当教会では3週に一度のペースで、牧師にも教会学校のお話しが回ってきます。
今回はパウロがローマに行く途中で難破したけどいろいろあって助かった、あのお話し(使徒27-28章)。
今日も今日とて『成長』の視覚教材にパソコンでせっせと色をつけ、背景を別の画像からレイヤーで貼り付けたりと大忙し。

ところが作っているうちに、なんとなくデジャビュ。あれ、前も同じような紙芝居を作ってなかったっけ。
そこでパソコンのフォルダを探してみた。すると2016.06.25という日付で確かにこんなのがありました。

3年前のものはすでに引退された山田画伯の絵柄ですが、どう見ても同じ話ですね。妙な生きものも書き加えられていますが。
そもそもパウロの遭難の話を子どもたちに3年ごとに繰り返す必要があるんでしょうか。どうなんだ、成長。
恐ろしいことに、『成長』の9月のカリキュラムは、なんと毎週パウロ書簡から一書まるごとです。
一書説教なんて、牧師だって礼拝で躊躇するのに、教会学校でいけるのか。どうなんだ、成長。しつこい。
とまあ、さんざん文句をたれるわりには、いまだに『成長』を手放すことができないのも確かなんですが。
豊栄キリスト教会は『成長』を応援しています。週報はこちらです。
聖書箇所 『マルコの福音書』10章46-52節
1.
妻と結婚して16年になりますが、新婚旅行に向かった先は北海道でした。途中、道南にある登別クマ牧場というところに行きました。
クマたちが観光客の姿を認めると手を振ったり、大開脚のポーズをとったりして、何とか自分に注目をひきつけてエサを投げてもらおうとします。
クマが愛想をふりまく挙動があまりにも面白くて、ずっとクマばかりを撮っていたら、いつのまにか妻がいなくなっています。
新婚旅行という目的を忘れてしまった私の責任で、帰りの道は平謝りでしたが、ある意味楽しい経験ではありました。
クマたちは、客がいないときはもっぱら寝そべったりしているのですが、客の姿を認めるとやおら起き上がり、自己アピールを始めます。
人間の注目を少しでも多く惹きつけたものがエサを投げてもらえることを知っているのです。
バルテマイもまた、人々にどんなにたしなめられても、イエスのおられるかもしれない方向に向かって叫ぶことをやめませんでした。
彼は目が見えない物乞いであったとあります。物乞いは、ふだんは声を上げません。
ただ黙って、道行く人がいくらかの銅貨を投げ込んでくれるのをひたすら待っています。
今日もバルテマイは、そのようにだまり込んだまま、人々のあわれみにすがりながら一日を過ごすはずでした。
しかし彼は、今目の前を歩いている集団の中に、ナザレのイエスが混じっているということを耳にしました。
そして今までの沈黙が嘘のように、ひたすら「ダビデの子よ、あわれんでください」とひたすら声を上げて叫び続けたのです。
クマとバルテマイを一緒にするのは失礼ですが、自分の持てる力を使い切る覚悟で、注目を集めようとしたことは同じです。
クマたちは、親が見たら泣くような大開脚ポーズで、まさにヒグマのプライドを捨ててまで観光客の注目を惹きつけようとしていました。
バルテマイは、まわりの人々にどれだけたしなめられましょうとも、叫び続けました。
目の見えないバルテマイには、前を歩いている人々のどこにイエスがおられるのかわかりません。
だからひたすら、あらゆる方向に向かって大声で叫び続けたのでしょう。イエスの目を惹くためです。
しかしクマとバルテマイは明らかにひとつの点で違っていました。
クマは、観光客が投げるエサを巡っての競争に敗れても、次の機会があります。
しかしバルテマイは、この機会を失ったら、自分の人生を変えるチャンスはないということを知っていました。
だから彼は死に物狂いで叫び続けたのです。
2.
人生を変えたいと考えている人々はたくさんいます。しかし本当に変えることができた人は多くありません。
なぜならば、叫ぶべき相手を間違えているからです。生活の問題や、具体的な課題を訴えることは決して間違っていません。
しかし親に叫ぼうが、行政に叫ぼうが、善意ある人々に叫ぼうが、それは一時しのぎでしかないのです。
システムを変えるには、責任者を呼ばなければなりません。人生を変えたいならば、人生の責任者に対して叫ばなければなりません。
そして私たちの人生の責任者は、じつは私たち自身ではなく、この社会そのものでもなく、私たち一人ひとりを作られた神さまです。
バルテマイは、目が見えない者として生きていかなければならない現実も含めて、自分の人生のあるじは神であることを知っていました。
人生を変えたいならば、神に向かって叫ばなければなりません。自分の力を尽くして、神に叫ばなければなりません。
バルテマイはどこにキリストがいるかわからず、あらゆる方向に叫びましたが、私たちは知っています。
神はこの、(聖書を手に取って、パンパンと叩く)聖書の中に生きておられます。ここに入るほどの小さな方だという意味では決してありません。
永遠に変わらない、聖書のことばを通して、私たちにそのみこころを示してくださるのです。
だから、もし私たちが「私を救ってください」という叫びを心の中に響かせつつ、この聖書に取っ組み合うときに、必ず新しい人生が見つかります。
バルテマイが叫ぼうが叫ぶまいが、イエス・キリストがこのバルテマイを救いへと選び、目を留めておられたことは確かなことです。
じゃあバルテマイの叫びは無駄なのかというと決してそうではなく、彼の叫びには、彼の信仰が現れています。
私が答えを求めて叫ばなければならない相手は、この救い主イエス・キリストしかいないのだ、という信仰が、バルテマイを支えていました。
そして彼の信仰をあらわす、もう一つのしるしがあります。
それは、彼がイエスに呼ばれていると人々から聞かされたとき、「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」ということです。
目の見えない物乞いが上着を脱ぎ捨てる行為、それは生活の支えを捨てる、ということに他なりません。
上着を単なる衣服と見るならば、それを捨てることは困難ではありません。しかしバルテマイにとって、上着は生活基盤を象徴しています。
そして彼は、生活そのものを入れ替えても、キリストのもとに行けば、新しい人生が始まるということがわかっていたのです。
3.
なぜバルテマイは上着、すなわちそれまで自分を支えてきた生活を捨てることができたのでしょうか。
それは上着よりも必要なものがあることを知っていたからです。今までの人生で繰り返されてきた苦しみの経験が、彼にそれを教えました。
彼は何をしてほしいのかという問いに、「目が見えるようになることです」とはっきりと答えます。
苦しみは、私たちに何が必要なのかを自覚させます。
今までの人生において、幾度となく自分に失望し、人間関係に疲れ、人生に絶望したという人もいるでしょう。
しかしそのような経験のひとつひとつさえ、私を救うことのできるのは人ではなく、ただ神であるという希望に繋がります。
だとしたら、人生に無駄なものなど何一つありません。あらゆるものが、神からのプレゼントとして感謝をもって受け止めることができます。
このバルテマイのいやしの出来事は、イエス・キリストが十字架での死に向かう直前の出来事でした。
バルテマイが上着を捨てて、喜び踊りながらイエスの後ろについていった道の終着駅は、イエスが罪人の代わりに死なれた十字架の丘でした。
もし彼がその十字架への道からそれていったならば、聖書の中に「バルテマイ」という固有名詞が記録されることはなかったでしょう。
しかし彼の名前がはっきりと残されていることは、彼がクリスチャンとしてその後も信仰を捨てずに歩んでいったことを指しています。
いやされた者は、喜んでイエス・キリストについていきます。そしてその道は、いつまでもキリストとともに歩むことのできる、幸せな道なのです。
キリストを信じたらいろいろと大変ではないか、と恐れている者よ!すべてを捨てる決断ができない者よ!
信じたとき、私たちは古い自分から新しい自分に生まれ変わる、と聖書に書いてあります。
恐れる者から恐れない者へ。目の見えない者から目の見える者へ。憎む者から愛する者へ。逃げる者から従う者へと変えられていきます。
どうか一人ひとりが、このイエス・キリストを救い主として受け入れて、永遠のいのちの道へと歩むことができるように、お祈りします。