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2020.1.26「厚かましく、神を求めよ」(ルカ11:5-13)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今週はずいぶん早く更新できました。
本当は日曜日のうちに更新したいのですが、妻が説教録画のSDカードを勝手にカメラから抜いてしまうのでいつも遅くなってしまうのです。
ちなみに週報も、最終的な原稿は妻が出席人数などを記入して完成するので、やはり妻からデータをもらわないとアップロードできません。
もうすぐ、ブログのタイトルも「豊栄の風」から「オ○ヨメ日記」に変わるかもしれません。
でも、結構いいところもあるんですよ。
たとえば、・・・・・?・・・・・?出てこない。あわわ。あえて言えば、ぶれないところとか。
ちなみに、今回の説教の終盤で取り上げている、70年代生まれには懐かしい「ゲイラカイト」はこちら。
 まだ売っていたんですね。豊栄の田んぼにいくと、似たようなのがよく吊されていますが。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』11章5-13節



1.
 私の説教はいつも声が大きすぎて気が抜けないと言われたことがありますが、今日はちょっと肩に力を抜いた話しから始めます。
むかし、あるところに父親と息子がおりました。住んでるところはウナギ長屋と言いまして、現代風に言うと、壁が基準より少し薄い、集合住宅。
そのウナギ長屋があるあたりを台風が通り過ぎる季節になりまして、この父親、扉や窓を板で打ちつけて補強しようと思いつきました。
「おい、太郎や」「なんだい、とうちゃん」「戸に釘を打つから、隣んちから金槌を借りてこい」。「あい、わかった」
さっそく息子は家を飛び出していきました。待つこと数分、「とうちゃん、ただいま」。ところが手には何も持っていない。
「おい、金槌はどうした?」「とうちゃん、あのね、隣のおじさんに、金槌で打つのは竹の釘か鉄の釘かって聞かれたんだ。」
「それで?」「たぶん鉄の釘、て答えたら、じゃあ貸せねえな、鉄と鉄がぶつかって、大事な金槌がすり減っちまう、だって。」
それを聞いた父親は、火のごとく怒り出した。
「なんてケチなやつだ。太郎や、おまえはそんなケチな大人をみならっちゃいけねえよ。しょうがねえ、うちの金槌を使うか」。

 自分のことは棚に上げて、厚かましさを絵に描いたような父親の姿ですが、イエス様は、これくらい厚かましく神に求めよ、と言われます。
じつはこのイエス様のことば、日本語ではちょっと訳がひねりすぎています。もともとのギリシャ語をそのまま直訳すると、こうなります。
「あなたがたのうち、だれが真夜中に友だちのところに行って、友よ、パンを三つ貸してくれ。などと言うでしょうか」。
翻訳との違いがわかるでしょうか。真夜中にパンを借りにいくなんて厚かましいこと、君たちだったら絶対やらないでしょう?
でも、神様に本気で求めるってこういうことなんだよ、と。イエス様のことばをまとめると、弟子たちにこう語られてるのですね。
あなたがたがどんなに追い詰められても、プライドと良識が邪魔をしてやらないような、こんな厚かましい姿を私は示しました。
あなたがたのことを心配してくださる神様は、祈るときには厚かましいと言われるほど、ここまでひたすら求めることを願っているんだよ、と。

2.
 イエス様の次のことばを心に刻みつけましょう。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」。
「だれであっても」と約束してくださっています。イエス・キリストを信じている、いない、洗礼を受けている、いない、その違いはありません。
教会にはいくつか専門用語があって、そのなかに「求道者」ということばがあります。「道を求める者」と書いて、求道者と読みます。
教会に来ているけれどクリスチャンではない方に用います。しかし救いの道を求めるのは、クリスチャンになる前も後も変わりありません。
私は信じて洗礼を受けたからもう求めなくてもいい、そんなことはありません。それはギリシャ語の文法にも現れています。
「求めなさい」「捜しなさい」「たたきなさい」、これらは、一回きりではなく、たえず行いなさいという、継続の意味が含まれています。
つまり、求め続けなさい。探し続けなさい。叩き続けなさい。
救いを与えられた後も、見つかった後も、扉が開かれた後も、救いを探求する旅は、それからも続くのです。続けなければならないのです。
信仰の道には終わりがありません。私たちは救われたかそうでないかにかかわらず、常に神を求め続ける人生なのです。

 救われるためには、罪を悔い改めてイエス・キリストを信じなければなりません。しかしそれは終わりではなく、始まりです。
人は、救われるまでは、どこに答えがあるかわからずに、人生を右往左往、行ったり来たり、定まりません。
あちこちのすき間を捜し、あちこちの扉をたたき、自分でもよくわからないままに、満たされない、ただ強い渇きだけがあります。
しかし人が救われるとき、イエス・キリストがその心の中に住んでくださいます。
そしてそれまでは自分が何を求めているのかもわからなかったが、それがはっきりと、具体的なもののために、求め、捜し、叩きます。
そのはっきりと、具体的なものとは何でしょうか。それは神の栄光を表すために、私の人生は存在しているのだという確信です。
それまでは空回りの人生でした。しかし救われた今、人生で何をしても、人生に何があっても、すべてが神の栄光を表す意味を持ちます。
そして、私たちに共通する確信は、神様は私に必要なものが何かを完全に知っておられるということです。
だからあれがない、これがないという心配がありません。ゆだねるということの真の平安を知っています。あせることもありません。

3.
 子どものときの忘れられない思い出があります。私が小学生の頃ですが、全国的にゲイラカイトというものが流行していました。
ゲイラカイトというのは、いわゆるたこですが、アメリカから輸入された、ビニール製の、三角形のタコです。
当時の小学生男子にとって、このゲイラカイトをいかに上手く、いかに高く、空に挙げるかで、クラスのポジションが決まるのです。
私は当時田舎に住んでいたのですが、その年のクリスマスが近づいた頃、新潟市という都会に住んでいた祖父に電話しました。
おじいちゃん、クリスマスプレゼントにゲイラカイトがほしい。おもちゃ屋に行って、ゲイラカイトを買ってきて。冬休みに入ったら遊びに行くから。
祖父はかわいい孫のために、さっそくおもちゃ屋に行ってくれたようです。そしてクリスマスのとき、私にプレゼントの包みを渡してくれました。
やった、憧れのゲイラカイト。しかしゲイラカイトの割りには、包みがもこもこしている。一抹の不安を覚えながら、包みを開けました。
そしたら、ゲイラカイトじゃなくて、トナカイの小さなぬいぐるみが入っていた。祖父が言いました。さがすのたいへんだったぞ。トナカイ。
おじいちゃん、コレジャナイ。ほしかったのはコレジャナイ。今では、祖父がどれだけ愛情をもって選んでくれたかがわかります。でもコレジャナイ。

 神様は、祖父以上に、私によいものを与えたいと願っておられます。
そして祖父と違うのは、私が必要としているものを、神様は決して間違えません。
神様は、私がほしくないものを与えることもあります。しかしそれはほしくないけれど必要なものなのだとわかります。
ご多分に漏れず、苦しいこと、悲しいこと、つらいこと、たくさん経験してきました。しかしすべては必要なものでした。
神様は、私たちに不要なものを与えるほど愚かではない。必要なものを与えてくださる。それを信じるとき、文字通り人生が変わります。
イエス様が約束された、私たちに必要なものとは、聖霊です。聖霊は、御霊とも訳されますが、神そのものであるお方です。
私たちに罪を示し、悔い改めに導く。喜びを与え、人々に仕える力を与える。みことばを心の中に語り、私たちを慰めてくださるお方。
どうか、神様に対して、厚かましいと言われるほどまでに、求めてください。神は求める者を決して手ぶらで追い返すことはなさいません。
そして、神が私に必要なものを与えてくださるのだと、信じてください。人生でどんなことが起きても、それは私たちに必要な、神の恵みなのです。
ひとり一人が、今日の聖書のことばを通して、神を求め、平安をいただくことのできる人生へと歩み出すことができるように。

posted by 近 at 22:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ
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