こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
正月からちょっと切羽詰まっています。たぶん今年も一年中、こんなだろうね。
先週の主日の夕方、一ヶ月ほど教会に通ってくださっていた方が訪問してくださいました。
また県外に引っ越すことになったということで、少し残念な気もします。
大学はミッション系だったそうですが、卒業後はずっと教会から足が遠のいていたそうです。
同盟(福音派)もあまり良いイメージはなかったそうですが、この教会に来て居心地がよかった、とのこと。
新しく引っ越されるところでも、近所に同盟の教会があるのを見つけたのでそこに通いたい、ということでした。
うれしいですね。もっとも今は、同盟よりも伝統派の先生のほうがよっぽど十字架を語っておられるようですが。
おっと、また口がすべったわ。忘れて理事長。忘れた。よし。週報はこちらです。
聖書箇所 『マタイの福音書』2章1-12節
序.
人間はだれもが、心の中に王様を抱えているものです。ある人にとっては、自分自身が王様です。
またある人にとっては、自分の人生や生活を縛り付けている、だれか、あるいは出来事や感情が、王様として心を支配し続けています。
今日の聖書物語は、まずこの二種類の人たちの姿を私たちに教えます。
私たちはどちらでしょうか。自分自身を王様としてあがめ、私の王国を脅かすものを排除していく人生を送っているのか。
それとも、自分の心に植え付けられ、影響を与え続けているものを王として、抵抗も独立もできずにただ生きているのか。
しかし聖書は、そのどちらでもない、第三の生き方も教えてくれます。
それはイエス・キリストだけを私の王として認め、ひれ伏し、その生き方に倣って歩んでいく生き方です。
今日、この聖書箇所から何か気づかされ、そして新しい勝利へと向かう人生への一歩を与えられたら、こんな幸いなことはありません。
1.
まず、自分自身を王様としてあがめている者の姿を、私たちはヘロデ大王の姿から見ることができます。1節からしばらく読んでみます。
イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
彼らのこの言葉を聞いたヘロデ王は恐れ惑った、とあります。なぜでしょうか。
それは、この予期せぬ訪問者たちは、ヘロデが他の者には隠しながらずっと抱えていた恐れを言い当ててしまったからです。
その恐れとは、自分の家族を含め、ユダヤの民のだれひとり、心の中では自分を王として決して認めていない、という恐れ、いや確信でした。
ヘロデは、もともとユダヤの王にはなれないはずの外国人でした。国の混乱に乗じて王位に就いた彼を、民は決して認めようとしません。
ヘロデは民を力で押さえつけると同時に、ユダヤ人の悲願である神殿を再建し、自分が王であることを何としても認めさせようとしました。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」。この言葉は、彼のプライドを傷つけ、恐れをかき立てるに十分でした。
ヘロデは自分の恐れを見透かされないように紳士的な態度を振る舞いながら、心のなかではもうひとりの自分のこんな声を聞いたことでしょう。
王は二人もいらない。たとえおまえがユダヤ人でなくても、たとえ民がおまえを王と認めなくても、おまえだけが王でなければならないのだ。
さあ、ヘロデ、恐れている暇はないぞ。いつのまにか生まれていた、その幼子を殺してしまわなければ。王はひとりいれば十分だ。
当時の歴史書によれば、ヘロデはその生涯の中で9回結婚しています。子どもを残すためではなく、妻を次々と殺してしまったためでした。
9人の妻のあいだには何十人もの息子が生まれましたが、そのほとんどは、やはりヘロデによって殺されました。
王位を守るために、死ぬまで疑心暗鬼にとらわれていたヘロデにとって、家族でさえも自分の王位を狙っている者でしかなかったのです。
ヘロデ王は二千年前の人物ですが、今から30年ほど前に、ある評論家が、現代日本の家族を「乗り合い家族」と表現しました。
現代日本の家庭はもはや安らぎの場所ではなく、家族それぞれが、自分の目的地に向かうための乗り合いバスに過ぎない。
家族のあいだで会話を交わすこともなく、ただ思い思いに車窓から景色を眺めているだけで、目的地に近づけば無言で降りていく、と。
血を分けた唯一の家族でありながら、それぞれが自分を王様としている、乗り合いバス。自分の意にそぐわなければ無視をする。
無視というのは自分の世界から初めからいない者として扱う、いわば手は下さなくても殺しているということです。
それが今から30年前の分析でした。いまは良くなっているのでしょうか、それとも悪くなっているのでしょうか。
ヘロデの姿は私たちの心、家庭、そして社会が、今も冷たく、凍えているのかもしれない、という気づきを与えています。
2.
しかし私たちはもうひとつ、この聖書の記録の中に奇妙な光景を目にします。
東方から来た博士たちに、ヘロデが自分の心を見透かされたように恐れ惑うのはわかります。
しかし、なぜエルサレム中の人もまた、ヘロデと同じように恐れ惑ったのでしょうか。
それは、エルサレムの人々は、ヘロデを王としてふさわしくないと思いながらも、彼が与えてくれる偽りの繁栄に満足していたからです。
何も考えずにヘロデに従っていれば、そこには豊かな生活がありました。ヘロデは神殿を建て、パンを与え、ローマの侵略から守ってくれました。
ヘロデに逆らいさえしなければ、平和な生活が保証されました。だからエルサレムの人々も、ヘロデ同様博士たちの来訪に恐れ惑いました。
ヘロデ以外の王がすでにどこかに生まれている、という知らせは、その平和な生活を打ち破るものだったからです。
東方の博士たちは、彼らにこう問いました。あなたがたはどちらの王につくのか。ヘロデ王か、それとももうひとりの王か。
民よ、刮目せよ。選択せよ。決断せよ。王は二人もいらない。どちらかが本物で、どちらかが偽物なのだ。
彼らの姿もまた、現代に通じるものがあります。この日本にあるすべての宗教団体の登録者数を合計すると、二億人以上になるそうです。
日本の総人口は一億二千万、しかもその中で特定の宗教を信じているのは半数以下なのに、なぜ二億人も登録されているのでしょうか。
それは、クリスチャンは別として、多くの宗教団体がかけもちを当たり前としているからです。
これを多様性というきれいな言葉でまとめることはできません。私たちの家庭も人生もつぎはぎだらけです。
もしそれを変えることのできる真理があるとしたら、それはいろんな宗教をつぎはぎしたものではなく、圧倒的、唯一、絶対的真理のはずです。
私たちが、本当に実り豊かな人生に踏み出したいならば、あれもこれもではなく、あれかこれか、ひとつのものを選ばなければならないのです。
ユダヤ人の王であるだけではなく、全世界の人々のための救い主としてお生まれになった、イエス・キリストを信じて永遠のいのちを得るのか。
それとも見せかけの平安、人間が作った偽りの神々を信じて永遠の滅びを選ぶのか。
そこには、犠牲、あるいは命をかける、覚悟が必要です。
東方の博士たちは、ことばこそ落ち着いていますが、自分たちの命の危険さえおぼえながらヘロデのもとに来ました。
博士たちにとっても、王はふたりもいりません。
彼らは幼子、イエス・キリストだけを王として選び、ひれ伏して礼拝し、ささげものをささげて、自分の国に帰りました。
自分のいのちの危険も顧みずに、まず神のために一歩踏み出す者たちを決して神はないがしろにはされません。
彼らは、来たときと違う道を通って帰るように夢で示されて、ヘロデの手に陥ることがないように守られました。
結.
私たちは、だれを王として選ぶのでしょうか。どんな人の心の中にも、王様がいます。
自分を王様として我が道を行くか。
いまの自分の生活を守るために、間違った王様を拝み続けるのか。
それとも、本当の救い主を、ただ一人の王として選び、従うのか。
もし私たちが、ただひとりのまことの神、イエス・キリストを王として心の中に受け入れるならば、私も自分のいのちをかけて約束します。
神は決してあなたの選択を裏切ることはありません。豊かな祝福が待ち受けています。
あなたの人生に、王は二人もいらないのです。
新しい年まであと三日、私たちの人生にとって新しい王を選ぶ、新しい年でありますようにと願います。
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