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2019.9.29「彼の言うことを聞きなさい」(ルカ9:28-36)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
最近、関西電力関係者の贈収賄事件が連日報道されているのですが、
ふと気になるのは、背広仕立券だの何だのいろいろ贈ってた高浜町の旧助役(故人)についてはほとんど報道されないこと。
故人であるからということで、それこそ罪が忖度(そんたく)されているように思えてならないのは穿ちすぎでしょうか。
そして現・高浜町長もまるで他人事のように怒りの声を上げていますが、町民の責任は問われないのでしょうか。
私たちが福音書を読むとき、あるいは語るとき、群衆=哀れな羊という面が強調されるきらいがありますが、
実際にはイエス・キリストは、弟子たちよりも一般の人々に対して厳しい目を向けられることがありました。
(それは山上の変貌後の出来事のなかで、共観福音書が共通して語っていることです)
それにしても、いつも洋服の青○年末セールでツーパンツスーツばかり買っている私も、一度背広仕立券なるものを見てみたいものです。
送られてきても受け取れませんが。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』9章28-36節


1.
 イエス・キリストが30歳の時に故郷ナザレを離れ、十字架の死まで宣教活動をなされた期間は、約3年半と言われています。
これを公生涯と言いますが、今日の聖書箇所は、その3年半の公生涯のうち、最後の半年間のはじまりとなる箇所です。
新約聖書には、イエスの公生涯を記録した、福音書が四つありますが、どの書も三年半をバランスよく記しているというわけではありません。
このルカ福音書は、全部で24章あって、まだ9章ですから、イエスの公生涯の前半のように誤解しがちなのですが、
実際にはルカ福音書の大半は、最後の半年間にターゲットを絞って、イエスのことばや行いについて書かれています。

 今日の聖書箇所に描かれている出来事は、山上の変貌と呼ばれます。最後の半年間の出発点となる箇所ですが、
このときのイエス様はいったいどのような状態であったでしょうか。信じられないかもしれませんが、だれにも理解されない、ひとりぼっちだったのです。
それまでの約三年間、イエスはユダヤ全土を回りながら、病をいやし、悪霊を追い出し、神の国が来たと語り続けていました。
それは、一見、多くの実を結んでいたように見えました。イエスの元に集まってくる者たちは日に日に増え、休む暇のないほどでした。
しかしほとんどの人々は、イエスを罪からの救い主とは見ていませんでした。
やれバプテスマのヨハネがよみがえった、やれエリヤだ、いや昔の預言者の生まれ変わりだと言っても、救い主としては見ていません。
モーセのように空から食べ物を降らせてくれる、あるいはダビデのようにイスラエル王国を再興してくれる、そんな願いしか託していません。
十二弟子でさえ、イエスがエルサレムで十字架にかかり、殺され、そしてよみがえらなければならない、ということばを受け入れられなかったのです。
ましてや人々が、イエスさまの心を理解できなかったのは当然かも知れません。イエス様は、人々に囲まれてはいても、孤独でした。

 今日の、イエス様が光り輝く御姿に変わられた出来事にはどのような意味があったのでしょうか。
まずひとつには、人々が決して理解しなかった、十字架にかかる救い主としての道を、父なる神はよろこんでくださった、ということです。
この出来事の一週間前に、ペテロは「あなたは神のキリストです」と告白しました。
しかし実際のところ、何をもって神のキリストなのか、ペテロを含めて、弟子のだれも、よくわかっていませんでした。
神のキリストの答えが、ここにあります。イエス様は父なる神に、自分の心を聞いていただくために山に登り、この出来事を経験しました。
これは、キリストが自分の意思で、自らの力をもって起こした変化ではありません。父なる神が、神の子として輝かせてくださったのです。
たとえ人々があなたの選び取った十字架を理解しなくても、まさにあなたが十字架へと向かうからこそ、私はあなたをわが子と認める、と。
あなたの十字架への決意は、わたしのみこころに完全にかなっている、だからわたしはあなたをよろこぶ、という光に満ちた励ましでした。

2.
 それは、弟子たちが求めていた栄光とはまったく違います。彼らが考えていた栄光は、万人に受け入れられる栄光でした。
しかし父なる神がイエス様に備えられた栄光は、万人の期待する方向とはまったく反対の、十字架の向こう側にあるのです。
神の子が裏切られ、見捨てられ、傷つけられ、殺される。十字架にイエスがつけられたそのとき、世界を闇が覆い尽くし、光は失われました。
しかし神の栄光はさらにその十字架の先に、イエスが死に、そして復活されたときに、神の栄光が高らかに表されました。
イエス様が語られた信仰は、この地上の生活のなかで人々が望むものを手に入れることではありません。
この世界で語られる「信仰」とは、まさに人々が望んでいるものを受け取ることなのです。しかし聖書の信仰は、その真逆です。
地上の生涯が終えたあとに、この世で手に入れられるものをはるかに凌駕する、想像のつかないような世界が約束されています。
もちろん、この地上で私たちがイエスを信じたときから、神の国は私たちの心の中に生まれ、始まっています。
しかしそれは、この世で苦しみが避けていくバリアのようなものではありません。苦しみの中でも、そのはるか先にある栄光を待ち望む力です。

 ルカは、このように語ります。モーセとエリヤが栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期を一緒に語り合っていた、と。
モーセもエリヤも、まさにこの八日前にイエスが語っておられた、「決して死を味わうことがない人々」のさきがけでした。
モーセは、目もかすまず、からだも衰えていなかったが、約束の地を前にして、主の命令によって死んだと、旧約聖書に記録されています。
エリヤは、弟子エリシャが見守る中、火の戦車に乗せられて、天へと上っていったということが、やはり旧約聖書に記されています。
この世の人間が理解できない十字架の道。この世の人間が地上で得ようとする栄光ではなく、十字架の先にある永遠の栄光。
モーセもエリヤも、その栄光を見つめながら、天へと帰っていました。
そしていま、ほんとうの栄光に向かって歩もうとしておられるキリストの最期について、栄光の雲の中で語り合っていました。
それは、弟子たちにさえも理解されない孤独のなかで十字架に向かって歩みだしたイエス様にとって、すばらしい交わりの時であったことでしょう。

 このできごとが、イエスが祈りを求めて山に登り、実際に祈っていたときに与えられたということを、私たちはおぼえていきたいと思います。
私たちが苦しみの中で神に祈るとき、このときのイエス様が内側から光輝いたように、私たちも内側から変えられていきます。
もし内側から変えられるならば、人からの承認を求めてそこに安心を得るということは必要なくなります。
なぜなら、人と違っていたら不安になるような心の状態から解放されて、ただ神が私たちを受け入れてくださる喜びに支配されるからです。
祈りましょう。祈り続けましょう。私たちの理解者であり、創造者であるイエス様が、私たちのなかに確かに生きてくださっているのです。

3.
 イエスと、モーセと、エリヤとのあいだでかわされた交わりは、永遠のように見えて、しかし一瞬であり、終わりが来ました。
33節をご覧ください。ふたりがイエスと別れようとしたとき、はっきりと目が覚めたペテロはこう叫んだとあります。
「先生、ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」。ここでペテロは、いくつかの間違いを犯しました。しかしそのなかでもっとも大きな過ちは、
十字架という嘲りとみじめな死に向かって歩み始めたイエスを、人の造った幕屋の中に閉じ込めて記念しようとしたことです。
十字架は、地上の人々が求めているものとは相反するものです。
平安とか居心地の良さとかとは真逆のものが、キリストの向かった十字架です。
そしてペテロではなく、それ以降のクリスチャンたちも同じような失敗を犯したことは、歴史が証明しています。

 イタリアのアッシジという町に、カトリックの聖人、フランチェスコを記念する数々の聖堂があり、世界遺産にも登録されています。
その聖堂のひとつ、リヴォトルト聖堂は、フランチェスコが死んだ後、弟子たちによって建てられたものですが、聖堂の中に豚小屋があります。
正確にいうと、フランチェスコが仲閧スちと暮らした豚小屋のまわりに高い壁と柱をめぐらし、ドームのように包んでいったのです。
その工事が始まったのは、貧しさこそがイエスの十字架に繋がる道と教え続けたフランチェスコが亡くなって、わずか数年後のことでした。
フランチェスコがイエスと歩んだ人生の幸いは、やがて朽ちて崩れていく豚小屋に表されていました。
やがてそれが草に覆われ、石が崩れても、地上のものには執着しないという証そのものを、人々はすぐにモニュメントにしてしまったのです。

 しかし、幕屋を建てますという弟子の言葉に対し、雲が人々を覆いました。そして父なる神の声があたりに響きました。
35節、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」。
「彼の言うこと」とは、まさにイエスの語られたみことばそのものに他なりません。
地上の栄光はやがて消える。どんな奇跡も、やがて人々の心から忘れ去られる。しかしみことばは決して変わることはありません。
十字架に向かっていかれたイエス様の後ろに、自分も従って行きたいと願うならば、必要なのはただひとつ、みことばに聞き従うことです。
それは聖書のことばに聞くということです。この世の常識や、多数派の意見が、聖書の教えと真っ向から対立するときに、どちらに従うのか。
救い主が、十字架で殺されることなどあってはならないと考えた弟子たち。神の子にふさわしいのは十字架よりも荘厳な幕屋と考えた弟子たち。
しかしあなたがたは、わたしが選んだ、愛する子の言うことを聞きなさい。それは、この聖書66巻にいつも尋ね、聞き、従うということです。
一人ひとりが、イエス・キリスト、そしてそのみことばに従って、歩んでいきましょう。
その先に、イエスの十字架があり、さらにその先に、地上のすべてが取るに足らなくなる、まことの栄光があるのですから。
posted by 近 at 23:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ
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