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2020.2.23「一粒の麦」(ヨハネ12:20-26)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
昨年の教団機関紙の中に、こんな文章がありました。(実名部分をA,Bとしています)
 あるとき、牧師の私を批判する人が出てきて、とても辛くて相談すると、じっと話しを聞いてくれたあとA先生は言いました。「B先生、その人が教会に来ると緊張するだろう」「はい」「あの人は来ないほうがいい、そう思っているだろう」「・・・はい」「でも、もしB先生がその人を追い出したらな、心配するな。神さまはもっと強力な人を送ってくださるから」このA先生独特の励ましとともに祈っていただいて、それからはただイエスさまの恵みを思ってジーっと忍耐していると、やがてその人の方から教会を移りたいと去っていきました。
「B先生」は「A先生」の教会から献身した方で、この文章はA先生の葬儀のときにもお話しされたものでした。(私もその葬儀に出席していました)B先生は私にとっても親しい先輩牧師ではあるのですが、限られた葬儀の場所ではともかく、同盟教団の全信徒が読む機関紙に掲載するものではないな、と思いました。笑いを取ったつもりでも、なんとなく後味の悪さが残ります。
 「獅子身中の虫」という言葉があります。もともとは釈迦の言葉だそうですが、教会を含む、様々な組織のなかで「和を乱す者」に対して使われることがあります。しかし以前ある仏教ブログを読んだとき、「この言葉は特定の人を指す言葉ではない。末法の世になると、仏徒全体の中でも教えを軽んじる傾向が生まれ、仏法そのものが崩れていくことを指しているのだ」という趣旨の言葉を読み、なるほどなあと思ったことがありました。
 私も以前、牧会の中で起きてしまった、信徒とのトラブルで、大先輩の牧師に相談したことがありました。しかしそのとき、その先生はこう言われました。「(近)先生、もし教会の中で信徒が問題を起こしたら、その責任は100%牧師にあるとわきまえなさい。みことばがしっかりと語られていないからですよ。もし100%を受け止められないようであれば、牧師になるべきではありません」。厳しい言葉でしたが、まさに正論でした。その後、助言のとおりに、みことばをしっかり語ることができたかどうかは疑問ですが、それでも、教会は少しずつ変わってきたようにも思えます。いや、もしかしたら私のほうが少し変えられたのかもしれません。
 教会の中で、しっかりとみことばが語られているか。それが欠けているときに、「身中の虫」が生まれます。それはだれかが出ていくとかそういうことで解決されるものでは決してありません。しかし同時にそれは牧師にとって、みことばに対して妥協してきた、牧会のゆがみを悔い改めるチャンスになります。もちろん虫が生まれる前に気づき、修正できたら一番よいのですが。週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』12章20-26節



1.
 この聖書箇所を読むたびに、私は「塩狩峠」を思い出します。
「塩狩峠」については、みなさんもよくご存じでしょう。実話をもとにして書き上げられた、三浦綾子さんの小説です。
明治42年、北海道の塩狩峠で鉄道の脱線事故が起こりました。
しかしその列車の乗務員であった一人のクリスチャンが、線路に身を投げ出すことで列車の暴走を止め、多くの乗客の命を救いました。
この青年が、いつも口ずさみ、愛唱していた聖書のことばがありました。それがこのヨハネ12章24節でした。
「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」。

 不思議なことに、この小説は「塩狩峠」というタイトルにかかわらず、塩狩峠での事故そのものは、
全部で20章で構成されている小説の、最後の章に出てくるだけです。
小説のほとんどは、この塩狩峠でいのちを捨てた青年が、どのような家庭に生まれ、様々な葛藤に苦しみながら、
やがてイエス・キリストを救い主として信じ、そして信仰をもって仕事に励んでいたかということが淡々と記されています。
作者である三浦綾子が、この「塩狩峠」という小説で描こうとしたのは、塩狩峠で自分を犠牲にした青年の死に様ではありません。
彼がその死に至るまで、どのように生きていたのかという生き様です。
「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」。

 私たちは、この言葉が、死を勧めていると考えてはなりません。むしろ生きることを勧めているのです。
「人は生きたように死ぬ」という言葉があります。なぜこの青年が他人のいのちを救うために自分のいのちを投げ出すことができたのか。
それは、単に鉄道員としての誇りだけではありません。彼にとって死ぬことは、日頃生きていることの延長でしかありませんでした。
列車事故の際に初めていのちを捨てたのではなく、クリスチャンとして一日一日、キリストのためにいのちを捨てる覚悟で歩んでいたのです。
塩狩峠で、その何気ないが着実な歩みが表れたのです。

2.
 イエスさまは私たちに死ぬことを求めていません。生きることを求めています。
しかしもし私たちが自分のためにだけ生きるのであれば、それは生きるという名に値するものではありません。
生きるにしても、死ぬにしても、あなたのためにいのちを捨てたわたしの生き様、死に様を模範としなさい、
自分のためにではなく、だれかのためにいのちを用いなさい、とイエス様は私たちに語りかけておられます。

 イエス・キリストは、一粒の麦というたとえを用いて、私たちに真のいのちへの道を教えようとしました。
一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのまま、しかしもし死ねば、多くの実を結ぶ。
苦しみがなかったら、神の栄光は表されることはない。死ぬことがなかったら、いのちは実を結ばない。
私たちの造り主である神さまの御手に己を任せることがなかったら、本当に意味のある人生はない。
キリストが言われた「一粒の麦」に込められたのは、ただの自己犠牲の精神ではありません。
「一粒の麦」には、この世が決して受け入れることのできない、神の国に生きる者の真理が込められているのです。
苦しむことなくして、栄光は生まれないこと。死ぬことなくして、いのちは生まれないこと。降服することなくして、勝利はないということ。
それは人々の理解する、勝利の方程式のまったく逆です。決して受け入れることのできない考え方です。
勝利は自分の努力で奪い取るもの。それがこの世界を支配している論理です。
しかし一粒の麦は、自らを農夫の手にゆだねること、神の前に自分を明け渡すことを教えます。
死ねば、いのちの希望は断たれる。そう考えるこの世に対して、一粒の麦は伝えます。
死んでから始まるいのちがある。死を踏み越えて永遠に続いていく、いのちがある。

 最初の一粒の麦である、イエス・キリストは彼を求めて面会を求めてきたギリシャ人たちに語りました。
あなたがたはいままで間違ったものを神として拝んできた。しかしまことの神は、死に至る苦しみを通して、栄光を現される。それがわたしだ。
あなたの罪のために、わたし、イエス・キリストは苦しみを背負って地上に来たのだ。あなたの罪のために、十字架にまで進んで行くのだ。
あなたの罪をすべて背負って、十字架でいのちを捨てるのだ。その真の神、わたしイエス・キリストを信じなさい。
わたしを信じる者には、たとえこの世のいのちを失っても、永遠のいのちが約束されているのだ、と。

3.
 この数週間、新型コロナウイルスについてのニュースを聞かない日はありません。ひとつ小さな咳をするにもおそろしく気を使う毎日です。
これからの数か月、多くの人々が、もし自分も感染したら、そしてもし運悪く死んでしまったら、と怯える日々を過ごすのかもしれません。
しかし誤解を恐れずに言いますが、逆にこのウイルスは、私たちに「生きる」ということの意味を再確認させているような気がするのです。
老後に二千万円とか言いますが、実際のところ、私たちの地上の人生など、老後を迎える前に奪い去られるものかもしれません。
平均寿命80歳とか90歳とか言うのは、突出して長生きする人がいるということであって、全員がそれだけ生きられるという意味ではありません。
私たちの命は、健康や財産に気を使い、どれだけ持たせようとしても、このような目にも見えない病原体に翻弄される、はかないものです。
大切なのは、この世でどれだけ長らえるか、老後も旅行や趣味を人並み程度に楽しむために資金を確保していくか、などでは決してありません。
今日、たとえ命を取り去られても、我が生涯に一片の悔いなし、と告白することのできる一日を過ごすということです。

 日本の人工中絶件数は年間約16万件だそうです。計算すると、毎日500人近い胎児が、親の都合で中絶させられていることになります。
その事実には目をとめず、コロナウイルスにどの県で何人感染し、何人が死んだ、と騒ぐのはなんと滑稽な姿かと思わされます。
イエス様は、一粒の麦が地に落ちて死ぬというご自分の十字架を通して、私たちに生きよ、そして人を生かせ、と語りかけておられます。
死ぬことを恐れて生きる、かりそめの人生ではなく、死さえも恐れることのない、そしてだれかのために命を用いる、人生を味わいなさい、と。
それがイエス・キリストの十字架によって示され、信じる者たちにも与えられる、永遠のいのちです。
この永遠のいのちは、死んでから与えられるものではありません。私たちが信じたときに、すでに始まっているのです。

 塩狩峠の主人公のモデルになった実在の人物、永野青年のポケットからは小さな手帳が見つかりました。
そこには、遺言のようなことばが書かれていたそうです。現代風に訳すと、こんな言葉です。
「苦しみも、幸せも、生きることも、死ぬことも、ひとしく感謝。私はすべてを神にささげる」。
永野青年が塩狩峠で飛び込んでいった先は、冷たいレールの上ではありませんでした。
そこはキリストの生温かい血が流れている十字架が立っていたのです。
彼はただ、イエス・キリストが示してくださった模範にならって、自分も十字架に飛び込んでいったのです。
イエス・キリストを信じる者には、死さえも手出しができない、永遠のいのちの喜びがあります。
自分の栄光のために生きていく人生を捨てて、神の栄光のために自らをささげていく人生へと飛び出しましょう。
そこには、決して後悔することのない、喜びに満ちたとこしえのいのちが確かにあるのです。
人工中絶件数.png
(出典:安達知子「性教育の現状と問題点」2019.6.12日本記者クラブ講演資料)
posted by 近 at 22:48 | Comment(1) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ
この記事へのコメント
はじめまして。福井市在住の王島将春(おうしままさはる)と言います。聖霊のバプテスマを推し進める活動をしている者です。

間もなく、エゼキエル書38章に書かれている通り、ロシア・トルコ・イラン・スーダン・リビアが、イスラエルを攻撃します。もしもエゼキエル戦争と携挙が連動しているなら、一日でも早く聖霊を受け取って、主の日に備える必要があると思っています。そこで、牧師にお願いします。日曜礼拝の時に「聖霊を受け取っていない人は聖霊を受け取ってください」と勧めてください。

宗教でキリスト教をしている人達や、聖霊を受け取っていない自称クリスチャン達が、携挙で挙げられることはありません。彼らが携挙に取り残される事によって生じる後悔や苦痛の度合いは、未信者のそれとは比べ物にならないほどだと思っています。彼らが取り残されて、激烈な後悔と耐え難い苦痛を経験しないためにも、御教会に属する全員に、聖霊のバプテスマを勧めて下さい。

Posted by 王島将春 at 2020年02月29日 17:47
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