こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
この世では、11月のこの時期は七五三のシーズン。神主さん(クリスチャンから見るとすごいネーミング)と呉服屋さんは大忙し。
盆と正月、そしてこの七五三の時期ばかりは、国民の8割が自分は無宗教であると回答している日本人も、やおら宗教的になります。
(ところが逆に何らかの宗教を持っているという人たちの数を合計すると2億人いるという摩訶不思議)
私たちの教会では、毎月第四主日の礼拝は、ワーシップ形式で行っておりますが、今回は「子ども祝福式」をプログラムに取り入れました。
千歳飴ならぬ「えいえんのいのちあめ」(ドラえもんの道具みたい)でも贈りたいところですが、そういうのはありません。
ただいつもアダルトチックな礼拝説教を、この日だけは紙芝居を援用しつつ、完全に子ども向けにアレンジ。
「ナルドの香油」の箇所から、「一番大事なものを神様に」というタイトルで、メッセージさせていただきました。
子どもたちに届いたかはさておき、親ごさんたちには好評だったよう。しかし一部の大人たちと当ブログの常連様には物足りず。
そこで早天礼拝では同じ聖書箇所から、いつものようにアダルト向けの説教を語り、教会員の方々にはその説教原稿を配布しました。
これで物足りなさを補完できたでしょうか。まあ原稿を配布しなくても、このブログを見れば全部載っているのですが。
8年間も続けているのに、教会員のほとんどに知られていないこのブログ。なんとか10年続けたいものです。応援してね。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』12章1-8節
1.
数年前、病院を舞台にするテレビドラマに、ひとりのお医者さんが、患者の家族に伝える、こんなひと言がありました。
「クスリは、逆から読むとリスクになります」。「リスク」という英語は、日本語では「危険」と訳されます。
ドラマの中では、患者を生かすために強力な抗がん剤をどんどん使ってほしいという家族に対する戒めの言葉として使われていました。
どんな薬であっても、それを使いすぎたり、使い方を間違えたら、危険なものになる、という意味でしょうか。
しかし、「リスク」という言葉を本格的に調べてみると、それはただ「危険」という意味ではないことがわかりました。
それは日本語に直すなら、「犠牲」とか「代償」という風に訳すべきなのだそうです。
単なる「危険」であれば、私たちはそれを避けるべきです。
しかし「犠牲」「代償」は、何かを手に入れるためには避けることはできない危険です。
つまり、一つの危険を引き換えにしなければ、決してたどりつくことのできない道があります。
そして人生は、危険を引き換えにしなければ手に入れることのできないことの繰り返しです。
何も犠牲を払わずに、何も代償を払わずに、ただ与えられるということは、普通はまずありません。
普通は、と言ったのは、私たちが信じているイエス・キリストの救いは、その逆を言っているからです。
しかしだからこそ、信じるだけで罪が赦され、永遠の命が与えられると言っても、そんなうまい話はない、となかなか受け入れられないのでしょう。
ともあれ、私たちは何かを得るためには、別の何かを捨てなければなりません。
とてつもない喜びを与えてくれる、その何かのために、自分を含めて人々が価値を認めているものでも捨てられるかどうか。
そこに、信仰が働きます。そして信仰は、それをいやいや捨てるのではなく、喜んで捨てることができる、力と希望を与えてくれます。
2.
今日の聖書箇所では、弟ラザロをよみがえらせてもらったマリヤが、イエスの足にたいへん高価なナルドの香油を塗る場面が出てきます。
その香油の価値は、300グラムで300デナリ。1デナリは、当時の労働者の一日分の給料ですから、五、六千円といったところでしょうか。
グラムあたり五、六千円。これだけでも相当な金額であることがわかりますが、あえて計算すれば、
マリヤが手にしてきたであろう、小さなつぼの中には、わずか300グラムでじつに200万円もの価値がある香油が入っていました。
そして彼女はそれをまさに惜しげもなく、イエスの足に自分の髪の毛でぬぐったのです。
結論から言えば、これはイエスが十字架へ向かう道においては必ずしも不可欠な行為ではありません。
つまり、この油がなければ、イエス様の十字架は失敗するとか、そういうことではありません。
だから、先ほど話した、何かを手に入れるために何かを犠牲にするという意味でのリスクとは、ちょっと違います。
しかし、ちょっと立ち止まって、じっくりと考えてみましょう。
なぜマリヤは、300デナリもするような高価なナルドの油をイエスのために使うことができたのでしょうか。
それは、何かを手に入れるための代償ではなく、何かを手に入れたからの感謝から生まれた行為でした。
マリヤは、かつてイエス・キリストから、自分の兄弟ラザロをよみがえらせていただきました。
愛する兄弟を、死からいのちへと移していただいた、そのイエスのみわざに対して、私は何をしたら報いることができるだろうか。
考えに考えた行為が、この300デナリもするナルドの油を、イエスのために用いるということでした。
マリヤは、イエス・キリストの十字架をはっきりと理解していたわけではないでしょう。
しかしイエスがとてつもなく大きな、何かに進んでおられることを感じ取っていたに違いありません。
兄弟をよみがえらせてくださった感謝、そしてイエス様が進もうとしておられる道に対して、自分はいま何ができるのか。
彼女なりの答えが、このナルドの油だったのです。
3.
クリスチャンは、マリヤ以上にイエス様が向かっておられた十字架の道について詳しく知っています。
そして兄弟をよみがえらせていただいたのではなく、自分自身がイエス様によって永遠のいのちをいただいたということを信じています。
ですから、マリヤがナルドの香油をささげたことは、決して私たちと無関係の出来事ではありません。
むしろ、マリヤにまさってイエス様の十字架を知っており、マリヤにまさってイエス様からいのちをいただいた者として、
ひとり一人のクリスチャンは、ナルドの香油にまさる何を与えることができるのか、ということが、この聖書の物語から問われています。
私たちにとってのナルドの香油とは何でしょうか。少なくとも、あってもなくても困らないような、どうでもよいものではないということは確かです。
ある人にとっては老後の生活を支えるための金銭や、財産かもしれません。ある人にとってはかけがえのない家族であるかもしれません。
またある人にとっては、これからの人生を切り開いていくための才能や時間であるかもしれません。そのどれもが、人生にとって価値あるものです。
だからこそ、それらを私のためにではなく、神様のためにささげるということには、さらに大きな価値があります。
しかしささげることそのものよりも神様が見ておられるのは、いやいやながらささげるのか、それとも、喜んでささげるのか、という心の中身です。
マリヤがもしナルドの香油をいやいやながらささげていたとしたら、人の心の中を見られる神さまは、決してお受け取りにはならなかったでしょう。
しかしマリヤは、300デナリの価値がある香油を、イエス様のために、喜んでささげたのです。
マリヤのように、神様が自分に何をしてくださったかをいつもかみしめて歩んでいる人には、心の中に尽きることのない喜びがあります。
自分がたとえすべてを失ってしまったとしても、イエス・キリストは離れないという確信がある人には、消えることのない希望があります。
喜びと希望が信仰によって結ばれているとき、失うことを恐れない人生が始まります。
神に何かをささげるということは、見返りを求めるものではありません。神にささげることは、地上でそれを捨て、手の中から失うということです。
しかし失うことを恐れずに神にささげようとする者に対して、イエス・キリストは別のところでこう約束しています。「だれでも、神の国のために、
家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てたものは、必ずこの世で、その何倍も受け、来たるべき世で、永遠のいのちを受けます」と。
救いは来たるべき世から始まるのではなく、すでにこの世から始まっているのだ、とイエス様は教えているのです。
私たちが最も大事にし、そして捨てたものの、何倍もの喜びを、すでに神様は私たちに用意してくださっています。
みなさんひとり一人が大事にしているものはなんでしょうか。それをささげる信仰を与えてください、と祈ろうではありませんか。
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