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2019.10.6「ひたすら十字架に向かって」(ルカ9:37-45)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
台風19号(ハギビス)が現在(12日の19:00頃)伊豆半島に上陸というニュースの中でブログを記しています。
新潟市は、雨・風ともに少しずつ強くなっておりますが、避難注意・指示などは発令されていないようです。
せっかく教会の玄関前に出しておいたバザーの看板も撤収しました。台風が過ぎたあと、また掲示します。
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関東や東海地方のニュースを見ながら、どうか守られますようにと祈ります。
ほんとうに、祈ることしかできません。
二千年前にガリラヤ湖上の嵐の中で怯えていた弟子たちと、現代の私たちの姿は基本的に同じなのだと思わされます。
自然の脅威に対して無力です。恐れます。しかし台風を恐れるのではなく、すべての創造者をこそ恐れたいものです。
キリストが「黙れ、静まれ」と荒れ狂う空に向かって語ってくださるその時を待ちます。
定期的にこのブログに目を通してくださる方々の中には、今晩、避難所で夜を過ごす方もおられるかもしれません。どうか休めますように。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』9章37-45節


1.
 今日の聖書箇所は、マタイの福音書、マルコの福音書の中にも出て来る有名な箇所ですが、
このルカ福音書での物語を、マタイ、マルコと比べると、肝心な箇所が抜けています。
マタイ、マルコでは、あとからそっと弟子たちがイエス様にこう聞くのです。「なぜ私たちには悪霊を追い出せなかったのですか」
するとイエス様が答えます。マタイでは、信仰が足りないからです。マルコでは、祈りと断食によらなければでていきません。
すでに弟子たちは悪霊を追い出す力と権威を与えられていたのですが、それは自動的に発動するのではない。
信仰、祈り、また祈りに専念するための断食、といったものを働かせていく、と、わかりやすく適用することができます。
 ところがルカの福音書では、そういうやりとりは一切ありません。
それは、十字架に至るイエス様の苦しみを一続きとして集中して描いていくために、あえてそのような信仰の教訓をカットしているわけです。
しかし次のことばだけは、三つの福音書で共通して、記されています。41節をご覧ください。
「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。
いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい」。
イエス様はこの言葉をだれに対して言っているのでしょうか。
これも三つの福音書に共通しているのですが、弟子たちに対してではなく、この父親を含めて、群衆に向かって語っているのです。
 このことに、私たちは混乱します。イエス様は苦しんでいる者たちをあわれんでくださるお方ではないのでしょうか。
それなのに、「いつまであなたがたにがまんしなければならないのか」などと、突き放したことを言われるなんて、そんなことがあるのだろうか、と。
しかしここに、私たちに対する大切なメッセージが隠されています。
それは、イエスさまに何かを求める前に、あなたはイエスさまが何を求めておられるのか、知ろうとしていますか、ということです。
人々は、イエスに今日の食べ物を求め、地上の安定を求め、病のいやしを求め、悪霊の追い出しを求めました。
イエス様はどんなにご自分が疲れているときにも人々を迎え、そして与えられました。
しかしこの、我が子のためなら真剣そのものである、この父親でさえ、イエスが進もうとしておられる十字架の道を想像できていませんでした。
辛辣な表現をすれば、彼らにとってキリストは、求めれば何でも出てくるATMでしかなかったのです。

2.
 先ほど触れたように、この箇所はマタイやマルコにおいては、弟子たちの信仰の薄さが指摘され、そして祈りの大切さが語られてます。
比較的新しい写本では断食についても付け加えられていますが、断食によって祈りに専念することができるという意味です。
マタイは、追い出せなかった弟子たちのひとりですし、マルコもその時のことばをペテロから聞いていたのでしょう。
ただルカは、弟子たちに対するすすめは無視し、きわめて大胆に、次のことを強調しています。
それは43節、「人々はみな、神のご威光に驚嘆した。イエスのなさったすべてのことに、人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちにこう言われた、『このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます』」。
このことば、とは何のことでしょうか。言うまでもなく、「人の子は、いまに人々の手に渡される」という、十字架の死に対する予告です。
その「人々」とは誰のことでしょうか。それは、ほかならぬ、この神のみわざに驚嘆し、イエスをあがめていた群衆そのものだったのです。
いま、キリストのみわざに対して驚嘆の声を上げている彼らが、やがてわたしを十字架につける人々なのだというのです。
 イエスを信じる私たちは、神の子どもとされた者たちです。信じるまでは罪ののろいの下にあり、神と断絶していた者でした。
その信じるということ自体が、自分から出たことではなく、神の恵みでした。
その結果、今はキリストのお名前を通して祈るならば、父なる神は何でもみこころにかなうものを与えてくださる、という約束を受けています。
けれども、何を求めるのでしょうか。
永遠のいのちのすばらしさを知ったいま、永遠でないものを手に入れてもそれがかりそめでしかないことを知ってしまいました。
なくならないものを得たいま、なくなってしまう地上のものを今さら手に入れたところで、いつまでも楽しめるものではありません。
私たちが求めるのは、神のみこころです。神が何を願っておられるのか。私たちにどう生きてほしいと願っておられるのか。

3.
 神が私たちに求めておられる生き方は、イエス・キリストと同じように十字架へと向かっていく道です。
しかし多くのクリスチャンたちが、その十字架への道がわからないと言う。だから牧師先生、教えてくださいと言います。
けれども、十字架の道というのは、先日どなたかが祈られたように、イエス様が言われたのは「それぞれが自分の十字架を負い」ということです。
私には、私の十字架があります。あなたには、あなたの十字架があります。
ここに30人のクリスチャンがいれば、30とおりの十字架への道があります。
それぞれが聖霊の導きを求めながら聖書を開き、それを何度でも何度でも繰り返していくなかで、十字架の道は示されていきます。
とくに、実際にキリストが十字架へと歩んで行かれた道を、何度も福音書から味わってみるのはよいことです。
しかし旧約聖書からでも、イエスの十字架がまるで映像のように示されてくることもあります。
まったく無関係に見える聖書の箇所から、己の十字架が見えてくることもあります。
 「人の子は、いまに人々の手に渡される、このことばをしっかりと耳に入れておきなさい」と、イエス様はご自分の最後を示されました。
弟子たちにこの言葉が理解できなかったし、この言葉を正面から受け止めることを恐れました。
しかし私たちには、このイエス様のことばが、私のために十字架にかかってくださったという決意に溢れていたことがわかります。
そしてそれを誰にも理解されなかった孤独の中で、それでもなお一歩一歩、十字架に向かって進んでいかれたということを。
イエス・キリストがひたすら向かっていかれた十字架の道に、自分たちもついていきたいものです。
そのために信仰が与えられています。祈りが与えられています。何よりも、みことばが与えられています。
私たちを自分の十字架から引き離そうとする誘惑を見分け、戦っていくために、神は私たちにすでにあらゆるものを与えてくださっています。
私が生きているのではなく、私の中にはキリストが生きていて、古い私はもう死んでいる。パウロはそこまで言い切りました。
どうか一人ひとりが、イエスがたどられた十字架への道をかみしめながら、そのあとに従って歩んでいく一週間となりますように。

posted by 近 at 19:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ
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