新型肺炎のニュースが連日報道されています。中国での死者は636人(2/7現在)、感染者数は3万人以上。
陰謀説が大好きな人たちのあいだでは、実際の感染者数は10万人に達しているのではないかとも言われております。
最初の説明では、野生動物を取引する武漢の食肉市場での異種間感染からということでした。
しかし今都市伝説のように噂されているのは、武漢に実在するレベル4の細菌研究施設から流出したのではないかということ。
こんな話を聞いて『バイオハザード』とミラ・ジョヴォヴィッチを連想する人は平成世代。
しかし我々昭和生まれが思い出すのはむしろ小松左京の『復活の日』でしょう。イースターのことではありません。
小学生の夏休み直前、なんだかゴチャゴチャ書いてあるカバーイラストが気になって借りた本なので記憶が曖昧ですが、
たしか研究所から細菌兵器が盗まれたあげく飛行機が墜落して流出、瞬く間に世界中に広がり、人類ほぼ滅亡という筋書きでした。
しかし細菌が低温に弱いため、南極基地の隊員だけが助かります。まあみんな死んだら小説として困るのでそれは許すとして、
発射された中性子爆弾によって、人間だけでなく細菌も死んでしまうというご都合主義は、子供心にも強引すぎました。
現実はそんなにうまくいかないよ。おとなはいつもこうやってうまく丸め込むんだ。
そんな尾崎豊ばりの内容を夏休みの読書感想文に書いたら、先生のコメントは「ちゃんと課題図書から選びましょう。書き直し」。
なんだ、「自由感想文」って課題図書から選ぶのね。それで課題図書のひとつ、『ポールの北極星』を借り直してきました。
一応、南極と北極つながりということで。こっちのカバー絵もなんだかゴチャゴチャしています。どれがポールなんだ。
とはいえ内容は一切覚えていません。書き直す屈辱があまりにも鮮烈だったので、タイトルだけは覚えているのですが。
あの頃に『聖書』と出会っていれば、その後の人生もまた違っていたのでしょうね。
ブログ読者のみなさんも、どうぞ選ぶ本にはお気をつけください。それと、手洗いとうがいを大切に。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』11章14-28節
1.
聖書の中には、イエス・キリストが、あらゆる人々の、あらゆる病気をいやされたことがくわしく記録されています。
その中には、今日の聖書の物語のように、その人のなかに入り込んでいた悪霊を追いだしたという例もたくさん登場します。
日本では悪霊というと、恨みを残して死んでいった人間のなれの果てというイメージがありますが、それは聖書の考え方とは異なります。
聖書のあるところでは、悪霊は堕落した御使いとも書かれています。悪霊は決して人が作り出した迷信ではなく、実在する霊的存在です。
この福音書の著者であるルカの仕事は、医者でした。
ですから彼は病についても、通常の病気によるもの、悪霊の影響によるもの、と使い分けて記録しています。
すべての病気の背後に悪霊がいると考える必要はありません。ましてや心の病を悪霊の働きとすることは避けなければなりません。
何よりも聖書が今日の物語を通して伝えようとしていることは、病気を引き起こしている原因は何か、ではありません。
病気の原因が、悪霊であれ、生活の悪習慣であれ、それが何であろうと、イエス・キリストはあらゆる病をいやしてくださるのだということです。
これは、本来であれば喜ぶべきことでありましょう。しかし喜ぶどころか、かえって批判する人々がいたのです。
それがパリサイ人やサドカイ人と呼ばれる、当時の宗教指導層の人々でした。それは嫉妬というよりも、敵意と呼ぶべきものでした。
15節をご覧ください。彼らはこのようにイエス様を非難しました。「彼は、悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追いだしているのだ」。
ベルゼブルについて、詳しい説明は省きますが、悪魔の元締めであるサタンと同じものであり、単に呼び方が違っているだけです。
ちなみにサタンという言葉はヘブル語のシャアターンから来ている言葉で、もともとは「敵対する者」という意味でしかありません。
宗教指導者たち、つまりイエスに敵対する者たちは、(どっちがサタンかと言いたくなりますが)、
つまり、イエス・キリストが悪霊を追い出している姿を、グウの音も出ないほどに直接見ても、それが救い主の証明だとは信じたくなかった。
だからこう言ったのです。あのイエスという男は救い主などではない、魔術師だ。
悪魔のかしら、ベルゼブルと契約を結び、それによって下っ端の悪霊どもを追いだしているのだ、と。
2.
しかしイエス様ははっきりと言われました。17節、「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。
サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができるでしょう」
ここで私たちはイエス様のことばに注意をはらうべきです。主は、これをたとえ話ではなくて、現実の問題として語っておられるのです。
悪霊のかしらであるサタンは、自分の配下であるあらゆる悪霊を組織的に総動員して、神の国である教会を揺さぶり続けています。
パウロがエペソの教会に送った手紙の中には、次のような有名な言葉があります。(6:12,13)
「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」
まさにイエス・キリストが示されたとおりの戦いが、私たちを取り巻いている現実です。彼らに対抗できる神の武具は、このみことばだけです。
19節でイエス様は言われます。私がベルゼブルによって悪霊を追い出しているならば、あなたがたの仲閧ヘ誰によって悪霊を追い出すのか。
この言葉の意味は、当時の宗教指導者たちのなかには、まさに悪霊の名前を使って、悪霊を追い出していた者たちがいたのです。
しかし彼らの追い出しは、悪霊をなだめすかす話術でしかありません。この人から出て行って、別の人に入ってくださいというものです。
ですが、イエス・キリストは、そのような中途半端な勝利ではありません。21節、22節では、サタンが武装した強い人にたとえられています。
しかしキリストは、そのサタンよりも強いのです。十字架によって、イエスはサタンを打ち破り、罪に囚われていた人々を奪い返しました。
ですが、今回の聖書箇所およびメッセージの中で最も大切なことばは、次の23節です。このみことばを心に刻みつけてください。
「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です」。
イエスは、この戦いに中立はないと語っておられるのです。すべての人は、イエスの側につくか、サタンの側にとどまるかの二つしか道はありません。
キリストを信じれば救われる、という福音を聞いていながら、救い主としてイエスを選ぶことを保留し続けるならば、それは中立ではない。
わたしに逆らう者だ、と。どんなに友好的に振る舞っても、キリストとともに集めないものは散らす者である。あなたはどっちか、と問われています。
これは求道者の方々だけへの勧めではありません。私たちクリスチャンは、だれもが、私はイエスの側にいる、と答えるでしょう。
そうであれば、人生で見つめ続けるのは、私の栄光ではなく、イエス・キリストの栄光を表すことです。そのために必要な武具が、この聖書です。
ここにすべての答えがある。いつもこの聖書を開きながら、私を、家庭を、教会を、社会を拐かそうとする悪霊と戦い続けていくのです。
3.
先ほど言ったように、当時のユダヤ人の中にあった悪霊追い出しは、悪霊をなだめすかして出て行ってもらうというものでした。
しかしイエス様が語っておられるように、出ていった後、その心の中がきれいにはされていても空っぽであったならば、もっとひどくなります。
クリスチャンの心の中には、悪霊は住みつくことができません。それは、イエスを信じた時、聖霊が心に永遠にすみたもうからです。
しかしイエスにどれだけ近づいても、イエスを信じることを保留し続けるならば、たとえ心をきれいにしてもらっても、空っぽです。
キリストを救い主としてはっきりと信じるならば、たとえ後のことはどれだけ未完成、未成熟であったとしても、神がうちに住んでくださいます。
この方を心に受け入れるならば、内側から人生の変革が始まり、それは生活と人生を変えます。家庭や社会にさえも影響を与えます。
悪霊を追いだしたかと思えばまた入ってくるような生活、私には関係ないと思うかもしれません。
しかし悪霊どころか、もっと低俗なものである、この世の事柄をとっかえひっかえしながら、つねに不安を覚えている人生。同じことです。
そこからの解放は、ただイエス・キリストしかありません。
そしてこの物語は、最後にひとりの女性のかけ声で最後の結論となります。
27節をご覧ください。「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです」。決して的外れな賛辞ではありません。
しかしイエス様は言われました。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです」。
神のことばを聞いて、それを守る。シンプルだけど、実行するのにこれほど難しいことはない、と思える。
しかし、私の中に、イエスが生きており、聖霊なる神が永遠に住んでくださる。
みことばを心の中に刻んでいくとき、それは内側から沸き起こってくる、神の御ちからによって、必ず血となり、肉となり、私を生かす。
ひとり一人が、このイエス・キリストを信じ、みことばとともに生きる幸いを味わっていただきたいと、心から願います。