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2020.1.19「祈らずにはいられない」(ルカ11:1-4)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今回の説教の冒頭で、「礼拝で司会者が祈っているときには会堂に入らない」という牧会的指導の話をしています。
教会員の訓練という意味では、こういう例はたくさんあるんですが、「失敗」しないと学ばない、ということがよくあります。
失敗、というのかわかりませんが、大学生の頃、KGK(キリスト者学生会)の集会で司会をさせていただいたことがありました。
私の母教会では、礼拝の中に報告の時間がありました。(頌栄・祝祷の直前)
だからその感覚で、たくさん予定されている報告内容を、司会者である私が伝えたのですが、
報告の途中で、主事が講壇に近づいてきて、そっと「近さん、礼拝の中だからそれくらいにしておいて」と言われました。
私の教会では普通のことであっても、他の教会ではそうでないこともたくさんあります。
経験しなければわからないことはたくさんありますが、これは信仰生活だけでなく、仕事の世界もそうですね。
いまは失敗に不寛容な時代だと思います。ただ、自分目線だけで決めつけることがないように注意して歩んでいきたいものです。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』11章1-4節



序.
 神学校にいたとき、後輩のひとりがこんなことを話してくれました。「近さん、この前の日曜日、信徒の方に注意されてしまいました」。
何があったのと聞くと、土曜日に夜更かししてしまって寝坊してしまい、主日礼拝に遅刻してしまったそうです。
そりゃ注意されるの当たり前だと思いました。しかし注意された理由は、その遅刻そのものではなかったそうです。
彼が言うには、うっかり寝坊して泣きべそをかきながら教会の駐車場に入ると、礼拝堂の窓から中が見えて、司会者がお祈りをしていた。
急いで玄関に駆け込むと、礼拝堂の扉の前に集会当番の姉妹がすわっていたので週報を受け取り、さっそく中に飛び込もうとした。
するとそこで集会当番から注意されたそうです。「◎◎さん、いま司会者が礼拝の開会祈祷をしているから、それが終わるまで入らないの!」
彼は知らなかった。自分の育った教会では、玄関をくぐるとすぐに礼拝堂につながっていて、いわゆる集会当番は礼拝堂の中にいた。
だから、「祈りのあいだに礼拝堂を出入りして、祈りを妨げてはいけない」と、牧師を含めて誰からも言われたことがなかった、といいます。
私は彼の話を聞いて、少し感動しました。それは、礼拝に遅刻してきたことよりも、祈りを妨げることのほうに注意した、その姉妹の信仰です。
もちろん礼拝に遅刻するのも、神学生としてあるまじき行為ですが、その姉妹は、祈りの大切さについてよく指導されていたのだろうと思いました。
豊栄教会のつくりも彼の教会に似ていますね。ただ礼拝に遅刻してくる方がおられないので、今まで指導したことはなかったかもしれません。
だからお説教ではなく、あえて言うが、ですが、礼拝のなかで司会者や代表者が祈っている最中は、会堂を出入りしないこと。
それは、イエス様が主の祈りを教えてくださって以来、何よりも祈りを大切にしてきた、教会に連綿として流れる信仰から生まれています。

1.
 いわゆる「主の祈り」についての記録は、マタイ6章と、このルカ11章の中に書かれています。
マタイの福音書6章では、イエス様が山上の説教の中でご自分のほうから教えてくださったものとして「主の祈り」について記されています。
ところがこのルカ11章では、イエス様が祈り終えるのを待って、弟子たちのほうから祈りを教えてくださいと尋ねた、と書かれています。
どちらが本当なのでしょうか。あまり意味のない議論ではありますが、多くの聖書学者は、ルカのほうが事実に近いのだろうと言っています。
 ともあれ、イエス様は祈る方でした。朝早い時間に一人で祈りました。昼夜関係なく、寂しいところへ好んで出ていき、祈りました。
ヨハネからバプテスマを受けるとき、十二弟子を選ぶとき、大事な決断を行うときには必ず祈りました。
静かに祈ることもあれば、大声で叫ぶような祈りをされることもありました。
父なる神に祈ることなく決して何も始められなかったお方でした。
 そしてバプテスマのヨハネも、祈る人であったことが、この弟子たちの求めを通して、わかります。
聖書の中にはバプテスマのヨハネの祈りについてほとんど書いていません。しかしヨハネの弟子たちは、その祈りの生活がよく知られていました。
ヨハネがまだ母のお腹にいたとき、すでに彼は聖霊に満たされていました。
母を訪問してきたマリヤの声を聞き、お腹の中から喜んだと、このルカの福音書の1章に書かれています。
胎児のときから聖霊に満たされていたヨハネでさえ、すべての力の源は祈りでした。
であれば、私たち通常のクリスチャンにとって、なおさら祈りが必要です。
祈りなくして、私たちは行動するどころか、生きることそのものができません。クリスチャンは、祈りによって支えられている生きものです。
聖書の中で、みことばは母乳やパンにたとえられています。みことばを食べなければ私たちは飢え死にします。
しかし祈りは、それよりも必要不可欠な、呼吸です。私たちには、父なる神とのあいだに、神の息吹を橋渡しする管が与えられています。
だれもそれを私たちから奪うことはできません。そして私たちは息を吸い、息を吐くように、祈りによって生きる、いな、生かされるのです。

2.
 ところで、私たちは「主の祈り」と呼んでいますが、実際のところは、「私たちの祈り」と呼ぶべきでしょう。
なぜならば、「主の祈り」の中には、イエス様が決して祈ることのなかったであろうものが含まれているからです。
「私たちの罪をお許しください」。罪のない方として生まれ、生涯で一切罪を犯さなかったイエス様がこれを祈ることはあり得ません。
「主の祈り」は、あくまでも私たちが唱えるための祈りです。そしてイエス様は「祈るときにはこう言いなさい」と教えられました。
 あるクリスチャンが運営しているブログの中にこんなコメントがありました。
「イエス様は、私たちの過去の罪だけでなく、将来に犯すであろう罪でさえ、十字架の身代わりを通して引き受け、赦してくださった。
ならば、どうして私たち救われたクリスチャンが、毎日、罪を悔い改めて祈る必要があるのか。」
しかし確かなことは、イエス様は「私たちの罪をお許しください」と毎日祈りなさいと教えていることです。
主の祈りは、一生で一回きりの祈りではありません。クリスチャンが毎日、あるいは一日に何度も、祈るためのものです。
これを教えてくださったとき、まだ十字架は来ていませんが、イエス様は私たちが「罪をお許しください」と繰り返し祈るように教えています。
 イエス・キリストを救い主として信じた者たちは、たしかにあらゆる罪のさばきから永遠に解放されています。
しかし罪をさばかれることはなくても、いまも罪に影響されています。罪に支配されてはいませんが、罪に関わり続けています。
自分は罪を犯していないと言えても、他の人に罪を犯させてしまうこともあります。地上に生きているあいだは、救われた罪人です。
だから私たちは、今日も明日もこう祈るのです。
「私の罪をお許しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。」
祈らずにはいられません。自分の力で罪と戦えるほど強くないのです。自分の努力で誘惑をはねのけることもできないのです。
そして自分の意思で、自分を傷つけ損害を与えた人を赦すこともできません。
だから祈りが必要なのです。神の尽きることのない愛、そして喜びの御霊が私たちのたましいに、祈りを通して注ぎ込まれていきます。
そして祈りとみことばは常に手を結びながら、私たちのなかで血となり、骨となり、イエス・キリストの生き方をこの心に宿していきます。

3.
 イエス様は、主の祈りを通して、私たちがまず「父よ」と神に向かって呼びかけることのできる恵みを教えてくださいました。
「父よ」と呼びかけるとき、たとえその人の父親像がどんなものであろうとも、まったく新しい神との特別な関係にあることをかみしめます。
たとえ仕事の一切がうまくいっていなくても。たとえ家族との関係に破綻が生じていても。たとえ病に臥せ、耐えがたい痛みを抱えていても。
もう私は、生まれつき罪に支配された、のろわれた奴隷ではない。神様の王子、王女、イエス様の弟、妹なのだ。
「父よ」と呼びかけるとき、まわりの世界はすべて溶けゆきます。
この世界が造られる前から私を子として選び、すべてのできごとを私のために備えてくださった、神のご計画を味わいましょう。
あらゆることが私の願いとは逆に、また見通しに逆らって進んでいるように思われても、私たちはこう祈りましょう。
「御名があがめられますように。御国が来ますように」。それは、私が今すぐ神様にしてもらいたい願いとは異なるかもしれません。
しかし、私の願いよりも先に、まず神の御名が天でも地上でもあがめられることを。神の国がこの地上でも広がるように。
神様が、私を選び、いまこの祈りを口にさせてくださっているのは、私が神の国を広げる働きのためなのだと信じながら。
「私たちの日ごとの糧を毎日与えてください」。明日、何があるかわからない。今日野に咲き誇る草花でさえ、明日には炉に投げ込まれる。
しかしそのような草花さえ美しくお造りになってくださった方が、私の人生から決して手を離すことはないのだ、と。
祈りは、私たちにいのちを与え、生活を支えます。祈りは、私が神のものであることを悟らせ、神が私のうちに生きておられることを教えます。
そして祈りは、私たちに罪の赦しを確信させ、さばきの恐怖から解放し、人々の罪を自分も赦す力をもたらします。
祈ることになれていない方は、「主の祈り」を繰り返すことから始めてもよいのです。やがて聖霊様が、あなただけの祈りを与えてくれます。
私たちに祈ることを教えてくださったイエス様に心から感謝いたします。この方を信じる恵みが、一人でも多くの人に分け与えられますように。

posted by 近 at 22:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ
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