こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
昨年の10月27日(誕生日だったからよくおぼえています)に、放送伝道の会議のために二日かけて県内3箇所を回ったのですが、
あまりにも疲れたので天然温泉がある小さなビジネスホテルに泊まり、有料のマッサージ椅子を利用しました。
それが強すぎたのか、長すぎたのか、帰ってきたら背中を痛めてしまい、それから一ヶ月ほど、毎日いたたたた。
ようやく一息ついて、水曜祈祷会で「よくなったよ!」と同じグループの方に証ししたら、その晩椅子に座っていたらパキッと音がしました。
椅子が壊れたのかと思ったら、自分の腰骨だったらしい。今度は慢性腰痛(ぎっくり腰)。背中の痛みを忘れるほどです。
また一ヶ月くらいして良くなったかなと思ったら、また背中が痛くなりました。何でしょう、この永久機関のようなシステムは。
ただ、内臓の疾患による内側の痛みを、脳が骨や筋肉の痛みと解釈してしまうことがあるそうです。
ある男性は二年間腰痛をほっといたら、悪性腫瘍が広がっていたという、こわい症例がネットにありました。
とはいえ今は明日が〆切の牧会方針原稿と、礼拝説教原稿と、午後の老人ホームのメッセージ原稿ができていないことのほうがこわいです。
今年もなんとか乗り切っていきたい。ブログも応援してください。週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』10章38-42節
1.
先週の礼拝説教では、この直前の箇所に語られている「よきサマリヤ人のたとえ話」を取り上げました。
「私の隣人とはだれのことですか」という質問に対し、イエス様が次のようなたとえ話をもって答えられたものです。
あるユダヤ人が道の途中で強盗に襲われ、半殺しの状態で倒れていました。
そこに当時の宗教指導者たちが通りかかりましたが、彼らは助けることなく自分の道を急いでいきました。
ところが、当時ユダヤ人と敵対関係にあったサマリヤ人の旅人が、かわいそうに思い、多くの犠牲を払って、彼を助けました。
たとえ話はそこで終わるのですが、そこでイエス様は質問者に対して、「このなかでだれが隣人か」と逆に問いかけます。
そして「その人にあわれみをかけてやった人です」という答えに対して、「あなたも行って同じようにしなさい」と語られました。
じつは今日の、二人の姉妹の物語は、そのたとえ話を補うものとして考えることができます。
つまり、「あなたも行って同じようにしなさい」という、隣人愛のために動くために、私たちのなかに何が必要なのか、ということです。
それが、妹のほうマリヤが示した、「神のことばに聞き、神のことばをその心にたくわえる」ということでした。
このみことばに押し出されてこそ、私たちは「行って同じようにしなさい」というイエス様のおことばを実践できる者になれるのです。
しばしば、この物語を読んだ感想として、マリヤは良い、マルタは悪い、という短絡的な結論を持ち込んでしまうことがあります。
しかしイエス様は、この直前に語られた、よきサマリヤ人のたとえのあとに「あなたも行って同じようにしなさい」と語られました。
その舌の根も乾かぬうちに、実際にマルタがもてなした行動、そのものを否定するということはあり得ません。
イエス様と弟子たちが自分の村に、自分の家に来てくれた、うれしい、もてなしたい。マルタのその動機をイエス様も喜んでおられたはずです。
しかしいつのまにかマルタが喜びから批判へと変わってしまった。その根っこにあるものは何か。
喜びを最後まで喜びのまま、奉仕を完成させる、神のことばが不在であったということなのです。
喜びで始めたもの、感謝から始めたもの、それを最後まで喜びと感謝で終えるにはどうしたらよいのか。そこに、神のことばが必要なのです。
2.
昨年の台風の被害で、川越キングスガーデンというキリスト教主義の老人福祉施設が、全国ニュースで注目を集めました。
堤防が決壊し、停電や浸水で入居者に危険が迫る中、職員も入居者もはじめから終わりまで冷静に対応し、模範を示したからです。
このキングスガーデンでは、夜勤の職員が交代するときには、引き継ぎ事項を伝えた後、必ず短い祈りをもって交代とするそうです。
また定時の出勤のときには、さらに時間をかけて聖書からのショートメッセージとお祈りをもって、業務を始めます。
福祉の現場では一分、一秒の時間でさえ惜しまれるほどに、やらなければならないことが押し迫ってきます。
5分祈る時間があれば、そのあいだにこれだけのことができる。15分聖書を読む時間があれば、もっと多くのことができる。
しかしキングスガーデンでは、忙しければ忙しいほど、時間をかけて祈り、みことばに聞くと言います。
それは、人々のために仕え続けるためにどうしても必要なのは、使命感でも達成感でもなく、ましてや時間ではなく、喜びである。
喜びから始まった、人々に仕えるという働きを、いつまでも喜び続ける秘訣、それが、神のことばであり、祈りである、と。
神の前に静まる1分がなければ、仕事の忙しさに支配される10分に耐えられません。
みことばに思わず時を忘れる10分があってこそ、忙しさに時計を見る余裕もない1時間を笑顔で乗り越えていくことができる。
忙しいからこそ、そのために静まる時を持たなければならない。それが、キングスガーデンの運営の設立者から聞いたことばです。
マルタが仕える喜びに留まり続けるためには、マリヤのように神の足もとに座りみことばに耳を傾ける必要があるのです。
福祉だけではなく教育の現場でも、家庭でも、社会でも、教会でも、マルタのような献身的な人々によってその働きが支えられています。
誤解を恐れずに言うと、マリヤだけでも現場は動かないのです。マルタのように自分を犠牲にして仕える人がいればこそです。
だから、イエス様が言わんとしているのは、どちらが正しくて、どちらが悪いということではありません。教えられているのはバランスです。
神のことばを聞かなければならない時には、マリヤのようにイエス様の足もとにぬかずき、心に語られたみことばを刻みつける。
だれかがあなたの奉仕を必要としているときには、マルタのように、そしてサマリヤ人のように、犠牲をいとうことなく、心から仕える。
3.
このとき、イエス様が求めていたのは、おいしい食事ではありませんでした。手を休めて、神のことばを聞いてほしいということでした。
マリヤは、このとき、その大事なほうを選んだのです。しかし彼女とて、給仕を手伝わなければならないときには自ら手伝ったことでしょう。
しかしマリヤはいまこの瞬間、自分はみことばを必要としているのだと知っていました。そこに、信仰と行動のバランスがあります。
しかしマルタもまた、このできごとを通して、確かにその真理を学んだのだということを最後にお話ししたいと思います。
マルタとマリヤの姉妹が登場する場面は、今日の聖書箇所以外に、あとはヨハネ福音書に、二回出てきます。
そのうちの一つ、ヨハネ福音書11章では、マルタとマリヤの兄弟、ラザロが病気で死んだ後、イエス様が村へ来られる場面があります。
そのとき、マルタは真っ先にイエス様のもとへ走り寄っています。そしてキリストが死者をよみがえらせることのできるお方であると告白しました。
このルカ10章に書かれてある経験を通して、マルタは心の中にみことばを刻みつけていくことを学びました。そして信仰告白に至ったのです。
おもしろいことに、ヨハネ福音書でマルタとマリヤが登場するもう一つの箇所、弟ラザロがよみがえってしばらく経ったときのこと、
イエス様が十字架にかかる直前に、弟子たちとともにこの村を再び訪れたときのことの様子を、ヨハネはこう書いています。
「人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。」やはりもてなすことが好きなようです。
しかし今度はマリヤに自分を手伝うようには言わなかっただろうし、晩餐の最後まで、喜んで人々に給仕をしていたことでしょう。
私たちは、神のことばを必要としています。神のことばは、礼拝の中だけで必要とされるものではありません。
礼拝以外の、生活の大部分を占める時間と行動のなかで、私たちが隣人に仕えていくために必要な、内側からの喜びを与えるもの、
それが、この神のことば、聖書に書かれているみことばのひとつひとつです。これを自分のものにしていくとき、私たちは生きるのです。
ぜひみことばをかみしめてください。心に蒔かれたみことばの種が、あなたの中でどのように実を結んでいくのか。
それを想像しながら、神のことばを心の中に刻みつけていくならば、それはあなたが始めた事柄から喜びを失わせることはありません。
どのような働きにせよ、ただ忙しく走り回るだけでは、やがて疲れ果ててしまいます。語られたみことばに私は生きるという確信、
それをさらに確かなものとしていくための、神との二人きりの静かな、とっておきの時間と場所、それを大事にしてください。
「マリヤのように神のことばに聞き、マルタのように隣人に仕える」、バランスの取れた信仰生活が祝福されますように。
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