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2019.10.13「わたしの名のゆえに」(ルカ9:46-50)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
台風19号で被害を受けた方々の上に、創造主なる神の励ましがありますように祈ります。
明日はいよいよ教会バザーです。
最近、長すぎるとお叱りを受けている礼拝説教も、礼拝後のバザー準備があるので短くするようにという厳命を受けています。
先日、教団の研修会に参加したとき、5分でプレゼンを頼まれていたのですが、当日になって、持ち時間が3分に減らされました。
5分という時間がどれだけ貴重かということを思い知らされました。説教も、もっと緊張感をもって臨めば、濃縮された時間となるはずです。
昔は何を語ればよいかわからず、とにかく20分を持たせるのが大変だなあと思っていたのですが。
説教の長さで苦しむ日が来るとは考えもしませんでした。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』9章46-50節


序.
 かつてお昼に放送されていたテレビ番組に、視聴者からの電話の悩み相談に対して、出演者がそれにアドバイスするというのがありました。
その時間帯に電話できるという人はほとんどが専業主婦なので、内容はだいたい夫婦関係の悩みに限定されているのですが、
その中に60代の主婦からこんなのがありました。先日、夫が定年退職になりました。
会社で働いていたときには、毎日スーツを着こなし、夜でも携帯が鳴り仕事の指示を出したり、たまに部下を家に連れてきたり、
頭は少し薄くなっていたけれども、ああ、この人は立派なんだ、会社にとっても家族にとっても必要な人なんだ、と尊敬していました。
ところが定年になったとたん、昼近くまで布団に潜り込むわ、起きたと思ったら寝巻姿で新聞を読みながらご飯を食べるわ、
ゴミの分別も知らないわ、ご近所さんの顔と名前も一致しないわ、私がいちいち教えなければ何もできないわ、教えても反発するわ、
そもそも何度教えてもおぼえないわ、・・・・あとは省略しますが、100年の恋も冷めた私はどうしたらいいのでしょう、という質問内容でした。
 じつはイエス様が「このような子ども」と言われたのは、年齢の低い幼子ではなくて、こういうご主人のことなのだと言ったら驚くでしょうか。
新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、ギリシャ語には子どもを表す言葉として、「テクノン」と「パイディア」という言葉があります。
「テクノン」というのは文字通り子どもを表すのですが、「パイディア」というのは躾や訓練を必要としているという意味でのこどもです。
だからパイディアというのは、子どもだけではなく、奴隷、部下、家来、という言葉にも訳されることがあります。
そして今日の箇所で、「子ども」と訳されていることばは、このパイディアです。
もしかしたらイエス様が手を取ってご自分のそばに立たせられたのは、小さな子どもでなくて、そこにいた奴隷のひとりであったのかもしれません。

1.
 この箇所で、イエス様がまず弟子たちに語ろうとされたのは、次のようなことでした。
あなたが自分よりも下に見ている者、私がしつけなければならない者、訓練しなければならない者、そのように考えている相手に対して、
キリストの名のゆえに、「敬意をもって」受け入れなさい、と。それができる人こそが、喜んで自分の小ささを誇ることができる人です。
そして、そのような人こそが、あなたがたすべてのなかでいちばん偉い人なのです、と。
 ここでイエス様が、幼子のような者が偉い、と言っているのではないことに注意しましょう。
それは別の箇所で語られているので混同しやすいのですが、
ここでは、幼子のような者を、わたしの名によって受け入れることができる人が偉い、と言っています。
「一番小さい者」とは幼子のような人のことではなく、幼子のような者をも尊敬し、受け入れる者、ということです。
 人間というのは、自分よりも優れているという人のことは尊敬し、受け入れることができるのですが、
人の助けを借りなければ何もできない、自分がいなければ生きていけない、そういう人を受け入れることはたいへん難しいのです。
さっきみたいなご主人を受け入れるのは大変なことです。しかしこういうご主人こそがパイディア、訓練を必要としている人ということです。
定年を迎えた夫婦だけではないですね。ある教会で、若いお母さんたちの悩みを語り合う場を提供しているのですが、
お母さんたちがふだんの生活で怒りをおぼえる場面はどんなときか、アンケートを採ったら、みごとにふたつに集約されたそうです。
ひとつは、子どもがさっさと準備しないこと、もうひとつは、夫がそれを見ながらまったく手伝わないこと。どちらも躾と訓練が必要なパイディアです。 イエス様が、このような子どもをわたしの名のゆえに受け入れなさい、というのは、決して幼子だけを指しているのではありません。
あなた自身を基準としたら、受け入れることは難しい、いや、受け入れることは不可能です。しかし、わたし、キリストを基準としなさい、と。
自分自身も、イエス・キリストにとっては幼子のような者のひとりにすぎないのだ、ということを自覚する、
それがわたしの名のゆえに受け入れなさい、ということです。
 自分を基準にしたら、そこに到達しない人、子どもに限らず、大人でもそうです、彼らは教えて、しつけなければならない相手です。
そこに、「わたしの名のゆえに」という、新しい基準を設けよ、と。私もイエス様に教えられなければならない幼子なのだ、と。
私もまた、イエスの御名の下に、同じようにしつけと訓練を必要としている弟子のひとりにすぎないのだとへりくだることができるのです。
そのとき、自分よりも下に見ていた人からも多くのことを学びます。その人を従わせるのではなく、その人の声や姿に耳を傾けます。
相手の人格を心から受け入れ、屈服・矯正する相手としてではなく、ともに成長していくものとして見ることができます。

2.
 イエス様は、そのような生き方を、私たちに模範として示してくださいました。
だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。その言葉はこう続きます。
「また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。」
この二つの文の繋がりは重要です。イエス様は父なる神の前では、ご自身も「このような子ども」なのだ、という謙遜を示しておられます。
驚くべきことに、ヨハネ福音書の中には、イエス様は「自分からは何もすることができない」と告白しているところがあります。
イエス様ご自身がまことの神でありながら、父なる神のひとり子として、完全に父の権威の下にご自分を置き、みこころに従われました。
それは、まさにご自身こそが、「この子どものようだ」と告白しているということです。
父なる神の前に、何も持たず、何もできない者として地上に来られた、そのご自分の姿を、パイディアという言葉に重ね合わせています。
イエス様がベツレヘムの馬小屋に何も持たない者として生まれてこられたことはともかく、「何もできない者」というのは言い過ぎでしょうか。
しかし、父なる神のみこころに反しては、何一つご自分からはできないのだ、と言っておられます。
ピリピ人への手紙2章の中で、聖霊はパウロを通してこう語っておられます。
「キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、
人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、じつに十字架の死にまでも従われたのです」。
 イエス様は、父なる神のひとり子として、すべてを捨て、すべてを耐え、十字架の死に至るにまで父のみこころに完全に従われました。
私たちがイエス・キリストを信じたとき、主の完全なる従順が、あたかも私たち自身の従順として私たちに着させられるのです。
十字架は罪の身代わりだけではありません。十字架を信じる者は、キリストが果たされた完全なる従順が、私自身に転嫁されるのです。

3.
 しかし弟子たちには、イエス様の語ろうとしていることがわかりませんでした。それはヨハネのとんちんかんな適用が物語っています。
彼は「わたしの名のゆえに受け入れる」という言葉の意味を、自分勝手に解釈しました。
イエス様の御名を使って悪霊を追い出している者たちがいたが、自分たちの仲閧ナはないからやめさせた、と答えたのです。
しかし主はこう答えました。「やめさせることはありません。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です」。
 イエス様の御名には力があります。
聖書には、信仰の有無にかかわらず、キリストの御名によって悪霊を追い出していた人たちの姿がいくつか記されています。
イエス様の御名には力があるからこそ、それを宣言する者は、自分の心の中を聖霊によって吟味されなければなりません。
キリストの御名が、父なる神の前にへりくだられたキリストを思い起こしながら宣言されるとき、
私たちは自分よりも、小さく、弱いと思われる人たちへの見下した態度を砕かれ、キリストのようにへりくだって受け入れることができます。
キリストの御名は、愛という文脈の中で用いられたときに、それはどんな奇跡よりも人をよみがえらせる力となる。
 しかし信仰者は弱いのです。愛よりも、自分は正しい、という自己満足の中でキリストの御名を用いることもあります。
キリストの御名によって悪霊を追い出せるのが聖霊に満たされたキリスト者だという誤った教えを信じ込んでしまったり、
そういうことでしか、クリスチャンとしての存在価値を保てないということであれば、かえって信仰の喜びを失ってしまいます。
 それはキリストが、最も小さな者が最も偉い者だと言われたこととは真逆です。
私は何も持っていない。何もできない。しかしキリストが私の中に与えられているのであれば、何もいらない。生きるのも死ぬのも、この方と共に。たったひとつ、決して奪い去られることのないものにだけ目を留めて、そのために自分の人生をささげていきたいと願わされます。
キリストの御名が、愛によって語られるときに、人は悔い改めに導かれて、永遠のいのちと生きる喜びを与えられていきます。
しかしキリストの御名が、人々の愛よりも自分の力を誇示するためのものに用いられるならば、それは喜びを損なわせるものになるのです。
私たち一人ひとりが、キリストの御名を、愛をもって人々に語り、伝えることができるように祈りましょう。
キリストの御名のゆえに、私たちは救われ、キリストの御名のゆえに、人は生き続けられるのですから。

posted by 近 at 17:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ
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