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2020.3.29「太陽がまだ昇らぬうちに」(ヨハネ13:18-30)

こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

「(豊栄)教会では、礼拝を自粛する予定はないのか」という質問を、教会内外からいただいております。
現在のところ、自粛(礼拝を行わない)の予定はありません。
「三密」が重複する可能性を極力抑えるのは当然ですが、礼拝は「不急不要の外出」とは異なります。
ただ、あくまでも礼拝は自発的なものですので、不安を感じる方には欠席やネット中継を利用することを勧めています。

また今後の状況(国家非常事態宣言の発動、新潟市が感染警告地域となる)いかんで変わるかもしれません。
教会では、今後とも手洗い、常時マスク着用、30分毎の換気、礼拝時間の短縮などを指導していきます。
なお明日の聖餐式は、衛生上の不安があるため、中止することとしました。

明日、役員会で以下のことを審議するつもりです。
・礼拝回数を増やすことによる、出席人数の分散。
3回の礼拝に加え、午後2時からの礼拝を追加し、各礼拝の出席人数が10名以下になるように調整する。
・祈祷会にて、zoom(ネット会議)を導入。
スマホやPCを所有している教会員にはそちらでの参加を検討してもらい、出席人数を少なくする。
・講壇を後ろ向きにして、司会者・説教者が、会衆と対面状態にならないようにする。

現在、第二礼拝出席者が子どもを合わせると約30名です。
約20坪の礼拝堂で「隣の人と触れ合わない距離」の確保は十分とは言えません。
ネット中継は、もともと説教をネット公開していたので比較的スムーズに導入できましたが、PCやスマホを持っていない教会員も多いです。
教会は今、「変えてはならないもの」と「変えなければならないもの」の峻別を迫られています。
願わくは、「両者を見分ける知恵」(R.ニーバー)が与えられますように。

週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』13章18-30節



1.
 今週の週報の表紙には、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を選びました。

leonard.png

ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』は、あえて、ですが、あえて椅子とテーブルという彼の時代の食事のやり方で描いています。
しかし二千年前のユダヤでは、そもそも座って食事はしません。彼らは大勢で食事をするとき、左側を下にして横たわりながら並びます。
たとえは悪いですが、上から見ると、スーパーで売っている、パックの中のししゃものような感じです。
ししゃもと違うのは、全部がパックの中に同じく並べられるのではなく、少しずつずらして並べられていくというところです。
つまり、左を下にして横向きになり、自分の頭の前は隣の人の背中、その人の頭の前は次の人の背中、という並び方です。
23節に「イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた」とありますが、実際にはイエスの後ろに横になっていたということです。
ではヨハネがイエスの後ろにいたとすれば、ユダはどこにいたのか。横になりながらパン切れを渡すことができるのは、前にいる人だけです。
そして、主人の前、つまり左側の席は、最も栄誉ある位置であり、最も親しい友人のための席でした。そこに、ユダがいたのです。

 今でも、中近東の世界ではそうですが、客人の席順は、その家の主人が決めます。ユダがそこに座ったのは、イエスの配慮でした。
パン切れを浸して手渡すという行為も、最上のもてなしを表す行為です。これらのことが意味していることは何でしょうか。
イエスさまは、ユダが裏切る者であることを知りながら、他の弟子に悟らせることのない形で、彼の悔い改めを期待しておられたのです。
この食事が始まる前には、イエスは弟子たちひとり一人の足を洗いました。その中には、このイスカリオテのユダも含まれていました。
イエスは、ありとあらゆる方法を通して、ユダの氷のようにかたくなになった心を溶かそうとされました。
あらゆる機会を用いて、最後の最後まであきらめず、ユダに悔い改めの機会を与えておられたのです。

 ダ・ヴィンチの描いた絵の中で、ユダは小さな袋を握りしめています。これは裏切りの見返りである銀貨をほのめかしていると言われます。
そしてその隣にいる、ペテロと思われる人物の手には、晩餐の席にはおよそ似つかわしくない、鋭い短剣が握りしめられています。
もし裏切り者の名前を耳にしたら、同じ弟子仲閧ナも即刻その者を突き刺すだろう、ペテロの激しい性格が描かれています。
しかしイエスは、ユダという名前を決して出しませんでした。ユダはイエスをあきらめても、イエスはユダをあきらめません。
イエスは、このあと祭司長や群衆を引き連れてきたユダと対面したときも、「友よ」と呼びかけられました。
十字架の上で、「父よ、彼らを赦し給え、彼らは何をしているのか自分でもわからないのです」と祈った対象には、このユダも含まれていました。

2.
 イエスのたび重なる愛のメッセージは、ユダには届かなかったのでしょうか。届かなかったのです。
30節には、ユダがこの愛餐の場を去っていった時の様子がたった一言、こう記されています。「すでに夜であった」と。
ユダの心は暗闇に閉ざされ、イエスのおられる光に背を向けました。そしてユダは、さらなる闇に向かって駆けだしていったのです。

 太陽の光は、どんなに凍てつく氷も溶かします。しかし太陽の光は、どんなにやわらかな粘土も乾燥させ、かたくなにもします。
神のみことばもそうです。どんなに罪意識に苛まされた者であったとしても、みことばを心に受け止めるとき、その人の心は必ず溶かされます。
しかし神のみことばを何度も聞いてきたにもかかわらず、自分から心と生活を変えようとしなければ、柔らかだった心もかたくなになってしまいます。
みことばを聞くたびに、神は救いの機会を無限に与えてくださっているとたやすく考えてはなりません。
聖書の中には、エジプト王が神様から再三みことばを聞かされながら悔い改めなかったために、滅びを招いたことが記されています。
またイスラエルの最初の王であったサウルも、何度も表向きは悔い改めても、本心は変えなかったために、彼も子どもたちも命を落としました。
みことばは恐ろしいのです。どんなに聞いても、自分に語られていると考えず、ぬるま湯のような状態に甘んじるなら、届くものも届かなくなります。
そのなかに、このイスカリオテのユダも入ります。さらに現代も、多くのユダが闇の中を走り続けています。その先にあるのは永遠の滅びです。
「すでに夜であった」ということばは、彼の心が、闇の支配者であるサタンに支配されていたことをほのめかしています。
イエスは、夜に包まれたユダをよく知っていたからこそ、彼を12弟子の一人に選び、直接、みことばを語り続けてきました。
そして言われました。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」。

 聖書のみことばが実現するために歩んでおられたイエスは、ご自分が裏切られ、売り渡されなければならないことを知っておられました。
ご自分が、信頼する友に裏切られるという痛みを通らなければ十字架にはたどり着けない、ということ。
さらに十字架の上では、最もイエスが愛し、そのみこころに従ってきた父なる神からのろわれた者とされる、ということも。
だからといって、ユダが裏切る者のままで終わることを決して望んではいませんでした。彼を最後の最後まで愛し尽くしました。
ユダが暗やみから光に戻ってくることを願っておられました。滅びの子として飛び込もうとしている崖から身を翻すことを願っておられました。
夜はまだ明けていない。完全に心を堅くしてしまう日の光が刺す前に、ご自分のところへユダが戻ってくることを願っておられました。
その祈りは、いまも闇をさまよう、あらゆる人々へと向けられています。そのあわれみゆえに、私たち自身も救われたのです。

3.
 人生に決断は欠かせません。一つの決断によって選んだルートの先に、その決断によって導かれた、また新しい決断があります。
もし、あのとき別の決断をしていたら、そのルートの先にはまた別のまったく違った決断があっただろう。
そんなことを考えていると、私たちが現在このように生きていることは、どんな人であっても、神が導いてくださるからこそ今がある、と言えます。
人生の岐路を通るたびに、神は私たちが、意思と信仰を働かせて決断し、その先へと進んでいく機会を用意してくださっています。
しかしじつのところ、ほとんどの決断は、たとえ間違えても、たいした違いはありません。
ところが人生の中で本当に必要な決断、換えのきかない、決断というのが、たったひとつだけあります。
それは、イエス・キリストをただひとりの救い主として信じるかどうかです。これを間違えたら取り返しがつきません。

 私は今までの人生の中で、自分の病んだ左足を切断するか残すか、わずか15歳のときにその決断を迫られたことがありました。
公務員の仕事をやめて神学校に行くときも、決断が必要でした。牧師として働いてきた18年間の中でも、決断の連続でした。
しかし足を切断してもしなくても、永遠のいのちには影響ありません。職業のこと、生涯の伴侶のこと、あれやこれや、それも同様です。
しかし今から30年前、18歳のときに、私はイエス・キリストを信じることを決断しました。あまりよく考えないで決断したことは認めます。
しかしそれは私が永遠のいのちを受け取るかどうかを決める、この世で唯一、決して間違えてはならない決断の時でした。
その後の人生、いろいろなことがありましたが、付属品のようなものです。自分のしてきたことが成功とか失敗とか、些細なことです。
しかしイエスを信じて、永遠のいのちを得るかどうかの決断は、いまも私を生かし、そして永遠に至るまで生かし続けるのです。

 私が経験した以上のことが、今日、もしイエスを信じる決断をするならば、必ず起こります。そのために決断の機会を逸してはいけません。
決断を先延ばししていけば、やがて魂も眠りこけてしまい、生きていても死んだように魂が動かない時が来るのです。
しかし今日まだ私たちは、みことばに対してどのように生きるのか決断する時が与えられています。
イエス・キリストのことばが届かなかったユダと同じ道を歩むことがないように。
イエス・キリストが救い主ではなく、さばき主として来られる、再臨の時が来る前に、イエス・キリストを信じる決断をいたしましょう。

posted by 近 at 16:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ
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