こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
このたびの台風15号で被災した方々、また停電の中で不便な生活を強いられている方々が励まされますように。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』9章10-17節
1.
新約聖書の中で、「使徒」という言葉は約100回出て来ますが、福音書の中にはほとんど出てきません。
しかしそのわずかな、「使徒」という特別な表現が出てくる場面、それは弟子たちがとりわけ大切な訓練を受けている出来事を意味しています。
今日の聖書箇所の冒頭、10節では、まずこのように述べられます。
「さて、使徒たちは帰って来て、自分たちのして来たことを報告した。それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた。」
これより前、弟子たちは、イエス様から力と権威を与えられて伝道旅行に遣わされていました。
華々しい報告を持ち帰った弟子たちですが、どの福音書でも、このあとイエス様は彼らを寂しいところへ行かせて休ませたと書かれています。
これがその、大切な訓練という意味です。使徒たちは、神の大きな働きに加わったあとだからこそ、本気で休む必要があったのです。
クリスチャンは聖霊の力に満ちているから疲れることはない、と言いたいところですが、聖書全体を読むと、そうは教えていません。
神様の働きに携わるからこそ、よく休まなければならない。休むのにも信仰が必要とされます。
イエス様でさえそうでした。自ら選び取って、朝早くから起きて、寂しい所で父なる神と向き合い、交わりの時を持っておられました。
宗教改革の中心人物であったドイツのマルティン・ルターは、忙しいときにこそ、よく祈った人だったと言われています。
この場合の「祈る」というのは、完全に手を休めて、密室で神様に向き合って祈ったということです。
それは課題や願いを挙げていく祈りではなく、幼子が親に何でも語りかけるような、まさに魂の休息としての祈りの時でした。
私たちは大きく分けて二種類の祈りの時を持っています。一つは、抱えている課題や願いを神様に訴えていくこと、
そしてもう一つは、何も願わず、ひたすら神様と心の中で語り合い、魂を休ませるものです。
この二種類の祈りの時は、車の両輪のようなもので、どちらかが欠けてもアンバランスな信仰になります。
ただ、私たちはもっぱら祈りを、願うことばかりに用いやすいことは確かです。
そして祈りが仕事のひとつのようになってしまい、人によっては祈ることが苦手になってしまいます。
しかしただ神様に現状を打ち明け、幼子が母親に言葉を聞いてもらうような、もうひとつの祈りの時、これは仕事ではなく、真の休息です。
2.
イエス様が最後の晩餐のあとにゲツセマネの園で、三回祈られた姿が、一つの模範になるかと思います。
最初、イエス様が神様にささげた祈りは、できるならばこの十字架を取り去ってくださいと、血の汗を流しながらの激しい願いでした。
しかし最後の祈りでは、私の願うようにではなくあなたの願うようにしてくださいという平安の中で、十字架に向けて立ち上がりました。
礼拝や祈祷会といった公の祈りでは、私たちは会衆の代表として、さまざまな課題を祈ります。個人的にも課題を祈ります。
しかしその一方で、ただ神様との時間を楽しみ、神様に打ち明け、神様のみこころを思い巡らす、そういう祈りもないがしろにしてはなりません。
宣教旅行から帰ってきたばかりの弟子たちが必要としていたのは、まさにそのような時だったのです。
人は、大きな働きをした後にこそ、より大きな落とし穴が待っていることに気づかなければなりません。
大きな働きは、人を大いに高ぶらせます。大きな働きを願うなという意味では決してありません。
人は神に大いなることを期待し、自分を用いてくださいと願うべきです。
しかしだからこそ、みことばを神様からいただき、たましいを休ませる祈りの時がないと、自分の力によりたのみ、神様の恵みが見えなくなります。
没頭できる趣味や十分な睡眠以上に、私たちには神と共に過ごす祈りの時こそが、まことの魂の休息として必要なのです。
11節をご覧ください。ここには、イエス様と弟子たちがせっかく寂しい所で休んでおられたのに、人々がその休息を破ってしまったこと、
しかしそれでもなお、イエス様は喜んで彼らを迎えたと書いてあります。しかし弟子たちにとっては、そうではありませんでした。
次の12節には、日も暮れ始めたという理由をもって、弟子たちは群衆を解散させようとする姿が記されています。
彼らの伝道旅行の中心には、力や権威のみならず、愛とあわれみがあったはずです。だからこそ結果を残すことができたのです。
しかしここでは、愛とあわれみは完全に後ろに退き、彼らを自分たちの前から追い出そうとする弟子たちの姿が見えています。
ここまで付き合えば十分だろ?俺たちも疲れているんだ、いいかげん解放してくれないかな。と。
しかし神のために大きな働きをなせばなすほど、人は、神ではなく自分自身がその達成者であるように誤解する危険を持っています。
それは、イエス様がいつも群衆に対して持っていた愛とあわれみとは真逆のものです。だからこそ、魂の休息が必ず必要です。
3.
神の恵みをゆっくりと思い巡らすとき、私たちはこの世界が目に見えるものだけでできているのではないことに気づきます。
確かに、弟子たちの前には、男だけで五千人、女性子どもを含めれば、一万人以上という腹を空かせた大群衆がひしめいていました。
それに対して、手元にあるのは五つのパンと二匹の魚。目で見えるものだけで判断するならば、ただ途方に暮れるしかありません。
「しかし」、この「しかし」は世界で一番大事な「しかし」です。しかしイエスは弟子たちに言われました。
「人々を、五十人くらいずつ組にしてすわらせなさい」。
なんで五十人なのかはわかりません。しかしわからなくても、イエス様のことばに弟子たちはもう一度従って、一万人のあいだを走り回りました。
私は一万人を五十人ずつ座らせた経験がありませんのでよくわかりませんが、
確かなのは、弟子たちは汗だくになって走り回りながら、一万人の現実をまざまざと実感したということでしょう。
しかしたとえどれだけ絶望的な現実が目の前に広がっていても、彼らがイエス様の命令に従ったとき、すでにみわざは始まっていたのです。
弟子たちは、イエス様が祝福した五つのパンと二匹の魚を人々に配っていきました。
するとどういう理屈かはわかりませんが、「人々はみな食べて満腹した。そして余ったパン切れを取り集めると、十二かごあった」。
そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、不思議なことに、信仰生活の中でもしばしばこのようなことを経験するのです。
人間にはお手上げというような出来事に、神様が導いてくださったとしか思えない、そして実際に導いてくださる、ということが起こるのです。
十二人の弟子たちはそれぞれが、かご一杯のパンくずを背負い、その重さをずっしりと感じながら、この出来事を思い巡らしたことでしょう。
一時高ぶりに陥っていた心が、再びイエス様の力と権威の前にへりくだり、無力な私を用いてくださるのだと改めて心に刻みつけたことでしょう。
これは、イエスを救い主として信じた者に与えられる特権です。
私たちは「使徒」ではありませんが、この時の使徒たちに勝るとも劣らない、神の訓練と恵みをいただいています。
私たちも、神のみわざを伝えるために召され、用いられる者なのです。
どうか一人ひとりが、このイエス・キリストと豊かに交わり、たましいの休息をいただくことを、自分の一日の中に組み込んでいきましょう。
それでこそ、神のみわざに喜んで加わる者となれるし、神様もそのような者を用いてくださいます。お祈りしましょう。
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