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2020.2.16「主にとどまり、みことばにとどまる」(ヨハネ15:1-10)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
いよいよ、明日は教会総会です。今年度の教会目標は「主にとどまり、みことばにとどまる群」を掲げました。
今回の説教は、その標語聖句となるみことばから語っております。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』15章1-10節



1.
 1節をもう一度お読みします。「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です」。
「わたしはまことのぶどうの木である」と、イエス様は弟子たちに言われました。
ぶどうは、南極大陸を除き、世界じゅうのどの国でも栽培されている、極めてありふれた果物です。
しかしぶどうは、ユダヤ人にとって、特別な意味を持ちます。旧約聖書で、彼らユダヤ人は、ぶどうの木にたとえられているからです。
ユダヤ人は、自分たちは神によって植えられたぶどうの木である、と信じていました。
そして自分たちの生き方から生み出されるぶどう酒は神へのいけにえにふさわしい、と。
しかし彼らは、そのために自分たちを特別な民族だとみなし、特権意識にとらわれてしまいました。
そしてイエス様がこの言葉を語ったとき、ユダヤ人たちは、彼らが待望した救い主であるはずのイエス・キリストを十字架につけようとしていました。
 いま、イエス様は、それらの悲しい現実を見つめながら、「わたしはまことのぶどうの木である」と弟子たちに語られたのです。
「まことのぶどうの木」、それは本物のぶどうの木ということです。
ユダヤ人たちは、ユダヤ人としての血統に神のぶどうの木としての資格を見いだしていました。
しかしまことのぶどうの木、そしてそれにつながる枝は、ユダヤ人として生まれたかどうか関係ありません。
民族や、生まれに関わりなく、イエス・キリストを救い主として信じるならば、私たちは神のぶどうの木としてイエス様と結ばれるのです。
 イエス様は弟子たちに、そして聖書を通して、私たちにも語られています。
あなたがたは、わたしというぶどうの木につながる、一本一本の枝である。
わたしにつながっているならば、あなたがたには聖霊という内なる力がいつも注がれて、みこころのままに成長し、実を豊かに結ぶ枝となる、と。

2.
 まず私たちは、自分の生まれや能力、はたまた意思や熱心さによらず、ただ恵みによってイエス・キリストに選ばれたことをかみしめましょう。
もし私たちの救いが、昨日今日、神様によって急いで決められたのなら、私たちが神を求めたから救われたのだ、と言うこともできましょう。
しかしそうではないのです。聖書は別のところではっきりと、この天地が造られる前から神は私たちをあらかじめ選んでおられた、と語っています。
私たちが何かをしたからではありません。私たちが熱心に神を求めたからでもありません。もちろん性格や育ちの良さとかでもありません。
私たちが、イエス・キリストというぶどうの木につながる枝になることは、この世界がつくられる前から決められていたことです。
 私は、30年前にクリスチャンになったとき、このみことばに喜びよりも恐れのほうを感じました。
それは、この箇所でたびたび、実を結ぶない者にはこうされる、という恐ろしい言葉が書かれているからです。
2節、「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」
6節、「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」
私はクリスチャンになっても、それまで自分が続けてきた悪い習慣から抜け出ることができませんでした。
こんなことはしたくないと思いつつも、まるで日課のようにそれをしなければ落ち着かず、終わった後でいつも後悔が襲ってきます。
そして、自分は救われていないのではないか。洗礼を受けた、というだけで、本当は聖霊をいただいてはいないのではないか、と思いました。
 しかし私が、そのような疑心暗鬼の信仰生活から助け出されたのは、みことばが心の奥から響いてくる経験をしたときでした。
そのとき、私は社会人二年目でしたが、教会生活に疲れて、何ヶ月も礼拝を欠席していたときがありました。
そしてもう教会に行くことはないだろう、と自分でも思っていました。むしろクリスチャンであることをやめたい、とさえ思っていたのです。
しかし、人が一度、イエス・キリストというまことのぶどうの滋味を味わったならば、教会から離れても、そこにあるのは解放感ではありません。
一度、神のぶどうの木につながる醍醐味を経験した者が、礼拝や聖徒の交わりから切り離されたとき、どうなるでしょうか。
窒息して死に至るというのはこういうものかという、何を食べても、何を楽しんでも、砂を噛むような味しかしない、そんな生活です。
それを私は経験しました。それでも教会には戻れない。
私の心が限界に近づいていたとき、まったく突然に、私の心に稲妻のように聖書のことばが浮かび上がりました。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」

3.
 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除く、そして実を結ぶものはみな、もっと実を結ぶために刈り込みをされる、とあります。
しかしここでイエス様のことばの意味に注意しましょう。おまえは実を結ばない悪いクリスチャン、あなたは実を結ぶ良いクリスチャン。
そんな風にあらゆるクリスチャンを選り分けて、父なる神は悪いクリスチャンは取り除く。逆に良いクリスチャンは刈り込む。
そうではありません。クリスチャンは誰であっても、神がこの世界をつくられる前から救いに定めてくださった者たちなのです。
それは、神がご自分のいのちを含め、あらゆる手を尽くして、私たちを実を結ぶ者へと導き続けてくださる、ということです。
 取り除くのは、人ではなく心の汚れです。私たちの心の中に、成長のために妨げになる、悪しきものを、神は取り除いてくださいます。
同様に、私たちの心の中に、信仰によって生み出された、良きものを、神は刈り込みを通して、さらに栄養が行き届くようにされます。
取り除くのも、刈り込みも、ぶどうの木と枝に、はさみで手を加えることです。これはまさに、私たちの人生に起こる試練を表します。
しかしその試練を通して、私たちは悪しき肉の部分を取り除かれ、良きものをさらに良くされていきます。
 またイエス様は、「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます」とも言われます。
「だれでも」と語られるとき、それはクリスチャンに限定される言葉ではなく、すべての人間に用いられることばです。
人がどれだけキリスト教やクリスチャンに寛容であろうが、イエス・キリストにつながる以外に、終わりの炎から逃れる道はありません。
だから私たちは、イエス・キリストをひとりでも多くの人々に伝えていこうではありませんか。
牧師は礼拝の中で一万語を尽くして福音について伝えます。
しかし万の言葉よりも、一人のクリスチャンの愛の奉仕が、イエス・キリストを鮮やかに伝えることは珍しいことではありません。
牧師の流暢な説教よりも、一人の朴訥な信者の言葉のほうが用いられることも多いのです。
私たちの教会の三十数名の信徒たちの生活の中から、イエス・キリストがその人を通して世に示されるのです。
足りないものは、すべて求めよ、とイエス様は語られています。あなたがたに必要なものは、すべて与えると約束してくださっています。
私たちが弟子としてそれらを駆使し、実を結んでいくことを通して、父なる神の栄光を表すことができるのです。

結. 
 今日の聖書箇所のなかで、イエス様は「とどまる」という言葉を11回も繰り返しておられます。
そして「わたしにとどまる」ということだけでなく、「わたしのことばにとどまる」ということも強調しておられます。
わたしのことば、それは福音書に記録されたイエス様の言葉だけではなく、いま私たちに聖書として与えられている、すべてのみことばです。
いま、私たちの教会は、さまざまな課題を抱えています。
そう言うと少し重い印象になりますが、希望をもって、みんなで取り組んでいく事柄がいくつも見えてきたということです。
しかしそこで忘れてはならないことは、いかなることに対しても、聖書をモノサシとして、考え、話し合い、一歩踏み出していくということです。
会堂建設のこと、会堂を開放しての地域貢献、病気や怪我、様々な事情で教会から離れている方々への信仰のフォロー、
これからも教会には、多くの人々が来られます。男性、女性、大人、子ども、それぞれが自発的、積極的に関わっていきたいものです。
教会の奉仕にも、欠けているところも多くあります。一人ひとりが、ここは私の教会という意識をもって、考えていかなければなりません。
そのすべてに関わるなかで、みことばが私に何を語り、どのように考え、行動せよと教えているのかということをおぼえていきたいものです。
主イエスにとどまり、みことばにとどまるならば、私たちは必ず、豊かな実を結ばせていただく、まことのぶどうの木の枝となります。
一人ひとりが、さらにみことばに聞き、みことばを開き、みことばを行う者として、歩んでいきましょう。
posted by 近 at 15:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ
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