今日、何日ですか?10月1日になりました。いよいよ消費税も10%ですね。まさか10%だから10月にしたんじゃないですよね。
竹下内閣によって初めてわが国に消費税が導入されたとき、私は18歳でした。
3%なんて計算がややこしいから、10%くらいのほうがキリがいいんじゃないのとか思ってた高校生でした。
バカモノ、オマエは何もわかっていない。10%という数字の重みを・・・・(涙)ムキー
30年前の自分が目の前にいたら叱りつけてあげたい気分です。ああ、5%のうちに会堂建築を始めたかった。
こんな記念すべき夜に、ふと小学生の頃に友人の家にあった小説のタイトルを思い出しました。
変なタイトルだから、妙に頭に残っていました。古典過ぎて、もう絶版です。Amazonでもこんな写真しかありません。
消費税とは関係ない内容だったはずですが、タイムリーなタイトルなんで再版されるかもしれませんね。週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』9章7-9、18-27節
ごめんなさい、今回録画に失敗して、メッセージ動画がありません。
1.
インターネットで「イエス・キリスト」と打ち込み、検索すると、900万件以上の記事が出て来ます。
その900万件の中でイエス・キリストを救い主として教えている記事はどれくらいでしょうか。おそらく十分の一にも満たないことでしょう。
数え切れない人々が、イエス・キリストを偉大な人物として崇めています。900万件という数字は、その表れです。
しかし同時に、あまりにも多くの人々がイエス・キリストを単なる偉大な人物でまとめてしまい、救い主とは認めません。
もし救い主だと認めてしまったら、自分が救いを必要としていることを認めることになります。いいや、私は救いなど必要としていない。
自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の足で立ち上がることのできる、確固とした生き様を持っている人間なのだと信じたいのです。
国主ヘロデも、そのような現代人と同じでした。彼は、自分に罪の悔い改めを迫っていたバプテスマのヨハネを殺しました。
しかし彼は、自分のプライドを守るため、成り行き上でヨハネを殺しました。そのことが常にヘロデの心を責めています。
小さいとはいえ、一国の王である自分が、その優柔不断さのゆえに流されていく現実に対して彼は彼なりに嘆いていました。
「ひどく当惑していた」ということばは、彼の中にあったそんな不安を物語っています。彼はイエスに会ってみようとも思いました。
もしそれが口先のものではなく、自分からイエスに会いに行くために立ち上がるほどの求道心であれば、彼の人生は変わっていたでしょう。
しかし彼は自分からは動きませんでした。自分からイエスに会いに動くためには、王としてのプライドを捨てる必要があったからです。
そして彼の人生は最後まで変わりませんでした。
まわりに流され続けた彼は、最後には身内に欺かれてローマ皇帝への反逆者として処罰され、遠い流刑地で寂しく死んでいったのです。
現代に生きる、数え切れない人々が、ヘロデと同じ道を歩んでいます。
自分が不安を抱えていることを感じている。その不安は、いま自分が持っているものでは解消できないことも知っている。
しかし自分がその不安から解き放たれるために救い主を求めることは、おのれのプライドが許さず、他人の目も気になる。
イエス・キリストは、私たち一人ひとりにこう問いかけます。「あなたは、わたしをだれだと言いますか」と。
答えはたくさんあるように見えて、じつは二者選択しかありません。救い主か、そうでないかです。
私たちが人々の前で、イエスは救い主であると認めるならば、イエス・キリストも私たちを救われるべき者として認めてくださいます。
しかし私たちが、イエスを救い主として公に言い表さないのであれば、キリストも私たちを知らないと言うでしょう。
あなたは、イエスを人々に何と言いますか。人々の前で、この方を私の救い主と告白することは勇気がいることです。
しかし恐れてはなりません。イエスは、私の救い主です、と大胆に告白する人は、必ずそれにふさわしい恵みを受け取ります。
2.
「あなたがたはわたしをだれだと言いますか」という質問に対し、ペテロは、はっきりと「あなたは神のキリストです」と告白しました。
イエスはその言葉に大きく頷かれたことでしょう。しかしその後のイエスの言葉は、弟子たちを仰天させました。
「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」
救い主が、苦しめられ、見捨てられ、殺される?そんなことがあってはならない。ペテロがこの時にイエスをいさめたのは有名な話です。
しかし、救い主自らが、身代わりとなって死んでくださる以外、人間に常につきまとう罪の力から逃れる術はないのです。
人間の中にひしめく罪はあまりにも深すぎます。たとえ人が一生かけて良い行いを積み重ねたとしても、帳消しにすることはできません。
だからこそ、罪を犯したことのない、神の子イエスが、私たちの罪を背負って、苦しめられ、殺され、そしてよみがえらなければならなかったのです。
それ以外には、どんな方法によっても人が救われる道はありません。このイエス・キリスト以外には、救いの道は存在しないのです。
イエスを救い主として信じるというのは、このイエス「だけ」を信じるということです。しかしそれは決して簡単なことではありません。
家族、会社、地域との関係において、信仰を前面に表していくクリスチャンの生き方は、大きな緊張関係をもたらすこともあります。
しかし、それでもあなたは私に従うか、とイエス様は問いかけておられます。イエスはこう言われました。
たとい全世界を手に入れたとしても、まことのいのちを失ったら何の得があるだろうか、と。
この世での人間関係を大事に抱えて、それを壊したくないと思うあまり、永遠に続くいのちを失うようなことがあってはなりません。
今から200年以上前のアメリカで活躍した、ジョナサン・エドワーズという牧師がいます。彼の説教の中に、次のようなくだりがあります。
「あなたがたの生活が今の姿を維持しているのは、神が御手で支えてくださっているからに過ぎない。
もし神が御手を放せばたちまちあなたがたは落下し、底なしの淵に沈んで行ってしまうのだ。」
あなたがたに与えられた時間は限られている。いま、あなたがこの地上で時間を与えられている間に、イエスを救い主として告白せよ。
「今あなたに与えられているこの機会を得るために、地獄に堕ちてしまった哀れな魂が差し出さないものがあるだろうか!」
人の魂は、死んでも亡くなってしまうのではありません。良き者も悪しき者も、あらゆる者は、やがて来たるべきさばきまで眠りにつきます。
しかしイエスを信じることができるのは、今生きているこの地上のあいだだけです。
だからこそ、この地上でイエスを信じなければ、死後どれだけの時間が与えられていたとしても、人は終わりのない滅びに向かうしかないのです。
3.
しかしイエス様は、最後にこうも約束してくださいました。27節をご覧ください。
「しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます」。
イエス様は、「決して死なない」とは言われませんでした。「死を味わわない」と言われたのです。
信仰を持っていようが、持っていまいが、人はだれもが必ず死にます。
しかしイエスを救い主として信じた者は、死ぬことはまぬがれなくても、死を味わうことは決してありません。
人が死を恐れるのは、生が終わるからではありません。死の先に待ち受けていることに対して、潜在的な恐れを持っているからです。
しかしキリストを信じた者たちは、イエスがすべての罪のさばきを引き受けてくださったことを確信することができます。
だから死は恐れではなく、キリストと直接顔と顔を会わせることができる期待であり、喜びです。
死がもたらす永遠の不安を味わうことなく、私たちは安らかに死ぬことができます。そこには喜びが満ちています。
このイエス・キリストを一人でも多くの方が信じてくださることが、私たちの願いです。
どうかまだイエス様を信じておられない方々がこの方を信じ、永遠への希望を受け取ってください。