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2019.12.15「召し出され、分かち合う」(ルカ1:26-56)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
自宅でひきこもり状態だった長男を殺したとして殺人罪に問われていた元農水次官に、懲役6年の実刑がつきました。
元農水次官の年齢は76歳。私の父と同じ、昭和18年に生まれになるのではないかと思います。
殺された長男の年齢は私より四つ下(妻と同じ年齢)ですが、以前彼が母親に暴力を振るうほど激昂したのが、
エルガイムのフィギュアを勝手に捨てられたことだと、事件当時に報道されていました。
エルガイム、おぼえています。サンライズ系アニメの中ではマニアックな部類に入っていました。

 彼の父親が無実だと言うつもりはありません。せめて執行猶予はつけてあげるべきではないかと思いますが。
しかし「外部に相談しなかった」ということが量刑のポイントだとしたら、この判決は未経験者のひとりよがりでしょう。
経験から言うと、思春期からのひきこもりが25年間も続き、暴力を振るっている状態に対して、
有効に対応できる相談機関はほとんどありません。相談してもどうすることもできないというのが現実です。
警察を何度も呼べません。福祉事務所や地域包括センターも無力です。それは根拠法令が整備されていないからです。
現在の法律は、配偶者の暴力、そして未成年の家庭内暴力に対しては比較的手厚く対応してくれます。
しかしすでに成人になっているのに家庭内暴力を起こしている人に対しては、事件が起きるまではいたちごっこなのです。

 家庭内暴力の特徴は、外部の人間がいる場では普通に過ごしているということです。だから中途半端な援助者が入っても改善しません
同じような悩みを抱えている人が集まる自助グループは、地方都市では困難が伴います。
東京ならいざ知らず、地縁血縁の強い地域では、家庭の恥をさらしては生きていけないのです。
もちろんその受け皿として、私たち宗教関係者も関わるべきだと思っています。
本当に「外部に相談しなかった」のでしょうか。
それとも「相談しようにもどこに相談して良いかわからなかった」のか。
あるいは「相談したけれども、結局は自分たちで何とかするしかなかった」のではなかったのか。
今回の事件を通して、一刻も早く、家庭内暴力を伴う成人の引きこもりに対する法整備が進みますように。
今も苦しんでいる人々がいるのですから。
 裁判員を務めた20代の女性会社員は「正直、すべてが明らかになったとは思わない」としつつ、「家族の問題は小さなことも含めて誰しも経験する」と述べ、今回のケースがひとごとではないと指摘。裁判を終えて「何かあったら家族に頼れる関係を大事にしながら過ごしたい」と語った。
 30代の女性会社員は、被告や妻の話に「同情したり共感したりしたことは少なからずあり、どこまで感情を入れていいか悩んだ」と振り返った。その上で「外部に相談しなかった」という事件の特徴を念頭に「世の中には同じような問題を抱えた家族がたくさんいる。家族内にとどめず、気軽に相談できる社会になってほしいし、なるべきだと思う」と投げかけた。
 別の裁判員は「被害者が亡くなっていて、被害者の意見がなかった」と判断の難しさに言及。「家庭も仕事もすべてうまくいくわけではない。息子に対して、もう少し、高いものを求めないことはできなかったか」と漏らした。

週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』1章26-56節



1.
 先週のはじめ、教会員のKさんが農作業中の事故のために病院に運ばれました。
また報告の時に詳しいことはお話ししますが、それはその時の様子を聞くだけで身震いするようなものでした。
彼女自身、大きな怪我を負い、回復するまでにはしばらく時間がかかるかもしれません。入院先の病室に、お見舞いに行かせて頂きました。
ベッドテーブルには、聖書が広げられていました。
当時の状況を聞きながら、それでも決して現実を呪うことなく生きている彼女の信仰に、心から感謝しました。
私の場合は怪我ではなくて病気でしたが、少年の頃に二年間ほど入院したことがありました。
なぜ自分だけがこんな目に会わなければならないのかと天を恨み、親を恨み、医者を恨みました。
怒りのやり場を、周りに向かって吠えることでしか処理できない、幼い者でした。
あの時、信仰をすでに持っていたら、自分は目の前の姉妹のように毅然と、また平安をもって生きることができたのだろうか。
そんな率直な思いも自然と飛び出るほどに、心開かれた交わりをいただいて、最後に祈って帰ってまいりました。また行こうと思います。

 今から二千年前、救い主イエスを身ごもるという約束を神から得た処女マリヤは、さっそくその足で親戚エリサベツの所へと向かいました。
それは、もう高齢となって子どもを宿すなどできないはずのエリサベツも、神の恵みを受けて、いま子を宿して半年だと、神が語られたからでした。
当時の旅は、今のような安全が確保されたものではありません。野盗や野獣に襲われても不思議ではない山道。
マリヤのいたナザレからエリサベツの住むユダの山地までの道のりは、イスラエルの長い国土を北から南に縦断するようなものです。
それでもマリヤは、エリサベツのところへ急ぎました。本当に神の奇跡によって子どもを宿したのかを確認するためでしょうか。
いいえ、神の言葉を100%信じる信仰を持つマリヤが、なぜ神の奇跡を疑うことがあるでしょうか。
マリヤが向かったのは、エリサベツと喜びを分かち合うためです。一方は、何十年も子どもを望みながら与えられなかった高齢のエリサベツ。
もう一方は、イスラエルの片田舎の大工の妻として一生を過ごすはずであったのに、救い主の母となる特権を与えられた処女マリヤ。
同じように、神の恵みをいただいた者たち。その恵みが実現することを疑うことはない。しかし恵みを分かち合うために、マリヤは向かいました。

2.
 クリスチャンは、神の恵みを受け取った者たちです。神の恵みの中には、喜びだけではなく、苦しみさえも詰まっています。
その苦しみを通して、神はご自分のすばらしい光を、私たちを通してこの世界に輝かせられるのです。
この神の恵みを分かち合うことができるのは、神を信じた者たちの特権です。そして、それが教会ということばのもともとの意味なのです。
日本語の聖書で「教会」と訳されているものは、もともとのギリシャ語の聖書では、「エクレシア」ということばです。
このエクレシアは、「召し出された者たち」「選ばれて集められた者たち」という意味です。つまり、「教え」とか「教える」という意味はありません。
実際、明治期の頃の最初の教会は、「教会」ではなく、公の会と書いて「公会」と名乗っていたところもありました。
召し出されて、選ばれて、集められているのは、黙ってお話しを聞くためだけではありません。
恵みを受け取った者は、とにかくそれを誰かに分かち合いたいと自然に願います。マリヤとエリサベツの関係は、まさにそうでした。

 神は、エリサベツにも子を与え、そしてマリヤも、救い主イエスを生むのだ、という約束をいただいた。
一方は老いを待つだけの女性、一方は何の力もない少女。しかし取るに足らない者たちが、神に召し出された!
まさに神の恵みは留まることを知らない。神は、名もなき者たちを選び、力なき者たちをご自分のみわざのために用いられる。
マリヤは、聖霊に満たされて、喜びに満たされて、ただ感謝に満たされて、天に向かって胸が張り裂けんばかりに歌いました。
「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです」と。
主、その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及ぶ。
主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされる。
低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返す。

 私も、あなたも、ひとり一人が、ここに召し出されているのは、弱い者を強くされ、頑なな者を砕かれる、神のみわざそのもの。
私たちは、分かち合うために召し出された。それがエクレシアの意味です。そして分かち合ってこそ、神の恵みはますます広がっていきます。
キリストの教会は、教えを聞くだけの場ではありません。教えを聞いて、それは誰かと分かち合うことで骨となり、肉となります。
教会はみことばを分かち合います。喜びを分かち合います。それだけでなく痛みや苦しみをも分かち合います。

3.
 どんなに小さな喜びでもいい。神さまがあなたにしてくださった恵みを思い起こしましょう。喜びを分かち合い、声を上げましょう。
そのとき、聖霊なる神はあなたの目を開いて、溢れるばかりの祝福に気づかせてくださいます。
神が私にどれほど大きなことをしてくださったのか、誰かとみことばを分かち合いましょう。
親は子どもと分かち合うことができます。夫は妻と分かち合うことができます。
壮年、青年、婦人同士で分かち合うこともできます。同じ地域に住んでいる者同士で分かち合うこともできます。
みことばに聞き従い、そしてそれを分かち合っていく交わりの中に、本当の祝福があるのです。

 私たちは、このクリスマスの機会に一人でも多くの人が教会に来てほしい、と祈っています。
しかし人々に真に必要なものは何でしょうか。幻想的な雰囲気、アットホームな集会、そんなものではありません。
教会が人々に見せることのできるものは、見せかけではなく、本物の生きた交わりです。
生きた交わりとは、お互いの心の表面を軽くなぞって終わるような、薄っぺらいものではありません。
ある時には愛をもって堅く抱きしめられる経験、ある時には痛々しいほど、心がえぐり出される経験。
キリストの十字架から流れる血の匂いさえも感じられるほどの生々しい、交わりが、生きている神の生きている交わりです。
このとき、マリヤが聖霊に満たされてささげた賛美には、イエス・キリストの十字架から流れる血のにおいはありません。
しかし、後のマリヤが、自分の子どもが十字架にかかって死ななければならない、そのために傷つきながら、
それでもマリヤが生きていくことができたのは、このわずか三ヶ月の、エリサベツとの交わりが大きな力となっていたのです。

 クリスマス、それは生きた交わりへと人々が招かれる時です。私たちは、この交わりの中に生かされていきましょう。

posted by 近 at 00:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2019年のメッセージ
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