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2019.11.3「弟子の覚悟」(ルカ9:57-62)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』9章57-62節



1.
 子どもの頃、授業参観に来ているのはほとんどが着飾ったお母さんたちなのに、なぜ「父兄」と呼ばれるのか、不思議でなりませんでした。
きっと私が子どもの頃よりももっと前の時代には、お母さんたちではなく、お父さんやお兄さんが授業を見に来ていたのでしょう。
聖書には「弟子」という言葉が頻繁に出てきますが、
いまの時代の人にとっては、弟子という言葉は習い事を教えてもらう人というイメージで終わってしまうかもしれません。
今日の聖書箇所には、「弟子」という言葉そのものは出てきません。
しかし説教題が示すように、イエス・キリストの「弟子」の心構えを教えようとしていることは確かなことです。
57節と59節に出てくる「ついて来る」という言葉と、61節に出てくる「従う」ということばは、
翻訳では少し変えられていますが、実際に新約聖書が書かれた、ギリシャ語の原典では、同じ言葉が使われています。
イエスについて行くことは、イエスに従うことそのものです。
従うという決意がないままに、ついて行くことは、少なくともイエスとその弟子との関係の中にはあり得ないのだ、と教えています。
「オレについてこい」という言葉が男性からのプロポーズの言葉として通用したのは昭和まで。
ましてや「わたしに従いなさい」など、現代においては、もう黒い会社でしか使われないような言葉です。
しかし私たちは、イエス様が弟子たちに求めておられることを、いま改めて心に刻みつけます。
イエスの弟子として歩む道の厳しさ、そしてそのはるか先に待ち受けている、永遠に至る希望を。

2.
 最初の人のことばは、耳に心地よい響きです。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます」。
しかしイエスは、その人の心の中にある甘えをご存じでした。人の子、イエスの生きる場所は、獣よりも劣悪なところです。
穴や巣は、獣たちによって安全な所。しかしイエスには、安心できるところさえありませんでした。
イエスの弟子として生きる道は、この世で安心できる場所すらも奪われる生活なのだ、ということをこの言葉は表しています。
イエス・キリストを信じることは、イエス・キリストの弟子となることです。
イエス・キリストの弟子となることは、イエス・キリストが歩まれた道を自分も歩んでいくことです。
 じつに初代教会の時代から何百年ものあいだ、今日の聖書箇所は、洗礼を受ける際の誓約として用いられました。
クリスチャンにとって、みことばの中にこそ安らぎがあります。そしてそのみことばを分かち合うことのできる交わりこそが、霊の家族でした。
じつに、日本でわずか1%にすぎないクリスチャンには、家庭であれ、会社であれ、地域であれ、心から羽根を広げられる場所はありません。
いつも私たちは見られています。いつも私たちは問われています。歴史の中で次々に神々が作り出されてきたこの日本で。
神をただひとりと信じることそのものが、その国民性、歴史性、文化性のなかで極めて異質なこの社会で、クリスチャンは試されています。
クリスチャンは常に背水の陣を敷いている者たちです。逃げ場所はありません。
私たちにとってクリスチャン人口1%という数字は、自分たちの無力さと怠慢を表しているもののように見えるかもしれませんが、
むしろキリストの十字架への道を追体験できる数字であると言えます。
 主イエスは、「あなたの行く所なら、どこにでもついて行きます」という言葉に対して、「わたしの行く所には、枕するところもない」と言われました。私たちがまことの弟子かどうかは、このイエスの言葉に対して、「それでもなお、私はあなたに従います」と言えるかどうかです。
聖書に基づいて、私たちは考えます。聖書に基づいて、行動します。
99%の人が賛成か黙認する事柄に対しても、それが聖書に反しているならば、あえて反対しなければならない時もあるでしょう。
1%です。100人のうちのひとりです。しかし十字架に向かっていかれたキリストは、1%どころか、世界でたったひとりの戦いでした。
キリストに従うということは、このキリストを語り続けるということです。それはこの社会において、大変に困難を伴う戦いです。
しかしその戦いを最後まで諦めなかった者には、やがて神の前に立つ時が来れば、神ご自身から大きな報いを受けとります。

3.
 二番目の人と、三番目の人は、細かな違いはありますが、本質的には一つの点で同じであると言えるかも知れません。
それは、優先順位を取り違えているということです。キリストの弟子となり、福音を伝えていくことは何にも勝って重要な事柄です。
そして実感がわかない人もいるかもしれませんが、宣教のために与えられた時は限られています。
明日が、今日と同じように無事にやってくるとは限りません。今日語らなければ、永遠に福音を聞く機会のない人々もいるのです。
 二番目の人は、イエス・キリストのほうから弟子に招いてくださった、貴重な人材でした。しかしこの人は招きにこう答えます。
「まず行って、私の父を葬ることを許してください」。
イスラエルも含む中近東の文化では、「父を葬る」というのは葬儀を指すのではなく、一生面倒を見るという意味だと言います。
しかし、実際に葬儀の時が近づいていたと解釈しても、同じことです。いずれにしても、優先順位を間違えているのです。
神が私たちを弟子として招かれるのは、「いま、すべてに優先する、緊急の課題として」私に従い、神の国を言い広めなさい、ということです。
たとえそれが、親の面倒を最後まで見る、という尊いことであったとしても、いま、あなたに求められていることは何か。
死にゆく者たちを生かすことができるのは、福音を伝えることしかあり得ません。キリストの弟子になるということは、すばらしいことなのです。
いま、あなたにできることは何か。いま、あなたがすべきことは何か。いま、あなたが語るべき言葉は何か。
親の介護も必要かもしれない。子どもや孫の世話も求められるだろう。しかし優先順位を取り違えてはいけない。
あなたにとって最も大事な優先されるべきことは、いま、わたしに従うこと。そして神の国を言い伝えることだ、と主はあなた自身に言われます。
 最後の人に、イエスはこう言われます。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」
手を鋤にかけるというのは、畑を耕すためです。それはひたすら前に向かって鋤を振り下ろしていく作業です。
キリストに従う、ということも後ろのものを忘れ、ひたすら前に向かって進んでいく道です。
一度キリストに自分自身をささげます、と言うならば、あとのことは何一つ心配する必要はない。
あなたのこれからのことだけではなく、残していく家族のことも、神はすべて引き受けてくださる、と約束されています。
このイエス・キリストの弟子となるということは、決して牧師や宣教師になることだけを指しているのではありません。
私たちがイエス・キリストを救い主として信じたとき、私たちは弟子として歩み始めたのです。
厳しい道ではあります。しかしこの世が与えることのできない、平安と喜びが待ち受けています。恵みに押し出されながら、歩んでいきましょう。

posted by 近 at 20:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ
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