毎年恒例、クリスマス子ども会の案内です。いつものようにラクスルさんで作りましたのでスカシが入っています。


今のところ、半年に一回しか、地元の小学生向けの集会をしていないのですが、何とか増やしていきたいところ。
また中学生に対するアプローチはまったくできていないので、それも課題です。
牧師夫妻はじめ、教会員の中に地元の小中学生の子どもを持つ親御さんがいないので、いつも手探りです。
いろいろやっているのですが、なかなか地元の人が定着しません。バザーだけは別ですが。
まあ泣き言を言っていても仕方がないので、とりあえず小学校前のチラシ配りをみんなで頑張ります。雪降らないといいな。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』10章17-24節
1.
今日私たちは、これらのみことばから三つの喜びを見つめています。
ひとつは、イエス・キリストによって選ばれた70人の弟子たちが経験した、悪霊さえもキリストの御名によって服従する喜び。
もうひとつは、私たちの名前が救われるべき名として天に記されているという喜び。
そして最後は、救われるべき者として選ばれた奇跡は、私たち以外の賢い者、知恵のある者には与えられず、
取るに足りない幼子のような者たちにこそ、与えられたのだ、という喜び。
しかしこの三つの喜びの重さは、みな同じではありません。イエス様は順番に、次のように言われています。
悪霊どもがわたしの名によって服従することよりも、あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい。
そしてあなたがたの名が天に記されていることよりも、神が救いを幼子のような者たちに現してくださったことを喜びなさい、と。
確かにあなたはわたしの名前によって、蛇を踏みつけ、さそりを踏みにじることさえできる。
しかしそれよりももっと喜ばしいことは、あなたがそれをできるということよりも、あなたが救われた者としていまここに生きていることなのだ。
そしてさらにもっと喜ばしいこと、それは神が救いのみわざを、
その人の能力や知識、人格などではなく、ただ神の一方的な恵みによって与えられた、ということなのだ、と。
2.
私たちは、自分に与えられたものを尺度として、人をさばいてしまう欠点を持っています。
だからこそキリストは、原点に戻るように、と次のように語られました。
「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。
ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と。
ここで、「書き記されている」と訳されているギリシャ語は、遺言書や結婚証明書に使われる、当時の法律用語です。
イエス様がそのような言葉を弟子たちに語られたとき、まさに彼らはイエス様の遺言のように、襟を正す気持ちにさせられたことでしょう。
イエス様の思いはこうだったかもしれません。もし私があなたがたの前からいなくなったとしても、このことだけは忘れてはならないよ。
あなたがたの名前は、すでに天に書き記されているのだということを。
この「書き記されている」は、もうひとつ、すでに書き記されており、だれもそれを無効とすることはできない、という意味も含まれています。
イエス様が群衆に捕らえられたと聞いて、弟子たちのだれもが逃げ出してしまったときにも、天に彼らの名前は厳然と刻み込まれていたのです。
なんとすばらしい、恵みでしょうか。
それに比べたら、サタンを天から引きずり下ろすことのできるほどの力が与えられることよりも遥かなる喜びが沸いてくるのです。
私の伝道者としての生涯は今までも何もできなかったに等しいし、これからもそうかもしれません。何を弱気なと言われるかもしれません。
しかしたとえそうだとしても、私の名前が、そしてみなさんひとり一人の名前が天に記されていることの喜びと平安を思うと、ただ喜びがあります。
何もできなくても、私は私だ。あなたはあなたなのだ。ともに、神に愛されている者たちなのだ、と。
3.
しかしこの説教の終わりに、最後の喜びも、語り忘れてはなりません。
私、あなただけではなく、神様がご自分の救いを、幼子のような者たちに与えてくださった、ということを。
これこそが先に示した二つの喜びよりもはるかに大きな喜びを、イエス様が御霊に溢れて喜びに喜んだ、とルカは記しているのです。
イエス様はこう言われました。「子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。
また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません」。
新聖歌の346番に、こういう歌い出しで始まる歌があります。
「かつてはわれ良きものを求めて主を忘れたり 賜物よりいやしより与え主ぞさらに良き
わがすべてのすべてなる 主をばあがめん とこしえに」
作詞作曲は、A.B.シンプソン。今年2019年は、ちょうど彼の没年から100年目にあたります。
シンプソンは、数多くの賛美歌を作詞作曲したと同時に、牧師であり、宣教団体の創立者でもありました。
彼は若い頃に大病を患いましたが、祈りを通して癒される経験をし、「新生・神癒・聖化・再臨」という四重の福音を説きました。
この賛美歌「Himself」は、彼が宣教団体を創立して数年後に作られたものです。彼は気づいたのでしょう。
確かに、彼の説いた神癒や聖化は、聖書そのものから生み出されたものでした。
しかし人は弱く、いつのまにか与え主よりも賜物を優先し、美化してしまう弱さを持っているのだということを。
喜ぶべきは、自分が人よりも優れた賜物を用いて、いやしや悪霊の追い出しを経験できることではない。
そして、自分の名前が天に記されているという喜びさえも凌駕する、真の喜びがある。
それは、私がどう、人がどう、ではなく、神そのものを喜ぶということ。
神が与えてくださるものではなく、神のご性質、存在、本質そのものを見つめ、崇め、歓喜すること。
この聖餐で私たちは改めて力と喜びをいただきましょう。
主が与えてくださった三つの喜び。一つ一つをかみしめながら歩んでいきましょう。