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2020.1.5「“だれが”よりも大切なこと」(ルカ10:25-37)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
多くの教会では、新しい年度に入ると、その年の標語聖句というのを決めるようです。
私たちの教会でも、1972年の開拓以来、毎年標語聖句があって、私も着任当初からそれを踏襲してきたんですが、
ふと最近思ったのは、「これって意味あるのかな?」ということでした。
教会目標や、牧会方針を掲げるのは必要だと思います。私も毎年A4の紙1〜2枚くらいにまとめて、総会のたびにそれを説明してきました。
でもそれが標語聖句にリンクしているかどうかは・・・・不明です。
人間が考えた目標にみことばを利用しているんじゃないかという恐れもあります。
以前は、正月三が日に少し時間をとって、教会の課題などを黙想しているなかで、これは、というみことばを選んでいました。
しかしどんなに現状にフィットしたみことばが与えられても、それを教会員と共有することができなかったら、画餅にすぎません。
とはいいつつも、やはり今年も標語聖句を探しています。みことばを恐れることは忘れないでいきたいと思います。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』10章25-37節



序.
 自然科学館という体験型施設が女池のほうにありますが、昔行った時にこんなパビリオンがありました。
外から見ると変哲のない小さな家なのですが、中に入ると壁と床の境目やら、窓、家具に至るまで、斜めに置かれているのです。
床はまっすぐですし、自分もまっすぐ立っているはずなのですが、部屋の中がそんななので、斜めに立っているような錯覚に陥りました。
これは、私たちの人生にも通じるものであると思います。この人生で最も大事な関係は、作った方と作られたもの、神と人間との関係です。
神さまとの関係がもし曲がっていれば、神の最高傑作である自分の価値がわからず、自分を受け入れることができません。
自分を受け入れることができなかったら、自分のまわりの世界との関係、それらも歪んでいきます。
その意味で、イエス様が、最も大事なことは次の二つだよと教えてくださったことはまさにそのとおりなのです。
つまり、私が神さまを全身全霊で愛すること、そして自分を尊いものとして愛すること、その自分と同じように隣人を愛すること。
実際には三つなんですが、ふたつの旧約聖書のみことばによって表現されているので、このふたつです、と言われています。
まず神さまとの関係がまっすぐにされるということ。そうすれば自分との関係、そして他者との関係もまっすぐにされていきます。
言い換えるならば、神さまとの関係がまっすぐにならなければ、人生は問題が起きて、何とかして、また起きて、の繰り返しです。

1.
 今日の聖書箇所の前半部分にある問答は、マタイの福音書、そしてマルコの福音書にも記録されています。
そこではこの二つの大事な教えはイエス様の口から語られます。
しかしこのルカ福音書だけは「律法の専門家」が自ら答える形で記されています。

 彼は律法の専門家でした。頭の中では、何が一番大切なのか、ということがわかっていました。
神を愛するならば、それは自分を愛することへと繋がり、さらに隣人への愛へと繋がっていく。
神の愛はそのようにして現実に実を結ぶのだ、と。
しかし頭ではわかっていても、彼は実践しませんでした。あるいは、実践しようと思いませんでした。
もし彼がそれまでに隣人愛をわずかでも実践しようとしたことがあったならば、
「私の隣人とはだれのことですか」などという質問は生まれません。
それは、ほんとうの愛とは、選り好みするものではないからです。対象を制限する愛は、愛ではなく、エゴでしかありません。

 そしてもし人が隣人愛を実践しようとしたことがあるならば、そこで最初に経験するのは、達成感ではなく失望感です。
心の中には、隣人のために身をささげたいという情熱が燃えていても、自分がいかに愛の足りない罪人であることに気づかされます。
私は隣人のためによくやっている、などと自分をほめる人がいたとしたら、残念ながら、この律法の専門家と同じです。
もし彼が、本気でイエス様に隣人愛についての答えを求めていたならば、必ず彼はこう聞いたはずです。
「主よ、どのようにしたら、私はほんとうの隣人になれるのでしょうか」と。

2.
 私たちは、隣人を愛そうとするとき、愛せない自らの足りなさや、変化を期待する傲慢な自分自身の姿を自覚させられます。
そのときに、言い訳を作り出して自分を正当して終わってしまうか。それとも言い訳する自分のみじめさを神さまに示されていくのか。
聖書は、そんな私たちの心を映し出す鏡です。半殺しの旅人を見つけたとき、祭司、レビ人はそのまま反対側の道を下っていきました。
彼らにも、自分を正当化できる、多くの理由がありました。エルサレムでの神殿奉仕の仕事を終えて疲れ切っていたのかもしれません。
死にかけている者に触れて、自分の身を汚してはならないという律法の教えが頭をかすめたのかもしれません。
義を説き範を垂れる自分の立場を知りながら、「自分が助けなくても、他の人が助けるだろう」という誘惑が起きたのかもしれません。

 「盗人にも三分の理」という言葉があります。ましてや自分を盗人とは思っていない人間には、いくらでも言い訳できる理由があります。
しかし「かわいそうに思う」というあわれみの心には、理由がありません。それが、サマリヤ人が示したあわれみ、愛の行いです。
誰かのために犠牲になろうとするとき、人は「私の隣人とは誰のことですか」と決して問いません。
そのあわれみの心は、本来、神のかたちとして作られた、あらゆる人間の中に眠っているものです。
しかし同時にすべての人間は、生まれながらの罪人です。誰に教えられなくても、生まれつき言い訳の技術をマスターしています。
そんな私たちに、イエス・キリストを通して神の愛が示されました。神は、私たちがいかなる人間であろうと、あわれみを向けておられます。
クリスチャンは、言い訳をしない人々のことではありません。言い訳をすることはあっても、すぐに聖霊がその過ちを教えてくださいます。
そしていつもイエス・キリストの愛が注がれているがゆえに、自分が正しいとすることなく、隣人として自分を与えようとします。
そんなクリスチャンの姿を通して、イエス・キリストを聞いたことがない人々でさえ、その中に生きておられるイエスの姿を見るのです。

結.
 イエス様はこのたとえ話を話された後、「この三人の中で誰がほんとうの隣人になったと思いますか」と逆に質問しました。
それに対して、この律法の専門家は何と答えたでしょうか。「その人にあわれみをかけてやった人です」。
この言葉は、変化のしるしです。彼は、ユダヤ人としていつもサマリヤ人を見下していたひとりでした。
だから素直に「サマリヤ人です」と答えることができませんでした。一見、まだプライドに縛られているとも見えます。
しかしもしここで「サマリヤ人」と答えていたら、彼の人生は決して変わることはないでしょう。
「サマリヤ人」ではなく、「彼にあわれみをかけてやった人です」と答えた。
この事実は、それまでの彼のものの見方が揺れている証しです。
そしてイエス様は待ってましたとばかりに、こう言われました。「あなたも行って、同じようにしなさい」。
イエス様は、この律法の専門家もまた救いを必要としている人と見ておられました。
このサマリヤ人と同じ道を歩け、と期待してのことばです。とはいえ、その道は茨の道です。愛することの難しさ。
しかしイエス様ご自身が、ただあわれみの心をもって私たちを愛してくださいました。
この愛が、私たちひとり一人の中に生きています。これからの一週間、あわれみの心を閉ざすことなく、歩んでいきましょう。

posted by 近 at 21:59 | Comment(2) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ
この記事へのコメント
毎週、先生の説教を聴かせていただいているはずなのに映像で観ると新鮮ですね。みな、哀れみの心は持っているはずなのに余裕がないと閉ざしてしまう気がします。
Posted by イトウカズマ at 2020年01月14日 23:52
一馬兄、コメントありがとうございました。明日も礼拝で会いましょう!って、コメントの返事おそすぎる?ごめん
Posted by 近 at 2020年01月18日 22:44
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