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2020.4.5「イエスの絶望こそ我らの希望」(ヨハネ19:17-30)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲弊をおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 朝日新聞社のホームページに「新型コロナウイルス感染者数の推移」があります。
スライダーを操作すると全国の感染者数を時系列ごとに見ることができる、なかなか凝った作りになっています。
それによると、新潟県で最初に感染者が発見されたのは2/29(土)でした。同じ日に宮城県でも感染者が起こりました。
そして新潟県内で、日曜日から始まる各週ごとに見ていくと以下のようになります。
3月第1週(3/1〜7)  1人→5人
同 第2週(3/8〜14)  6人→14人  
同 第3週(3/15〜21) 14人→17人
同 第4週(3/22〜28) 22人→24人
同 第5週(3/29〜4/4) 31人→32人
4月第1週(4/5〜11) 32人→41人
3月22日(日)と29日(日)に、一気に+5人、+7人と増えています。

 私の説教録画を確認すると、3/1(日)から毎週マスクを着用し始め、現在に至っております。
3/1時点では新潟の感染者は1名でしたので、意外と早かったなという印象です。
「意外と」というのは「私にしては」であって、他の教会はもっと早くから対応していたことでしょう。
とはいえ、専門家による以下の言葉には注意を払っておく必要があるかと思います。
マスクをしていても、近い距離での濃厚接触なら感染します。
マスクをしていれば安心ということでもないんです。
だから、誰からも感染しないように、距離をとるソーシャルディスタンスが必要なんです。
先週のブログで報告したとおり、礼拝出席者を分散するために教会員にアンケートをとりましたが、難しそうです。
ほとんどの方が第二礼拝(通常礼拝)を希望しています。当然かもしれませんが。
しかし新潟でも感染者が増加していけば、全面的に休会するという事態も覚悟せねばなりません。

 じつはいま、講壇からマスク越しの飛沫感染を防ぐための秘密兵器を発注中です。
ところが業者もテレワークに入っており、到着まで2週間かかるとのこと。それをお披露目する前に全面休会になるかもしれませんが。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』19章17-30節



1.
 イエス・キリストの十字架は、いつの時代においても、人間の罪の深さをあぶり出します。
ローマ総督ピラトは、イエスの罪状書きに、「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と記しました。
ユダヤ人の祭司長たちが「王ではなく、王を自称した」と書き直してくれ、とクレームを出しても、ピラトはそれを頑として変えようとしませんでした。
彼はユダヤ人の圧力に屈して、罪のないイエス・キリストを罪人として扱いました。
彼が心を頑なにしたのは正義感ではなく、ローマ総督である自分が、ユダヤ人の脅迫などに屈してしまったとプライドが許さなかったのでしょう。
ある説教者は、こう語っています。「ピラトはどうでもよい問題についてあまりにも頑固、しかし最も重大な問題についてあまりにも薄弱」。
しかしそれはピラトだけではなく、あらゆる人間に共通していることです。
地上のいのちを長らえさせることについては関心があっても、永遠のいのちを選び取ることについてはあまりにも無関心です。

 神がこのピラトを通して、イエスの罪状書きを「ヘブル語、ラテン語、ギリシャ語」によって十字架の上に掲げさせたことは大きな意味があります。
この三つの言語は、世界じゅうのあらゆる人々を象徴しています。
あらゆる人々が、この十字架にかけられるにふさわしい罪人であり、あらゆる人々が、イエスを信じるならば例外なく救われるのです。
ラテン語は、ピラトやローマ兵士たちが用いていた言葉でした。ギリシャ語は、世界じゅうに散っていたユダヤ人たちが使っていた言葉でした。
ヘブル語は、言うまでもなく、この祭司長をはじめとするユダヤ人のための言葉でした。それは十字架の前の女性たちにも読めました。
神は、この罪状書きを通して、あらゆる民族、あらゆる人間たちのために、この十字架が用意されていることを示しておられます。
 
 イエスは、私たちの代わりに、この十字架の上で、神に見捨てられるという完全な絶望を経験しました。
イエスが見捨てられたからこそ、私たちは見捨てられなかったのです。イエスが罪を背負って死んだからこそ、私たちは罪から解放されるのです。
ローマの兵士たちがくじにかけた、「上から全部一つに織った、縫い目なしの下着」とは、大祭司が着用すべき装束を模したものです。
イエスは私たちの罪を完全に贖ってくださるいけにえであり、神と罪人のあいだをとりなすことのできる、唯一の大祭司です。
ピラトもそれを知らず、ローマ兵たちもそれを知りません。道行く者はイエスに唾をはき、祭司長たちはイエスを偽キリストと嘲りました。
しかし、このイエスを信じる者たちは、決して神に見捨てられることがありません。己の罪の中に滅び去ることがありません。

2.
 毎月、この第一週の主日礼拝では聖餐式を行ってきましたが、衛生上の危険を考慮して、中止といたしました。
では来月の第一週には聖餐式を迎えることができるだろうかと聞かれたら、まったくわからない、と答えるしかありません。
いま世界は、説得も譲歩も通じない、新型コロナウイルスという見えない敵との、まさしく出口の見えない戦いの中でもがいています。
同時に今日は、イエスさまの十字架の苦しみをおぼえる受難週です。そして来週はその復活をお祝いするイースターです。
不信仰という責めを恐れずに告白するなら、こんな暗い思いで受難週を迎えることは自分の信仰生活の中であっただろうか、と思います。
受難週のたびに、この一週間はキリストの苦しみをおぼえる時ですよ、と言ってきました。
しかし私たちは、その翌週にはイースター、復活があることを知っています。だからキリストの苦しみをおぼえよ、と言ってもどこか光があった。
しかし今、現実そのものの中に光を見いだせません。来週が今週よりもよくなっている、という希望が見つかりません。

 だからこそ、いま私たちは強く問われています。私にとって、あなたにとって、キリストの苦しみとは、何であるのか、と。
イエス・キリストが、私たちの罪をすべて引き受けて、父なる神からのろわれた者となったことが、いまほど迫ってくるときはありません。
それはまさに絶望。「どうせ三日後にはよみがえるんだから、一時的にのろわれるにすぎない」、そんな中途半端な思いではなかったのです。
イエス様は、ご自分が父と共に過ごされてきた永遠と同じくらい、十字架で、まるで永遠に続くかと思われるほどの苦しみを味わいました。
終わりの見えない苦しみのなかで、父なる神にのろわれた者となったキリストを支えていたものはなんでしょうか。
この十字架を通らなければ、この世界に救いは生まれない。永遠に続くかと思われるこの十字架の先に、神の栄光が表されるのだ、と。
この受難週にして、世界がどんどん悪くなっていくという暗さを感じざるを得ない時代において、今だからこそ私たちの心は十字架に届きます。
イエスの十字架の苦しみを見つめます。そしてもし私の苦しみも、神の栄光のためであれば、受けとめます。受け止めさせてください、と。
イエスが十字架で絶命される直前、世界は暗やみに包まれました。いまもこの世界は暗やみに覆われているようです。
しかしその闇は、私たちを罪から贖い出すために欠けてはならないものでした。イエス様は闇の中でこそ、神から栄光をお受けになりました。
ならば、この世界を取り巻く闇の中で、私たちが苦しみ抜くことを通して、神様に栄光をお返しすることができるはずです。
キリストは救いを成し遂げるために、一度、父なる神から完全に見捨てられる必要がありました。
神が私たちを見捨てたと思わざるを得ないような苦しみの中でこそ、必ず救いへの希望があることを忘れずに、歩んでまいりましょう。

posted by 近 at 21:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ
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