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2020.3.15「いえす色に染められたい」(ヨハネ12:44-50)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
先週の礼拝から、ネット中継を始めています。トップに専用ページを作成しました。
以前もUstreamで試験的にやっていたことがあったのですが、その後同社がIBMに買収され、無料での利用ができなくなりました。
今回、Youtubeライブを使っています。字幕をつけられると良いのですが、ライブでは自動字幕は働かないようでした。
明日の礼拝は、午前10:30から。説教は、ヨハネ13:1-17から「分かち合うために下られた」です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』12章44-50節



1.
 むかし、永六輔という方が本に書いておられました。
どんなに問題のある夫婦でも、なんとか60歳くらいまでお互いに忍耐すると、感謝する関係に化けるのだそうです。
いや、うちはもうお互いに70歳になりますが感謝はないぞという声も聞こえます。
おそらくその方は、平均より10年くらい長く生きられるように神様が定めておられ、人より10年くらい遅れて、感謝がやってくる夫婦です。
夫婦は似てくると言いますが、どうせ似るなら、相手に感謝するという面で似ていきたいものです。
私たち夫婦も、感謝の関係になるにはもうちょっとかかりそうですが、似た者夫婦になりたいというのが私の希望です。
私の姿を見たら、妻に会ったことのない人でも、きっと近牧師の奥さんもこんな感じに違いない、とか、
妻の姿を通して、きっと夫である牧師は、これこれの人なのだろう、と思われるようになったら、嬉しいなあと思うのです。
 日本のキリスト教の歴史を語る上で決して外せない、本間俊平という人がいます。
明治6年に、現在の新潟市西蒲区に生まれ、18歳の時に信仰を持ちました。そして山口県の秋吉という採掘場に移り住みます。
そこで刑務所を出たばかりの人や、世間から見放された若者達と共同生活を送りながら、石工として、更生指導にあたりました。
あるとき、彼のところに相川某というもめごとばかり起こしている人が転がり込んできたそうです。しばらくして、彼が本間の家を突然訪れます。
共同生活者の中に、気に食わない人間がいて、彼を追い出してほしいと本間に頼むためでした。
しかし本間は採掘場に行っていために、相川は本間の奥さんに不満をぶつけました。
奥さんは彼に答えました。相川さんも、あの方も、私たちにとっては家族のようなものなんですよ。
しかしそれが気に食わなかった相川は、かっとなって奥さんの左腕を短刀でぐさりと刺してしまったのです。
ところが奥さんは相川の目を見つめながら、なんと「神は愛なり」という讃美歌を歌いはじめました。
たじろぐ相川を前にして、一節を歌い終わると、気を失って、ばたりとその場に倒れたのです。
知らせを受けた本間俊平が急いで自宅に戻ると、気を失った奥さんと、呆然としている相川が目に入りました。
そして夫である本間も、相川を責めたり、怒鳴りつけることなく、いつもと変わらない調子で悠々と言いました。
「おーい相川くん、君のやったことだから、すぐお医者さんのところに連れて行ってくれたまえ」。
この相川もやがてクリスチャンとなり、福祉事業のために人生を費やすようになったそうです。

2.
 私たち夫婦は、とてもじゃないけれどこんな似た者夫婦にはなれないまでも、遠い遠い目標にはしていきたいと思います。
本間夫妻を通して救われた人々は口を揃えてこう言ったそうです。
まさしくイエス・キリストがもしこの時代におられるのであれば、きっと先生と奥さんのような方であるにちがいない、と。
そしてイエス様も、ご自分を通して、あなたがたは父なる神と出会うのだと言われました。
わたしを信じる者は、わたしを通して、わたしを遣わした父なる神を信じるのだ、
わたしを見る者は、わたしを通して、わたしを遣わした父なる神を信じるのだ、と。
人々が、父なる神を知るためのともしびとしてイエス様は地上に来られました。罪をさばくためにではなく、罪から人々を救うために来られました。
 この聖書の箇所は、イエス様が群衆に語られた最後のメッセージです。
このあとイエス様は、12弟子やピラトのような、限られた人々には語りますが、大勢の人たちに向けて公に語られたのは、これが最後でした。
大声で、群衆に向けて語られたイエス様。しかしそれは、決して新しい教えではありません。
この福音書の中でもすでに登場している、人々が聞いてきたメッセージの繰り返しです。
わたしは今まで何度もあなたがたに語ってきたが、あなたがたは今日までそれを信じなかった。
だが、今日、この最後のことばは、どうかこれだけは、受け止めてほしい。信じて、永遠のいのちを受け取ってほしい。
そんな切なる願いをもって、喉が枯れはてるのではないかというくらいの大声で話されたに違いありません。
 もし今日、世界が終わるとしたら、私は牧師としてみなさんに何を語るでしょうか。
イエス様と同じです。私たちに永遠のいのちを与えるために、父なる神は、ひとり子イエス・キリストをこの地上に送ってくださったのだ、と。
イエス様は、もしあなたがたが神のことばを聞いてそれを守らなくても、わたしはさばかない、と言われました。
しかしあなたがたは、もし神のことばを聞いたならば、その責任を必ずいつか問われるのだ、とも言われました。
イエス様がこれを語られたのはユダヤ人の群衆です。聖書のことばを知らないということは、彼らユダヤ人にはあり得ません。
彼らはみことばに向き合って答える力と、その責任が与えられていました。だからこそイエス様は、群衆にこう言われました。
わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはさばかない、しかしわたしが話したそのことばが、終わりの日にあなたをさばく、と。

3.
 私たち、日本人はどうでしょうか。みことばを聞いたことがないならば、もしかしたらさばかれないかもしれません。
しかしキリスト教が伝えられて150年、この日本で人生のあいだに一回も、聖書のことばを聞いたことがない人たちがいるのでしょうか。
聖書は受け入れない人は多くても、いっさい聞いたことがない人というのはほとんどいないはずです。
そして地方の小さな町にも、だいたい教会があります。教会がない町にも、町境を越えて教会に通っているクリスチャンがいます。
神がそのようにしてくださっているのです。クリスチャン人口が1%だとか、そんな議論に、私は意味を感じません。
なぜなら、神が私たちクリスチャンという人間に求めているのは、人を救うことではなく、聖書のことばを伝えることだからです。
救うことは人の領域ではなく、神のみわざです。
聖書のことばを、救われた者たちが、救われていない者たちにひとりでも多く伝えていくときに、神のみわざが起こるのです。
ひとりの人にじっくりと時間をかけて関わっていくのももちろん伝道ですが、それが苦手な人は、もっと気楽に、たんぽぽ型の伝道でもよいのです。
たんぽぽの種が、どこに落ちるのかもわからず風にわーっと飛ばされていくように、みことばをとにかく多くの人に届けるというのも大切な伝道です。
放送伝道、トラクト配布、また最近ではブログやツイッターなどを使っても、福音を伝えることができます。
ここ数年、教会に新しく来てくださった方の多くが、ホームページやブログを通して豊栄教会を知ったとアンケートに書いています。
 話がどんどん膨らんでいきますが、忘れたくないのは、私たちしか、この豊栄に聖書のことばを伝えることのできる人々はいない、ということ。
そして一度ある人が豊栄の教会に来たならば、彼らはそこで見ています。
そこでクリスチャンが生きた目をしているか、死んだ目をしているか。喜びながらかみしめるように讃美歌を歌っているか、そうでないか。
説教を神のことばとして受け止めているか、人のことばとして差し引きながら聞いているか。
人々は、クリスチャンの姿を通してイエス・キリストを知るのです。そしてみことばは、救いに定められている者に働いてくださる、神の力です。
さあ、新しい一週間が始まりました。私たちは、自分の中にキリストが生きていることを証ししていきましょう。
このキリストが自分の生き様を通して世に出ていきたいと願われています。喜びを分かち合いながら、歩んでいきましょう。

 本間俊平夫妻の例話はp.204「神は愛なり」から引用しました。
posted by 近 at 16:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ
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