さる7月24日(水)にTCUチャペルで行われた故・吉持章先生の合同お別れ会の写真をアップします。







週報はこちらです。
聖書箇所 『使徒の働き』9章23-31節
1.
私たち豊栄キリスト教会では、この聖餐式がある週の直前の水曜祈祷会を、ある時期からバルナバ祈祷会と名づけました。
その祈祷会では、とくに教会から離れてしまったクリスチャンが礼拝に復帰できるように、名前を挙げて祈ります。
なぜ聖餐式の前の週に行うかというと、聖餐式が、クリスチャンに対する、神様の尽きることのない恵みを象徴しているからです。
聖餐式では、司式者が必ず次のことばを宣言します。「愛する兄弟姉妹たち、救い主イエス・キリストを信じ、バプテスマを受け、
キリストのしもべとしてふさわしく生きることを願っている者は、すべてこの聖餐に招かれています」と。
すべてこの聖餐に招かれています。
たとえ昨日まで、いや、その日の朝、家を出る直前に夫婦げんかをしてきたようなクリスチャンにさえ、「すべて」招かれています、と。
あるクリスチャンが何十年と教会を離れていたとしても、陪餐停止や除名といった戒規執行中でない限り、その人は聖餐に与ることができます。
実際に四日前のバルナバ祈祷会で、教会に来ている人も来ていない人も合わせた、教会員の名前のリストを参加者で分け合いながら、
私たちは祈りました。次の聖餐礼拝に、どうかこの○○さんが出席することができるように。あなたの前に戻ってくることができるように、と。
この祈り会に対して、私たちは「バルナバ」という名前をつけています。そのバルナバは、まさに今日の箇所に出てくるバルナバその人です。
今日の聖書箇所の冒頭には、まず迫害者から伝道者に変えられた、サウロの姿が出てきます。
彼は復活のキリストに出会ったことで、それまでの罪を悔い改め、キリストを宣べ伝えるようになりました。
その真実なことば、熱心なる生き様は、まさに昨日までの友であったユダヤ人たちから命を狙われるほどのものでした。
それでもサウロは信仰を捨てません。驚くべき方法でダマスコの町を脱出し、やがてエルサレム教会の門を叩きました。
しかしエルサレム教会のみながサウロを弟子とは信じずに、恐れたとあります。当然かもしれません。
ついこの間まで、このサウロという男はエルサレム教会を破壊し、次々と兄弟姉妹を捕まえては牢に投げ込んだり殺したりしていたのです。
しかし神は、ひとりの人をサウロのために用意してくださっていました。それがバルナバです。27節をお読みします。
「ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコに行く途中で主を見た様子や、
主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した」。
2.
バルナバはパウロの身柄を引き受けるとき、「いつか誰かがやるだろう」とは考えませんでした。
神は今、私がそれをやるように求めているという思いをもってパウロを引き受けたのです。
この使徒の働きの4章に出て来るのですが、バルナバというのはニックネームであり、彼の本名はヨセフという名前でした。
「バルナバ」の意味は、「慰めの子」というものです。本名ではなかったようです。彼のあだ名、ニックネームは「慰めの子」でした。
なんとすばらしいあだ名でしょうか。「慰めの子」とは!
おそらく彼は迫害や問題の中で信仰の揺れていた信者たちをよく慰め、励ましていた人物だったのでしょう。
エルサレム教会の誰もが恐れていたサウロを、バルナバだけが受け入れることができたのはなぜでしょうか。
これは私の想像ですが、それはバルナバが今までも、このようなグレーゾーンの人たちに関わっていたからではないかと思います。
心傷ついた人と共に時を過ごし、慰めを必要としている魂に関心をもつ。それゆえに彼はバルナバ、慰めの子と呼ばれていたのです。
そしてバルナバはサウロに対しても、決して新しいことをしたわけではなく、今までのように友となり、仲介役となった、ただそれだけ、
しかし何とすばらしい、「ただそれだけ」でしょうか。私たち豊栄キリスト教会の一人ひとりも、彼のようになることはできるでしょうか。
それを自ら考えていただくのが今日の説教の目的ですが、少なくとも私たちの中には、すでにバルナバのように生きている方々が確かにいます。
病の中にある人々をおぼえ、心傷ついている人々のために祈る。
すでにそれを実践している人々が、それも一人や二人ではなくここにおられることを、私は喜びと感謝を持っています。
私たち全員がそのようになれるでしょうか。そのためには、一人ひとりが、お互いに目を留め、相手から学ぶという謙虚な姿勢が必要です。
聖書の中には、「信仰の弱い人」という表現は一箇所だけ出てきますが(ロマ14:1)、「信仰が強い人」という言葉はひとつも出てきません。
信仰が強い人なんていないのです。ましてや自分で、自分の信仰は強いなどとは決して言えません。
強さを誇るよりも、自分の弱さを知り、他人の弱さも知るということ。そしてお互いに欠けを満たし合っていくということ。
豊栄の教会ってどんな教会ですかと聞かれたときに、慰めの教会と自ら言うことができたならば、何がなくてもすばらしいことですね。
3.
最後に、31節の〆のことばを読みましょう。「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて
平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った」。
ここには、教会が成長していく三つの大事な要素が述べられています。
一に平安を保ち、二に主を恐れかしこみ、三に聖霊に励まされているということ。
この三つが組み合わされていくなかで、教会は前進し続けて、信者の数が増えていきました。
このとき、教会を取り囲んでいた現実は、平安という状況からはほど遠いものでした。
サウロが回心したからといって、迫害が止んだわけではありません。
むしろユダヤ人の中で迫害の急先鋒であったサウロが豹変したことで、教会を一刻も早く潰さなければという空気が生まれていたことでしょう。
しかし教会は平安を保ちました。神が与える平安とは、まわりの状況に左右されるものではありません。
あなたがこれから向かっていく場所が、どんなに激しい波や嵐が吹きすさぶ場所であっても、神の子どもであるという事実を忘れないでください。
必ず神が助け出してくださいます。これは、たしかにイエス・キリストが、信じた者たちに約束してくださったことです。
イエス・キリストにある平安、父なる神への正しい恐れ、そして聖霊の臨在の中で励ましを受けて、私たちは歩んでいきます。
一人ひとりが、聖餐の恵みのなかで、慰めととりなしの子としてこれからの一週間、一ヶ月を歩んでいきましょう。