なかなか受洗者が与えられない当教会ですが、先月末、約一年ぶりに洗礼式を行うことができました。
信仰はみことばから始まり、成長のためには一日も早くみことば全体を把握すること。
そこでこれからの一年間、一緒に聖書通読を行い、週に一回分かち合うということを始めました。
聖書通読のコツは、わからなくても気にせず、とにかく動きを止めずに読み進めていくことだと言われます。
なのに、創世記序盤を読んでいると族長たちの年齢が頭の中をグルグル回り、進みません。
結局、こんなもの↓を作ってしまいました。

画像を縮小していくと、鳥が羽ばたいている姿に見えないこともなかったので「次代の翼」と名づけました。
基本的には、子どもが生まれた年齢(オレンジ色)と、その後の人生(グリーン色)で分けています。
ただしアブラハム以降の方々は、ライフイベントがそれまでと比べて細かい描写になりますので、他の色も入っています。
そちらのほうの説明は、ヒマなときがあれば更新します。(こんなもの作っている時点ですでにヒマと言われそうですが)
・大洪水が起きた年にノアの祖父メトシェラがきっちり死去していたり(箱舟に入れてもらえなかった?)、
・ヨセフのライフイベントから、ヤコブが家を出た年齢を計算すると、少なくとも70歳を越えているはず(リベカは何歳なんだろ?)
他にもいろいろな発見があるかもしれません。「人の齢は120年にしよう」と宣告された割には、洪水後もみんな長生きなんですね。
二次使用も自由ですが、画像が4800×3200pxとデカイです。(容量は1.3MBくらい)ノークレームでお願いします。
なかなか役に立つブログでしょ。これからもごひいきに。週報はこちらです。
聖書箇所 『使徒の働き』12章1-25節
1.
アリとキリギリスというイソップ童話がありますが、昆虫の中でもアリは働き者の代名詞のようなイメージがあります。
実際、子どもの頃、地面に落ちているものをアリたちが協力して運んでいる姿を見たことのある方もいるのではないでしょうか。
ところがアリの研究者たちの発表によると、本当に一生懸命働いているアリは、どの群れでも全体の1/4にすぎないのだそうです。
残りの3/4のアリのうち、働きアリと同じ1/4の数は、働かないアリ。
そして残り、つまり全体の半分は、適当に働いているアリだそうです。
どの巣、どの群れでも、全体の1/4しか働きアリがいないのだということが改めて確認されました。
そこで研究者たちはこんな実験を思いつきました。同じ種類のアリの巣を四つ選ぶ。
それぞれから働きアリだけを取り出して一緒にすれば、全部働きアリという完璧なグループになるのではないか。
理論上はうまくいくはずでした。
ところが働きアリ同士を一つのまとめた途端、前の巣では働き者だったアリの中に怠ける奴が出てしまう。
結局、働きアリだけを集めても、最終的にはそのグループの中の1/4は働き者、1/4は怠け者、残りの1/2は普通のアリ、となってしまうのです。
研究者たちはついでに逆の実験もしてみました。
四つの巣から怠けアリだけを集めて一つの巣に入れてみたのです。どうなったでしょうか。
ご想像のとおり、前の巣では怠け者だったアリたちが、やはり1/4は働きアリ、1/2は普通のアリとなったのです。
1/4は変わりませんでしたが。
後日、同じような実験をアリだけでなく、ミツバチやサルといった群れを作る生きものに広げられましたが、同じような結果を生んだそうです。
人間ではどうでしょうか。
あえて伏せますが、この実験結果は、神様が生きものに共通して与えられた、一つの恵みを表しているように思えます。
ヘロデ王は、教会などというものは使徒さえ取り除けば、あとは自然と崩壊していく、と考えて、最初にヤコブ、次にペテロに手を伸ばしました。
しかし指導者層である1/4を取り除いても、残りの3/4は烏合の衆では終わりません。
残りの者から誰かが立ち上がり、回復していきます。
教会に起きた迫害は、まさにそうでした。
たとえヤコブが殺され、ペテロが捕まえられても、無名の教会員たちは、祈り続けていたのです。
私がこの箇所で励まされるのは、この祈っている人たちが、信仰の勇者というよりはむしろ未熟な者たちであったということです。
ペテロのために祈っていたとあるのに、実際にペテロが現れると、だれも本物だと信じないのです。
しかしここに一つの本質があります。
彼らは聖人ではありません。未熟な者たちでした。
しかしそれでも彼らには、祈りという武器が与えられていて、彼らは使徒たちの姿を真似た。
祈りがかなえられることを自ら信じないような者たちだったけれども、それでも祈り続けていた。
それが彼らに与えられた唯一の力だったから。
日本の教会は、いまだに全人口の1%と言われ、世界の教会の中でも下のほうの1/4のように自虐的に見てしまう傾向があります。
しかしどんなに信仰が弱く、未熟な者たちであっても、祈りという唯一与えられた力から手を離さないならば、必ず神は動いてくださいます。
神は、祈り手である私たちの真実さによって祈りを現実化してくださるのではありません。
その祈りがみこころにかなっているかどうかです。
どんなに信仰の弱い者たちであっても、その祈りが神のみこころと合致するときに、祈りは叶えられます。
だから私たちは今日も祈るのです。
2.
ヘロデ王に捕らえられたペテロは、翌日には自分が処刑されるという中で、御使いにわき腹を叩かれるまでぐっすりと眠っていました。
普通であれば、夜明けまでまんじりともせずに眠りにつけないかったでしょう。
しかしよく眠っていたのは、彼の心に確かな平安があったからです。
その平安の根拠は色々なものがあったでしょうが、そのひとつには、教会が自分のために祈ってくれているという確信もあったに違いありません。
祈りは、決して無力ではありません。
私たちが「祈っていますよ」と苦しんでいる方に声をかけるのは、決して気休めのたぐいではありません。
私たちの祈りには、力があります。それは、この祈りの源が、私たちの正しさによるのではないからです。
父なる神に向かって、主イエスの御名を通して祈るがゆえに、力があります。
イエス様は、あなたがたの願うところを何でも父に求めよ、それがみこころにかなっているならば必ず与えられる、と約束してくださいました。
みこころにかなっているかどうか、どうやって判断するのでしょうか。
それは理屈ではないのです。
私たちがみことばを通して神と交われば交わるほど、みこころは理屈ぬきに私たちの一部となります。
子どもが親に似てくるのは、遺伝だけではありません。
親の姿をいつも見て、親と共に生きているから、似てくるのです。
信仰も同じです。私たちは、聖書を通して神のみこころを味わいます。
礼拝や祈祷会を通して、神とと向き合います。
聖書通読やディボーションを通して、神の方法に馴染んでいきます。
信仰の道に、我流はありません。信仰生活を通して、みことばから学ぶのです。
そして私たちは、どんなことであっても、大胆に、確信をもって、祈ることができるようになるのです。
私たちクリスチャンは、その特権を味わいながら日々歩んでいます。
祈りの力を、さらにいただきながら進んでいきましょう。
3.
祈りは、神の前に全力に声を振り絞りながら、しかし結果は神の御手におゆだねすることです。
ヘロデが選んだ道とは真逆でした。
ヘロデ王は、主の使いに打たれました。聖書は、「虫にかまれて息が絶えた」と記しています。
彼にとって、教会は虫けらのようなもので、クリスチャンたちに何ができる、といったところだったでしょう。
しかし彼は虫けらのような連中にやられたのではなく、文字通り虫にかまれて死んだのです。
なんと哀れな人生だったことでしょうか。
ですが注意しましょう。彼は教会を迫害したから打たれたのではありません。
神に栄光を帰さなかったから打たれたのです。
祈りは復讐の道具ではありません。
祈りは、私たちが力や人脈に頼る手段を捨て、ただ神のみこころに結果をおゆだねすることです。
力や人脈をフル稼働させて、「どうかお守りください」。
それは祈りそのものよりも、自らの手がなしたことに栄光を与えてしまっていることです。
自分の手を離し、まず神がこのことをすべて知っておられ、ご自身のみこころをなしてくださるということを信じること。
そのうえで、神がそのみこころのなかで私自身をどのように用いようとしておられるのか、それを思い巡らしながら、歩んでいきたいのです。
冷酷な者、邪悪な者たちがこの世を支配しているように見えるのは、いつの時代も変わりません。
教会には富も、力もありません。
ヤコブが捕らえられた時、なすすべもなく彼は処刑されました。教会は何もできませんでした。
ペテロが捕らえられた時も、教会は祈る以外に何もできませんでした。
しかし忘れないでください。祈ることしかできない、のではない。
祈ることこそが、この世のどんなものよりも確かで、力強い、神の力です。
富を持つ者は富に頼り、力を持つ者は力に頼ります。
しかし教会は、祈りしか持たないゆえに、祈りに頼ります。
その結果、何が起きたのか。ペテロはいのちを助け出され、逆にヘロデ王はいのちを失いました。
そしていのちを燃やされる者たちが教会に起こされました。
ヤコブの処刑、ペテロの投獄と解放は、教会のある人々を目覚めさせたのです。
この12章をもってペテロは主役から脇役へ転じ、この後、ほとんど使徒の働きの中には出て来ることはありません。
それはまさに、教会の宣教が、使徒から信徒たち自身のものへと変わっていく証しです。
「主のみことばは、ますます盛んになり、広まっていった」。
それは使徒たちによるものではなく、信徒自身による、宣教の目覚めを表します。
祈りをわれらに。わが手に。わが唇に。わが心に。
祈りを求めるということは、私たちにとって好ましい現実の打開を求めることではありません。
結果が私にとって好ましくないものであったとしても、神のことば、神のみこころを求めます。
そこには私の理解を超えた神の計画があると信じて。
祈りの積み重ねのなかで、みことばは生活に根ざしたものとなり、教会の宣教はまさに信徒一人ひとりの生活そのものとなります。
どうか一人ひとりが、この祈りの力を味わっていく一週間となりますように。