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2019.11.10「遣わされた者として歩む」(ルカ10:1-16)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

 また一人、著名な芸能人が薬物使用によって逮捕されました。そのために大河ドラマを撮り直すという方向へ向かっているそうです。ただ、確かに薬物所持も使用も大きな罪ですが、CDの出荷を止めたり、映像ソフトからその人の登場シーンだけを削除したり、あるいは撮影そのものを撮り直したりする必要はあるのだろうか、と思うのです。音楽にしろ、映像にしろ、それは決して一人で作れるものではありません。そしてその販売の利益によって生活の糧を得ている人もいます。芸能人だけでなく、小説家や漫画家、プロのスポーツ選手なども同様です。著作物、試合の結果、そういったものは決してその人だけの才能や努力で生み出されるものではありません。罪は罪として認めなければなりませんが、だからといって、その人が出演した作品などをそこに連座させて、処分する必要はないと思うのです。CDや従来の著作物が損害賠償に充当されたり、あるいは本人の意思により薬物更正施設や慈善団体への寄付などに用いたらよいのではないでしょうか。もちろん、このような考え方に納得することができない方々も多くいることは承知しております。

 では、牧師がもしこのような罪を犯した場合にはどうでしょうか。説教集や著作物がある牧師だったら、出版差し止めになるかもしれません。しかし牧師に関して言えば、それまでに語られた説教は、彼を通して神が語られたものですから、たとえばその牧師から受洗したり、指導を受けていたりしても、すべてを否定する必要はありません。しかしそのような罪を犯した牧師がいる場合、それまでの数年間の説教や牧会の方向性を見れば、少しおかしいということをまわりの人々が気づくことも多いようです。
 もし牧師が本当に、そのような公の罪を犯したならば、即刻、牧師という職を辞するべきでしょう。今も、日本を含めて世界じゅうで、セクハラや刑事告発を受けながらまだ講壇に立っている人々もいます。しかしそれまでに語られた説教は神のことばとして受け入れることはできても、罪が明らかになりその償いを必要としている者を、それ以上神が用いられることはないと考えます。たとえこの地上では、その犯した罪にかかわらず追従者がある程度存在し、彼(彼女)を引き留めたとしても、やがて神の御前に立ったとき、犯した罪の大きさを主イエスご自身から指摘されることになるのでしょう。
 私も献身者として歩み始めてから約20年、一度だけスピード違反で捕まったことがありました。白バイ警官に牧師だと答えたら「ボクシのボクってどう書くの」と調書作成のときに言われました。「葬儀で急いでいたもので」という言い訳は通用しません。しかしそれ以外にも、牧会の中で傷つけてしまった人々をおぼえます。もう謝ることもできない、遠くへ行ってしまった人たちもいますが、まだ間にあう人々に対しても、謝罪できず、逃げていることもあります。ふがいない自分を見つめつつ、やがて神の前に立ったとき、ただすがることのできるのは、さばき主であると同時に私の代理人であり弁護者であるキリストだけだということを改めて思わされます。

 週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』10章1-16節


1.
 まず1節をお読みいたしましょう。
「その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。」
ここに出てくる70人の弟子の派遣は、ルカの福音書にしか記されていない出来事です。
だけど、新約聖書をある程度読んでこられた方々は気づくと思います。
あれ、別の福音書でも、イエス様が弟子たちに同じようなことを語っているのを読んだ気がするなあ、と。
そう、じつはマタイの福音書では、12弟子に、同じ勧めをして、イスラエルの町々、村々に派遣したことが書かれています。
 マタイ、マルコ、ルカ、福音書の中で共観福音書と呼ばれるこの三つの福音書では、同じイエス・キリストの生涯を追いかけながらも、
イエス様の語られた言葉や行いが、それぞれの福音書記者が決めたテーマにしたがって再構成されています。
今日の箇所に出てくるイエス様の勧めも、マタイでは12弟子に対するものとして語り、ルカでは70弟子に対するものとして語っています。
ルカが、12弟子ではなく、70人の別の弟子を登場させ、そして彼らに対する勧めとしてこれらのことばを記しているのはなぜでしょうか。
それは、イエス様に派遣されたのは、特別に選ばれた12人だけではない。
この70人に象徴される、すべての信者が、神の国の宣教のために召され、祝福とともに派遣されているのだと伝えるためです。
この70人の無名の弟子たちは、教会二千年間の歴史のなかでみことばによって救われてきた、信徒たちの姿を表そうとしています。
神の国の宣教は、牧師や司祭、宣教師といった、直接に献身した者たちだけにゆだねられているのではありません。
みなさんひとり一人が、遣わされた者です。ルカが、この特殊な記事を通して伝えようとしているのはまさにそのことなのです。
私自身が、イエス様によって、この世界に神の国を伝えるために遣わされた者なのだ。
そのことを、まず刻みつけていただきたいと願います。

2.
 この70人の弟子たちは、12使徒と違って、名前や出身などはまったくわかりません。
しかし確かなのは、12人の弟子とは別に、イエス様自らが選び出した者たちだということです。
そして12使徒と同じように、病をいやし、悪霊を追い出す権威を与えられて、遣わされていきました。
 今日、私たちは「遣わされる」ということの大切さをとくに心におぼえていきましょう。
パウロは、ローマ人への手紙の中で、宣教について、ひとつずつ階段を昇っていくような論法を使いながら、こう語っています。
信じたことのない方をどうして呼び求めることができるだろうか。聞いたことのない方をどうして信じることができるだろうか。
宣べ伝える者がいなくて、どうして聞くことができるだろうか。そしてこの階段の一番上の部分が、次の言葉です。
「遣わされることがなければ、どうして宣べ伝えることができるだろうか」。
 伝道とは何ですかと聞かれたら、多くの者がこう答えるでしょう。救い主イエスを宣べ伝えることである、と。しかしそれだけではありません。
伝道とは何ですか。もう一つの答えは、イエスによって、私が遣わされることです。
伝道の得意なほかの人が遣わされるのではありません。得意であろうが不得意であろうが、私が遣わされること、それが伝道です。
この70人が遣わされたときのことばを注意深く読んでみましょう。
1節にはこう書いてあります。「ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった」と。
この70人は、勝手ばらばらに散っていったのではありません。イエス様が行かれようとしているところに前もって遣わされたのです。
イエス様は、これから半年間かけて、十字架の待つエルサレムへと向かわれるおつもりでした。
そこに向かう動線上の町や村に、彼ら70人の弟子たちは前もって遣わされ、この町に救い主が来られる、と宣べ伝えたのです。

3.
 それはまさに、働き人の少ない中での骨の折れる仕事でもあり、狼の中に放り出される小羊のように、危険な務めでもありました。
しかし彼らは、困難の中でも、必要なものはすべて主が備えてくださると信じて、イエスの行かれるところに、二人ずつ先に遣わされていきました。
「先に」。これが大事なキーワードです。彼らは悪霊を追い出し、病をいやし、神の国を宣べ伝えました。しかし私たちは前座にすぎません、と。
イエス様ご本人がこの町に来たときには、自分たちがしているよりもはるかに素晴らしいことが起こるのだということを証ししました。
私たちの伝道もまたそうです。あなたがキリストを信じたときに、何が起こりましたか。あなたに目に映る世界は何色に変わりましたか。
あなたの生きる目的はどう変わりましたか。それを自らの中に踏まえながら、私たちは人々にこう語るのです。
イエス様があなたのところに来られるときに、もっとすごいことが起こりますよ、と。
とても私の小さな人生では語りきれないほどの変化が起こります。あなたはそれをいただきたいと思いませんか、と。
 私たちは、イエス・キリストに遣わされた者です。
遣わされた者に求められていることは、「やがて王がここに来られる」と声を張り上げることです。
しかし信じるか、信じないかは、聞く者たちにゆだねられています。
そしてキリストは、聞いても信じなかった者たちに対して、極めて厳しい言葉を向けておられるのです。
福音を聞いていながらも、救いへの呼びかけに応じない人々に対してキリストは言われます。「さばきの日には、ソドムのほうがまだ罰が軽い」と。ソドムの町は、そのあふれる罪の数々に怒りを燃やした神様が、天から火と硫黄を降り注いで一晩で滅ぼした町です。
ツロとシドンは、ソドムほどではありませんが、やはりその大きな罪によって、滅ぼされた町でした。
しかし実際に滅ぼされたこれらの町々よりも、コラジン、ベツサイダ、カペナウムのほうが、さばきははるかに重いのだ、とイエス様は言われます。
それはイエス・キリストが何度も訪れ、みわざをあらわし、福音を伝えながらも信じなかった町でした。
彼らは、「また今度」と考え、キリストの力あるわざにも目をとめず、神の国が近づいたから罪を悔い改めよというメッセージを拒みました。
しかしもうイエス様はそれらの町々に足を運ぶことはありません。ひたすら十字架に向かうキリストに、「また今度来てください」はあり得ない。
今日聞いた福音の招きを、また次にも聞けるとは限らないのです。救いへの扉は、いつも開かれているわけではない。
今日、みことばを聞いたとき、そこで信じなければ、永遠に救いの機会を逸してしまうかもしれません。そうなってほしくないのです。

結.
 「この家に平安があるように」。キリストに先立ってその町に遣わされた者たちはその言葉で祝福せよと、イエスさまは命じられました。
私たちも、自分の目の前にいる、まだ救われていない人に、いや、今日救われてほしいと願う人に、伝えましょう。
「あなたに平安があるように」。
新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、イエス様はここでは「平安」を表すヘブル語、シャロームを指して語っています。
シャロームとは、からだ、心、たましい、すべてにおいて神との平和があるようにという、まさに「救い」を表している言葉です。
救いをいま、受け入れましょう。そして救いを語りましょう。たとえ耳を傾ける者はわずかであってもなお、語り続けましょう。
イエス・キリストによって遣わされた者のひとりとしてお願いします。
ぜひ、このイエス・キリストを心の中に受け入れて、恐れも不安もすべて消え去った、神との平和を手に入れてくださいますように。

posted by 近 at 21:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ
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