最近の記事

2020.3.1「光と共に歩もう」(ヨハネ12:27-36)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
いよいよ新潟でも、新型コロナウイルスの感染者が発生しました。そんなわけで私もマスクをつけて説教しています。
「声がデカイ=唾を遠くまで飛ばしたら申し訳ない」という牧会的配慮なのですが、マスクをつけていると、息苦しいのなんの。
逆にいつもより声を張り上げてしまうため、むしろマスクをつけないほうが、拡散の危険を抑えられるかもしれません。

 今回のウイルスが厄介なのは、潜伏期間が長いため、感染していても無症状という場合も多いことではないでしょうか。
だから、自分が知らないうちに、家庭や職場、教会で感染源になってしまうかもしれないという恐怖感があります。
WHOのエライ人たちは、「マスクは防御には効果はない」と警告しますが、いちいち言われなくてもみんな知ってます。
伝染(うつ)されないためにではなく、伝染(うつ)さないために、日本人はマスクをしているのです。見よ、このうるわしゅう同胞愛。
そりゃマスクも足りなくなるわ。一億枚用意しても、全国民が一日で使い果たしてしまいます。
 しかしこのうるわしゅう同胞愛も行きすぎてしまうと、立派な(ほめてない)ハラスメントになってしまいます。
「おれは伝染(うつ)さないように頑張っているんだから、お前も同じように努力しろ」
こんな理屈から始まる、コロハラ(コロナ?ハラスメント)という言葉も生まれました。
電車の中で非マスク乗客を殴ったり、非マスク社員の勤務を拒絶したり。本末転倒です。

 豊栄の教会は、8日と15日は、愛餐会と午後の集会を中止して、礼拝と祈祷会のみを行います。
明日の礼拝も、前回と同じようにマスクをすべきでしょうか。
しかし表情が見えない説教を何週にわたって行うことにも抵抗を感じているのも事実です。
社会の要求に機械的に応じるのではなく、みことばに基づき、みこころを求めながら、ふさわしい形で語りたいものです。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』12章27-36節



1.
「やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。
やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません」。
 いま、私たち−−あえて私たちと言いますが、まさに自分がどこに行くのかわからない、と言ってよいかもしれません。
店頭の商品棚からマスクが消えることはわかりますが、いまはトイレットペーパーが買い占められているそうです。
マスクに対しては外国人や転売屋のせいにできましたが、トイレットペーパーに関しては、誤った情報に流された庶民です。
学校は突然休校になりました。これが政治家の思いつきなのか、それとも熟慮に熟慮を重ねた英断なのかも判断できません。
この一、二週間が勝負と言われてはいますが、それが真実なのか、だれにも判断できないのです。

 この、とりわけ先の見えない世界のなかで、私たちは心が騒がずにはいられません。しかしそれでも勇気を失うことはありません。
なぜならば、イエス様もまた、私たちと同じように、心にざわめきを感じた、と書いてあるからです。誤解を恐れずに、こう言います。
キリストは、決して恐れを知らないスーパーマンではありません。普通の人間と同じように、恐れを経験されました。
しかし普通の人間と違っていたのは、その恐れに飲み込まれることはなかった、ということです。
イエス・キリストのことばを聞きましょう。「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。父よ。この時からわたしをお救いくださいと言おうか。
いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです」。

 もしイエス様が、恐れを一切知らない方であったとしたら、私たちとの接点はありません。
どんなに愛に満ち、優しいお方であったとしても、私たちの恐れに寄り添うことはおできにならなかったでしょう。
しかし私たちの信じている救い主は、恐れを経験されたのです。
そしてもっと大事なことは、神の働きのために恐れるとき、その恐れは決して長くは続かず、すぐに希望の確信へと変わるということです。
イエス様は、自分の目の前に現れてきた十字架の瞬間に対して、心騒がずにはいられませんでした。
十字架は、この世界が作られる前から父なる神とともにおられた神の子が、父なる神にのろわれた者として木にかけられることを意味します。
しかし、十字架は神のみこころにかなったことでした。
みこころにかなった道に進むとき、たとえそこに一瞬恐れが生まれても、私たちはイエス様のようにこう言えるのです。
「いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ」と。

2.
 私たちは、他人の目を恐れることがあります。他人の目を恐れる者は、その空しさに気づくまで、自分を隠し続けます。
また私たちは、命が取られることを恐れることがあります。やはり、その空しさに気づくまで、地上の取るに足りないもので自分を覆い続けます。
しかし神の働きに踏み出すことを恐れるとき、私たちは恐れ続けることはありません。恐れはすぐに取り除かれます。
なぜでしょうか。神の働きに踏み出すとき、私たちは天からの力強い声を聞くからです。
父なる神は、イエス様に天から力強く語りかけてくださいました。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう」。
神は、イエス様のそれまでの歩みが一点の欠けもなく、すべて神の栄光を現すものとなったことを保証されました。
そしてイエス様がこれから踏み出そうとしておられた十字架への道が、みこころのとおりであることを約束してくださいました。

 すべての営みを、神の働きのために踏み出すのです。
いま、この世はまさに「いのち」を求めています。いのちをさんざん軽んじてきた世の中が、これほどまでに生きることに執着しています。
そこに、私たちは「まことのいのち」を伝えていく、そのために今日があり、昨日があり、明日があります。
父なる神の声が天から聞こえたとき、イエス様は群衆にこう言われました。
「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなく、あなたがたのためにです。」もちろん、イエス様自身が、この天の御声を通して励まされました。
しかしそれよりもむしろ、あなたがたのためにこのことばがはっきりと語られたのだ、とイエス様は言われました。
なぜでしょうか。この天からのことばがどう聞こえるかによって、それぞれの人の行く先が決まるからです。
多くの人々が、雷が鳴ったのだと言いました。彼らは神の言葉を聞いても、それがただのゴロゴロという音にしか聞こえません。
ほかの者は「御使いがあの方に話したのだ」と言いました。彼らは神の言葉を聞いても、それが自分に語られた言葉だということがわかりません。
しかし、たとえわずかであったとしても、「栄光を現わそう」と聞き分けた人々が確かにいました。
彼らはやがて、最初の教会を建て上げる人々となりました。そして、ここにもいるはずです。
神の言葉を、自分自身に語られているものとして、心に刻みつけようと願う人々が。
それこそが、私たちの礼拝が、この世に証しできるものです。私たちはこの礼拝を、何よりも大事なものとして、ここに集まっています。
それは、私のいのちを生かすみことばが、私に向けて語られると信じ、期待しているからです。

3.
 イエス様は言われました。「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」。
イエス様が語られた、この「地上から上げられる」という言葉は、ここで初めて語られる言葉ではありません。
今までに何度もイエス様が語っておられたものです。そしてこのことばは、旧約聖書にあるひとつの物語を下地にしています。
モーセがイスラエル人の指導者であったはるか昔の頃です。
民が神様に対して不平不満を並べ立てたために、神は燃える蛇を彼らの中に送りこみ、多くの人々がさばきとして死にました。
しかしモーセが青銅の蛇をつくり、それを高く掲げたとき、その蛇を仰ぎ見る者は助かった、ということがありました。
イエス・キリストは、まさに蛇のように、人に憎まれ、神にのろわれた者として十字架につけられて殺されます。
しかし、キリストが十字架にかけられたのは、私の罪のさばきに身代わりなのだと信じる者は、永遠に生きるのです。
ここでイエス様が「わたしはすべての人を自分のところに引き寄せる」と言われている、「すべて」とは、文字通りのすべてではありません。
もはやユダヤ人であるとか外国人であるとかにかかわらず、イエス・キリストを信じる者はだれであれ、必ず救われるのだということです。
あなたは、神のことばが聞こえますか。
自分の幸せのためにキリストを求める者は多いけれど、キリストを喜ばせるために自分を捨てる者はわずかです。
しかしたとえごく少数であったとしても、神さまの働きのために一歩踏み出す者を、必ず神は祝福して、用いてくださいます。

 イエス様が語られた最後の言葉をかみしめて説教を閉じます。「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」。
光はもともと私たちの中にはありません。神の御子が光となり、私たちの心の中に入ってきてくださるのです。
そして光を拒むのではなく、光を信じるならば、私たちは生きるのです。この聖餐式は、私たちが光のこどもであることを証しするものです。
だから残念ながら、まだイエス・キリストを信じた証しである洗礼を受けていない方は受けることができません。
しかし、イエス・キリストを一日も早く信じることができるように、祈っています。
一日も早く光の子どもとして定められている自分自身に気づき、はっきりとイエスを信じますと告白する日を祈っています。
そしてクリスチャンが世に伝えることのできることは、たとえ今日この世界が終わるとしても、まだ光はある。
この光、イエスを信じるならば、永遠のいのちが与えられる、ということです。
これからの一ヶ月は、世界にとって、最も長い一ヶ月になるかもしれません。しかし私たちには希望があります。希望を語り続けていきましょう。

posted by 近 at 20:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/187242950

この記事へのトラックバック