。
この宮の中で、いのちのことばが語られ、聞かれ、心に受け止められ、そして実際の行動へと変えられていきます。
使徒たちが牢から解放して向かった先が神殿であったように、私たちもまず礼拝に向かうのです。そして今ここに集まられているのです。

2.
 神は、御使いを通して、このいのちのことばを「ことごとく語りなさい」と命じました。
この「ことごとく」という言葉は、相手がたとえ誰であったとしても、神のことばを決して薄めず、緩めてはならないということを含んでいます。
なぜならば、神のことばは剣のように鋭いがゆえに、その痛みを通して、あらゆる人の心を砕き、完全に救うことのできる力だからです。
使徒たちを尋問した大祭司は彼らをこう責めました。「あの人の血の責任を我々に負わせようとしているではないか」。
しかし使徒たちがイエス・キリストの十字架の責任を負わせたのは大祭司やサドカイ人だけではありません。彼ら使徒たち自身も含めてです。
31節ではこのように語られます。「イスラエルに悔い改めと赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられた」と。
イスラエルとは誰のことでしょうか。それは祭司はもちろん、使徒たちも含めて、あらゆるユダヤ人たちです。
そしていま神は、イスラエル民族にではなく、世界中のあらゆる人々に悔い改めと赦しを差し出しておられます。
 クリスチャンというのは、ひとりの例外なく、この「悔い改めと赦し」を世の人々に伝えるために、先に召し出された者たちのことです。
口下手な人は、口下手な分だけ、その言葉には重みがあります。牧師が語る一万語よりも、寡黙な信徒の百語が用いられることもあります。
大切なのは、私にはそんな力はないとあきらめないこと。力は私たちが出すのではなく、内に住んでおられる聖霊が与えてくださいます。
じつにこの世界に溢れている言葉の9割は、あってもなくてもどうでもよいようなものばかりに思えます。
しかし神は、私たちが語るべきものとして、いのちのことばを与えてくださいました。それはいま、みなさんが持っているものです。
クリスチャンは、このいのちのことばが心の中に貯えられているからこそ、今日も神を喜んで生きることができます。
あなたをいま生かしているこのみことばを、ものは満ちても心は渇いている人々に分け与えなさいと、神はひとり一人に託してくださいました。
 もし私から福音をとったら、何が残るでしょうか?もう私たちは、福音が与えてくれる命のすばらしさを知ってしまった。
もし福音が奪われたら、命はあっても生きてはいない、まさに生ける屍でしかありません。
使徒たちを生かしていたのは、この福音という内に燃える炎であったことを私たちはおぼえていきたいと思うのです。
彼らはむちで打たれても、言葉で脅かされても、決して動じませんでした。むしろ「人に従うより、神に従うべきです」と公に宣言しました。
神は生きておられます。試練の中でそのような信仰を示した彼らに、律法学者ガマリエルの言葉を用いて、道を開いてくださったのです。
伝道は、始める前から心配しても、意味のないことです。どんなに丹念に準備しても拒まれることは、山ほどあります。
逆にこんなメッセージじゃ信じるには無理だろという場合でも神がその人の心を開いてくださることもあります。
それは、伝道を左右するのが人の言葉ではなく、100%聖霊のみわざだからです。だから恐れないで語り続けたいと願います。

3.
 最後に、42節をご覧ください。「そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた」。
使徒たちは「毎日」、「宮や家々で」教え続けました。この言葉が意味するところは、あらゆるとき、あらゆるところ、例外がないということです。
祭司たちは、使徒たちにまるで神殿を乗っ取られるのではないかという危機感さえ感じながら、宮で語る彼らをにらみつけていたことでしょう。
しかし彼らは毎日、神殿だろうが、家々だろうが関係なく、いのちのことばを語り続けました。
求める者にも求めない者にも語り続けました。友好的な者にも、敵対的な者にも、同じように語り続けました。それが福音です。
もし私たちが、素直に話を聞いてくれる人にだけ語ろうとしているならば、それは福音ではありません。
人の選り好みは、福音の力をかえって鈍らせます。
喜んで耳を傾ける者にも、耳をふさいで聞こうとしない者にも福音は届けられなければなりません。その担い手が私たちです。
何度も言いますが、人が福音を聞いて信じる、信じないはただ神のなさることです。しかし語るのは、私たちでしかできません。
使徒たちをはじめとして、初代教会の信者たちは24時間、360度、彼らはみことばの恵みをいつもかみしめて歩んでいました。
彼らの語る福音の中心はただひとつ、「イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた」だけでした。
クリスチャンがもっとも福音を伝えにくいのは、自分の親兄弟、子どもたちだと言います。
それは、クリスチャンと言ってもときどき、あるいはしょっちゅう、みっともない姿をさらしてしまう自分のことばなど聞いてくれないのではないか。
そんな恐れが働くからかもしれません。しかし伝えるのは自分のことではありません、イエス・キリストのことです。
ペテロはあなたがたが十字架につけたと語りますが、一番先にイエスを見捨てたのは彼自身だったのです。
しかし彼が大胆に語り得ることができたのは、伝えるのは自分のことではなくイエスがキリストであることだからです。
そしてイエスがキリストであることを伝えるためには、私たちの立場だとか体面だとかは、どれだけ笑われても良いのです。
いのちのことばを語り続けましょう。

posted by 近 at 16:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ
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