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2020.2.9「光を、もっと光を」(ルカ11:29-36)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
最近、また説教が長すぎる。アーンド厳しすぎる。という極上の言葉、ちがった、ご苦情のおことばをいただきました。妻から。
とはいえ、いまに始まったことではなく、神学生の頃から言われてたんですけどね。
20年前、神学校の説教演習のときに教官からいただいた、こんなメモは今も引き出しにとってあります。
「容赦ない叱責は預言者的。相手の事情に理解を示すと牧会者的になるが・・・・」これってほめことば?わからん

 その頃の私のささやかな趣味は、神学校の近所にあったブックオフ千葉白井店でのマンガ漁りでした。
私にとって第二の注解書である名作、『人間交差点』14巻に、「一枚の絵」というエピソードがあります。
大劇団の主宰・朝川は、金と権力に汚れた男だ。彼は外国ものの人気作品や、小劇団があてた演目を金の力で横取りし、自分のライバルとなりそうな劇団をことごとくつぶして今の地位にのしあがった。今度も小劇団が上演して人気を呼んでいる芝居の上演権を、姑息な手段で手に入れようとしている。だが、その小劇団の主宰は、学生時代、演劇部で同期だった男だった(Amazonの解説文より)

人間交差点14_p21.png かつての恋人を死に追いやったことを認めず、うそぶいていた朝川
人間交差点14_p27.png 同期との出会いをきっかけに、良心の呵責に揺れ始める
人間交差点14_p29.png 「自分が真剣に人を愛していたことを思い出せ。そうすれば・・・・」
コピーライトマーク小学館・矢島正雄・弘兼憲史

もし説教の中で私が苛立っているように見えるとしたら、それは「教会を守る」という建前で羊の足を折る人々の姿を聞いているからです。
「教会を守る」という言葉が意味を持つのは、大牧者からゆだねられた「すべての羊」を守る時だけです。
しかし牧師が、ゆだねられた羊たちを自分の目線で羊と山羊に分別する。
自分に従順な者だけを羊とし、過ちに対して諌言してくれる者たちを逆に山羊とみなす。

 献身の思いに燃えていた者たちも、いつのまにか道を見失うこともあります。
そのとき必要なのは、「どこから落ちたかを思い出す」(黙2:5)ことではないでしょうか。
羊たちはみことばによって養われます。それは正しい釈義説教ということだけではありません。
語る者自身が、みことばによって砕かれているか。砕かれて、初めに戻るという恵みを分かち合えるかどうか。
福音は「安心して絶望できる世界」(向谷地生良)をもたらします。絶望の谷底の、さらにその下にイエスがおられます。
砕かれた自分を飾ることなく、そのままの姿で講壇に上がるならば、イエス様の説教に近づけるのでしょう。
私にはまだまだ遠い道であるかもしれません。
しかし教会に行けない方が、この拙い説教録画を通して励まされているという知らせもいただきました。
罪だけではなく愛もまんべんなく語った、大牧者の説教に近づきたいと心から願います。週報はこちらです。


聖書箇所 『ルカの福音書』11章29-36節



1.
 29節の前半部分をもう一度お読みします。「群衆の数が増えてくると、イエスは話し始められた。この時代は悪い時代です。」
「悪い時代」と聞くと、私たちはどんなことを連想するでしょうか。災害が次から次へと降ってくる?戦争ばかりが起こる?人々が憎み合う?
しかしイエス様が言われた、悪い時代とは、そういうことではありませんでした。イエス様の同じことばの中に、それが現されています。
「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」。
イエス様がとくにご自分の生きた時代を、悪い時代と言われたのは、人々がイエス様にしるしを求めていたからです。
しるしとは、直訳すると「証拠としての奇跡」という意味です。
イエス・キリストが神である証拠として、奇跡を見せてほしいと人々は願ったのです。
モーセのように、天からうずらやパンを降らせる奇跡。エリヤのように、天から炎を下す奇跡。奇跡を見せてくれ。そうしたら信じるから。
 なぜそれがいけないのでしょうか。奇跡を起こすことができないような神に、救いを与えることなど期待できないではありませんか。
救いとは、奇跡ではないでしょうか。暗やみにもがき続ける自分の人生を変えようとしてきた人々が、この中にもいるでしょう。
なんとか努力して、この泥沼から抜け出そうと努力してきた。何でも試した。どんな神にもすがった。しかし変わらなかった。変えられなかった。
そのなかで、教会に導かれて、イエス・キリストに出会い、それまで決して変わらなかった自分が、内側からめくれるように変えられた。
それが奇跡でなくて何か。だとしたら奇跡を求めて何が悪い。私を必ず変えてくれる神なのだというしるしを求めて何が悪い。

 しかし、奇跡そのものを求める者に、イエス・キリストは答えてくださいません。
なぜなら奇跡そのものを、神である証拠として求める、というのは、主を信頼していないしるしだからです。
信仰とは、神と私が、人格的に、一対一の関係の中で、信頼することです。
神がこの私を信頼してくださり、私もこの神を信頼する。
信仰とは、一方的な神からの恵みでありながら、それはキャッチボールのようです。
神を信頼する者は、証拠としての奇跡を求めません。その前に神に信頼するのです。
私に必要なものをすべて知っておられる神は、必ずふさわしいとき、ふさわしい場所でそれを与えてくださいます。
そのとき、奇跡としか言いようのないことが起こります。それは「信仰の結果」としての奇跡です。
しかしはじめから、「証拠としての奇跡」を求める者には主は答えられません。

2.
 「ヨナのしるし」とは何でしょうか。それは旧約聖書に記されている、預言者ヨナが経験した数々の出来事から生まれています。
しかしヨナについてここで詳しく説明しても、説教のポイントがずれてしまうだけなので、あえて避けることにします。
一つだけ覚えてください。「ヨナのしるし」とは、後にイエス・キリストが墓に葬られて三日後によみがえる奇跡を指しています。
では、ソロモンについてはどうでしょうか。ソロモンと南の女王とのくだりについても、旧約聖書からくどくど説明することは控えます。
しかし、これもひとつだけ、神から知恵を授けられたソロモンにはるかにまさる知恵が、キリストによって示されました。
イエス様が私たちの罪のために十字架にかかり、よみがえられ、それを信じた者は罪ゆるされて、永遠のいのちをいただける。
しかしその、信じ、救われる者たちひとり一人が、この世界がつくられる前からすでに神によって選ばれていた、と聖書は教えているのです。
ソロモンの知恵などはるかに霞んでしまう、神の永遠無限の知恵によって、周到に計画されたのが、私たちの救いです。

 あなたは、このイエス・キリスト、そしてこの方が与えてくださる救いを、どのように見ていたでしょうか。
イエス様が十字架につけられたとき、人々は指を突きつけてこう叫びました。
「今すぐ十字架から降りてみろ。その奇跡を見たら、私たちは信じてやろう」。
それは、自分の罪がわからないゆえの言葉です。
自分の人生のなかで、罪の中に苦しんできた者からは、奇跡を見せてほしいなどという言葉は決して出てきません。
今まであらゆるものにしがみつき、あらゆるものに裏切られてきた。
今まで聞いたことのない深い言葉だとか、必ず心のすき間が満たされる教えだとか、そんなものを繰り返し、そのたびに傷ついてきた。
救われる者は少ない、とイエス様自身が言われます。では、本当に救われる者とはどんな者か。
救われるためならば、なりふり構っていられない人です。奇跡を見せてほしいと、神を試す余裕など、自分の人生には存在しない。
とにかく、光を。暗やみにもがき続ける私に、光を。光を求める者たちは、必ずこのイエス・キリストにたどり着きます。

3.
 しかし人々が求めていたものは光ではありませんでした。
彼らは奇跡を求めていました。そしてそれは光ではなく、むしろやみの中に彼らをとどめてしまったのです。
なぜなら、奇跡を求める者たちは、イエス様を信頼するのではなく、本当に信じるべきかどうか、値踏みしていたからです。
しかしイエス様は、ヨナのしるしとソロモンの知恵を彼らに示されました。イエス様は彼らにこのように伝えたかったのでしょう。
 奇跡を見なければ、わたしを信じないという人よ。奇跡ではなく、わたしを見よ。
やがてあなたの身代わりとしてわたしは十字架で殺される。そしてあなたの罪が贖われたしるしとして、必ずよみがえる。
そのことをわたしはあなたに今までも語ってきたし、これからも語り続ける。
奇跡ではなく、わたし自身を見よ。自分の思い込みではなく、神のことばに聞け、と。

 光であるイエス様は、奇跡という証拠がなくても、人々の前にご自分の姿を、ことばをはっきりと示しておられました。
この方を求めるならば救いに近づきます。この方に近づくならば、受け止めていただけます。この方を信じるならば、救われます。
イエス様は言われました。「見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです」。
あなたの目を上げて、わたしを見よ。その目を健全に保ち、わたしを見よ。疑いのある、曇った目で見るのではなく、真剣にわたしを見よ。
そうすれば、あなたの心もまた光を受けるだろう。そしてその光は、また別の者たちを照らし、輝かせていくだろう。

 クリスチャンの上に起きる救いはまさに奇跡です。理性で十字架を信じることはできません。感情で救いを継続することはできません。
もし自分の信仰が弱っていると自覚することがあるならば、自分がどれほど泥沼でもがいていた者であったかを思い起こすことです。
だれがその泥沼から救い出すことができるでしょうか。自分の努力で何とかなるようなものではあり得なかった。
しかし、そこから私たちを引き上げてくださったのは神ご自身でした。そして神様は、私たちの中に、救いに至る信仰を与えてくださったのです。
私たちの中には、はじめから自分が持っているものなど、何もない。すべてが、神様によって与えられました。信仰もそうです。
そのことを忘れてしまうと、信仰は恵みではなく報酬になってしまう。信仰生活は、神からの賜物ではなく、自己責任になってしまう。
イエス様は言われました。「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい」と。
イエス様を信じるために奇跡を求めてはいけません。そんなことを求めなくても、信じた者は、毎日、奇跡を体験するのです。
私たちをあわれみ、今も生かし、さらに人々を生かす者へと変えてくださる、このイエス・キリストに信頼しましょう。

posted by 近 at 21:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ
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