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2019.12.8「その名はヨハネ」(ルカ1:57-80)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
ちょうど一週間前の土曜日のことですが、当教会にて「子どもクリスマス会」を開催いたしました。
その二日前には、ものすごい悪天候でしたが、求道者も駆り出して、二つの小学校の校門前でチラシを配りました。
子どもたちに同情されながら、風に吹き飛ばされないように頑張った。ええ、頑張りましたとも。
600枚くらいは配れたでしょうか。さあ、当日どれくらい来てくれるかな。やり遂げた感を胸に、土曜日を待ちます。
そしたらなんと、ぜ、ゼロ!あんなに喜んで(当社比)受け取ってくれたのに?
もう一度言います。ぜ、ゼロ。あわわ。会社だったら始末書ものです。まあうちは個人商店みたいな規模ですが。
クリスマス会そのものは、教会にもともと来ている子どもたちと大人たちで20人くらいは集まり、楽しく過ごしましたが、ちょっと残念。
こういうのって、一度常連になってくだされば後は口コミで定着していくのでしょうが、まだまだこれからです。
気を取り直して、次はオトナ向けのクリスマス集会です。もちろん子どももOKよ。託児所もあります。地元の人は来てね。

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週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』1章57-80節


録画に失敗しました。次回をお楽しみに。説教原稿を読みたい方は、「続きを読む」をクリックしてください。

1.
 「地縁」と「血縁」は、日本人とその社会を理解する上で避けることのできないキーワードであると言われています。
「地縁」は地域との繋がり、「血縁」は親族、親戚との繋がり。時には、近所に住んでいるのは親戚ばかり、という場合もあります。
地縁と血縁は、そこに生まれ、そこに育ち、そこで死んでいく人々の心に安心感を与え、一体感を生み出してきました。
しかしその一方で、この地縁と血縁は、自分たちにとって異質なものを排除しようとする仕組みにもなってしまいます。
日本のクリスチャン人口は1%以下と言われますが、実際に洗礼を受けた人の数はもっと多いはずです。
しかしせっかくイエスを信じても、墓の継承、親族との軋轢、地縁・血縁のプレッシャーの中で信仰から離れてしまう人が多いのです。

 この日本で、地縁・血縁を振り切って、イエス・キリストを信じること、そして信じ続けることは容易ではありません。
だからこそ、洗礼を勧めるときに、牧師は次のように問います。あなたは、地縁・血縁よりも神との絆を第一とする準備がありますか。
神との絆は、私とイエス・キリストとの間に生まれる、仲介者の必要のない、絆です。地縁・血縁を含んだり、入り込むものではありません。
そしてあなたはもし地縁・血縁による暗黙の求めが、このイエス・キリストと自分を引き離そうとしてきたときに、主を選び取る覚悟がありますか。
それにイエスと答えられる人は、この聖書箇所に出てくるザカリヤであり、エリサベツです。
彼らは、あくまでも神の命令に従い、生まれてきた子どもに「ヨハネ」という名をつけたからです。彼らの信仰に倣いましょう。

 私たちは、ザカリヤの親族や近所の人々が、生まれた「幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとした」こと、
また話せない夫ザカリヤに代わって、妻エリサベツがわが子にヨハネと名づけようとしたとき、
「あなたの親族には、そのような名の人はひとりもいません」と言ったことを、軽く受け流すべきではありません。
ここには、イスラエルの社会を数千年間、現在に至るまで縛りつけている、相続地と家系への執着というものが投影されているからです。

2.
 なぜ父と同じ名前をつけることが相続地への執着と関係あるのか、そういぶかしむ方もおられるでしょう。
イスラエルでは、部族、氏族、家族それぞれに、相続地が定められていました。
一時的に売ったり買ったりすることはできても、その親類縁者は協力してその土地を買い戻すことが定められており、
買い戻せない貧しい者のためには、50年に一度、負債が免除される年が定められていて、必ず無償で戻ってくるようにされました。
自分の子どもに父の名前をつけるというのは、愛情というよりは、相続地の正統な継承者であることを示すためでした。
父の名前をつけないなら、親族から名前をつけるというのも同様です。親族が土地を買い戻すための保証のようなものでした。
だから、父や親族の中にない名前をつけることは、神からの贈り物である土地をないがしろにするのと同様とみなされたのです。

 しかしザカリヤの妻、エリサベツは、誤解を恐れることなく、神にあらかじめ示されていた、ヨハネという名前をつけることを宣言しました。
彼女の夫である祭司ザカリヤはこのとき、舌がもつれて、いっさいことばが話せなくなるという、一時的な神のさばきの中にありました。
しかし彼は、ことばは話せなくても、人々に書き板を持ってこさせて、力強く、がりがりと、「その子の名はヨハネ」と書きました。
先ほども言いましたが、子どもに父親や親族の名前をつけるというのは、もともとは土地は神からの賜物であるという信仰から生まれたものです。
しかしもしそれが、神の命令よりも優先されるべきものとして人々を強制するようになれば、それは信仰ではなく人間的執着になります。

 ザカリヤとエリサベツの夫婦は、人々が引き継いできた命名のしきたりよりも、神に命じられたことを優先した、という一点をおぼえてください。
彼らは、人々に新しい生き方を示したのです。
それは、まさに人々に生き方の転換を迫った、バプテスマのヨハネの両親にふさわしい姿ではなかったでしょうか。
そして「その名はヨハネ」と書き板に記したとき、ザカリヤのさばきは、一瞬で完全に解けました。
それは、私たちがイエス・キリストを心に信じたときに起こることに似ています。そして、彼の唇からは神への賛美がとめどなく溢れ出しました。

ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。
主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。
古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。(68-70)

3.
 ザカリヤという名前は、ザアカル・ヤハ、主はおぼえておられる、というヘブル語から生まれた名前です。
「主はおぼえておられる」。主はその民イスラエルをおぼえておられる。イスラエルだけでなく、すべての人の苦しみをおぼえておられる。
罪のなかにあえぎ、自分の力ではそこから抜け出せず、同じことばかりを繰り返して救いから遠のくばかりの全人類をおぼえておられる。
このザカリヤの預言は、旧約最後の預言者マラキから400年閉じていた預言の再開でした。
この預言は、それまで400年、いやそれ以前のすべてのイスラエルの民が積み重ねてきた叫びがすべて込められています。
我らが待ち望んできた救い主が、ついに来られる。主の救いがいよいよ実現される。
イスラエルの国土が失われ、連れて行かれたバビロンの川のほとりで、
崩されたエルサレムの城壁の前で、幾度となく流されてきた涙を、主はおぼえておられる。
「ザカリヤ」の名前が祖先から連綿として受け継がれてきたのは、主は我らの痛み、悲しみ、そして約束をおぼえておられるという告白でした。
しかしもうこれ以上、「ザカリヤ」の名前を引き継ぐ必要はない。
なぜなら、この幼子ヨハネこそ、約束の救い主が通られる荒野の道を用意する者となるのだから。
その名はヨハネ。ザカリヤは、まだ自分に待ち受けている苦しみなど何も知らない、わが子を優しく、しかしまっすぐに見つめながら、歌いました。

幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。
主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。
これはわれらの神の深いあわれみによる。
そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。

結.
 私たちが信じ、宣べ伝えている福音は、どんな「何とかの縁」にまさる、天からの祝福、神の子どもとされる関係を作り出します。
しかしバプテスマのヨハネも、イエス・キリストも、使徒たちも、この地上では勝利の美酒よりも苦しみの杯を味わいました。
ですから私たちは今一度、自分の心に問わなければなりません。
親、兄弟、先祖、夫、妻、子ども、親戚、隣の人、近所の人たち、上司、それらが神よりも大切にされてはいないだろうか、と。
もし自分が二千年前に生き、さらにザカリヤ、エリサベツの立場だったら、「その名はヨハネ」と書き板に書き込めるだろうか、と。
いま私たちはイエス・キリストのすばらしさを知っています。勝利のコツは、このキリストを少しでも豊かに味わうことです。
アドベントの恵みのなかで、私たちのためにこの地上に生まれ、救いを与えてくださったイエス・キリストをかみしめて歩んでいきましょう。

posted by 近 at 22:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ
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