外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。
緊急事態宣言がすべての都道府県にも適用されることになりました。
とはいえ東京都や大阪府が定めた一覧表では、神社・寺院・教会は、その規模にかかわらず、休業対象外となっています。
東京都の対象施設一覧表
大阪府の対象施設一覧表
しかしこの一覧表、「バーは×だが居酒屋は○」「古本屋は×だが書店は○」と基準のナゾさ加減が目立ちます。
教会としては、各集会の人数を制限するなどして、何とか集会を自粛せずに済むようにと願っていましたが、
いよいよテレワークならぬ「テレワーシップ」に完全移行するかどうかの判断を迫られています。
明日、臨時役員会を開いて、今後の対応を決定します。
先日、教会員にアンケートをとり、PC・スマホ所有率を調べました。意外と持っている方が多かったので、テレワーシップ、いけそうです。
ところで、先週お知らせした、飛沫防止の秘密兵器(?)ですが、明日の礼拝でお披露目する予定です。
さすが神に選ばれし業者の方(と運送屋さん)。特注品なので納期が二週間かかると言いつつ、5日で届きました。
今まではマスクしながらやや声を抑えていましたが、おほほほほ、これでフルパワーですよ(フ○ーザ様ふうに)。
もっとも、完全テレワーシップ化したら不要になってしまうのですが。秘密兵器なんて、だいたいそんなもんです。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』20章1-18節
1.
何年か前から礼拝説教を録画して毎週インターネットで公開しています。
その中で、直接会ったことはないのですが、毎回説教を見ていますという方がおられまして、
最近、「近牧師にそっくりな鳥がいますよ」と、今日の週報の表紙に挙げたハシビロコウという鳥を教えてくださいました。


どこが似てるかと聞いたら、寝癖がかった頭、説教中の鋭い目つき、さらに最近ではこの嘴のようにばかでかいマスク。似ていますか。
このハシビロコウ、世界でも5千羽くらいしか生息しておらず、絶滅危惧種だそうです。私も世界に一匹しかいませんので、大切にしてください。
日本ではいくつかの動物園で13羽飼育されていて、上野動物園では5羽いるそうです。ところが仲閧ニは一切打ち解けないのだということ。
その5羽がたまたま仲が悪いのではなく、習性として単独行動を好むのだそうです。確かにこの写真でも、微妙な距離で二羽写っています。
今日はイエス・キリストがよみがえったイースターです。教会学校でも、同じ聖書の箇所からお話しをさせていただきました。
ペテロとヨハネの二人が途中出てきますが、全体の主役はマグダラのマリヤという女性が描かれています。
しかし、クリスチャンの方はいままでも別の福音書で復活の記事を読まれたことがあると思いますが、違和感をおぼえないでしょうか。
なぜなら、なぜかこのヨハネ福音書だけ、マグダラのマリヤが、かのハシビロコウのように、単独行動しているかのように描かれているからです。
マタイ、マルコ、ルカ、それぞれの福音書で、復活の朝、女性「たち」が連れ立って墓に向かい、そこで空っぽの墓を見て驚いた、とあります。
ところがこのヨハネ福音書に限って、マグダラのマリヤしか出てこない。しかし、もう少し注意して読むと、マリヤはなんとこう言っています。
「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」。
「私たち」とはマリヤと他の女性を合わせて、「私たち」であることは言うまでもありません。
マリヤは一人で墓に行ったのではないのです。他の福音書に書いてあるとおりに、やはり他の女性たちと連れ立って出かけました。
ではなぜ、ヨハネはまるでマリヤが一人であるかのように記しているのでしょうか。ここに、復活に向き合う人に共通する事柄があります。
それは、復活を信じるというのは、誰かが信じているから私も信じる、ではなくて、神と私という一対一の関係の上に成り立つということです。
イエスは復活を通して、こう語りかけています。あなたはわたしを誰だと言いますか。罪からの救い主、よみがえられた救い主、
しかしあえて問おう、あなたにとって、わたしは何者なのか。あなたの罪からの救い主、あなたのためによみがえった救い主であるのか、と。
2.
信仰とは、車の両輪のような部分がその中にいくつかあります。たとえば、祈りとみことば。教理と実践。そして、「私」と「私たち」もそうです。
私たちは、と今まさに私も口にしていますが、信仰を語るときに、「私たち」という複数の視点で語ります。
それは、もちろん救われて兄弟姉妹とされたから、私たちというのは当然、そして求道者の方も含めて、私たち、とも言います。
ところがこの「私たち」という言葉になれてしまうと、イエス・キリストは私にとってどういう方なのか、救いは私にとって何なのか、がぼやけてしまう。
300年前の人ですが、ジョン・ウェスレーという、キリスト教の歴史を語る上で外すことのできない、偉大な牧師がおりました。
彼が青年時代のことです。アメリカ・インディアンに福音を伝えるという大志を抱いて、彼はアメリカ大陸に向かう客船に乗り込みました。
船の中で彼は、ひとりの信徒伝道者と知り合いました。ウェスレーは、インディアンたちがどれだけ福音を必要としているのかを熱心に語りました。
その伝道者は、ウェスレーに対し、質問しました。「あなたはイエス・キリストのことを人々にどう語るおつもりですか」。
そしてウェスレーの答えを聞いたあと、こう言いました。
「私は先ほどあなたにイエスはどなたかと尋ねた。
そのときにあなたはよみがえられた神の子、世の救い主、やがて来られるさばき主とそつなく答えてくださった。
しかし私が聞きたかったのはそれではない。あなたにとって、イエスはどなたなのかということだ」。
ウェスレーはその言葉の意味がわからなかったそうです。しかし彼はアメリカで数年間伝道したが、一人も救われることはありませんでした。
失意のなか、彼はイギリスへ戻り、あの信徒伝道者の言葉をかみしめながら日々を過ごしました。
彼は後に聖霊の満たしを経験して、神に用いられる人となりますが、それは「あなたにとってキリストは誰か」ということが大きく関わっています。
私にとって、イエスはどなたなのか。この一対一の関係がそれぞれの信者の中で確立してこそ、「私たち」という信仰が意味をなします。
常に何かを始めるときにも「私たち」、何かを決めるときにも「私たち」、人の顔色を見たり、前例があるかどうか調べて「私たち」。
それは神との一対一の関係が錆びついているのを覆い隠すための「私たち」です。一人ひとりが自らに次のように問いかけるべきでしょう。
いま最も福音を必要としているのは、ほかの誰かではなくて私自身なのだ、人に伝える前にまず私がみことばに生かされているのか、と。
マグダラのマリヤは、イエスに対する愛に溢れていました。しかし彼女は、イエスの亡骸は求めても、みことばを心にとどめることに無頓着でした。
マリヤの行動や態度は、私たちの心を打つことは確かです。まるで子を失った母のごとく、マリヤは必死にイエスの亡骸を取り返そうとします。
しかしイエスは何度も語っておられたではありませんか。わたしは人々に引き渡され、十字架で殺され、必ず三日目によみがえる、と。
3.
「私たち」ということばは注意しないと、みことばが自分の心に響いていないのに、集団に所属していることで安心してしまう危険があります。
女性たちが連れ立って墓に向かう姿を、多くの福音書では描いています。
しかし共通しているのは、彼女たちは、イエスが語られた復活についてすっかり忘れてしまっていたということ、だから動転し、恐怖に襲われます。
しかしヨハネは、あえてその中でマグダラのマリヤという個人にクローズアップすることで、「私」の中にみことばがどうよみがえるかを語っています。
ペテロとヨハネが目撃した、残された亜麻布の奇跡そのものが、マリヤの心を変えたのではありません。
ふたりの御使いが墓の中に現れても、彼女の心は目覚めません。しかしイエス・キリストからの呼びかけを聞いたとき、彼女は目が開かれました。
「マリヤ」。
たった一言のことばが、まるで迷った羊が、羊飼いの呼びかけを聞いて悟るかのように、一瞬で彼女の中にすべてが目覚めました。
「ラボニ」。
この言葉は、律法の教師を指す「ラビ」という言葉の最上級、教師の中の教師という意味です。
このイエスが語ってくださった教えの数々が、いますべて繋がりながら、マリヤの中にみことばがよみがえります。
神は、私たち一人ひとりの名前を呼んでくださいます。神様は私たちを「その他大勢のひとり(ワン・オブ・ゼム)」として見てはおられません。
一人ひとりと向き合いながら、私たちのたましいを心配してくださるお方です。その一対一の関係が繋がって、教会というひとつの群れになります。
自分にとって、イエスはどのような方なのか。キリストが身代わりになってくださった罪とは、だれの罪か。
もし世の中にクリスチャンが私一人になってしまったとき、それでも私は信仰を貫いていける、神との一対一の関係を築いているだろうか。
地域によっては、礼拝を含めたすべての諸活動を中止している教会もあります。この新潟でも、いつそうなるかわかりません。
だからこそ、あえてマグダラのマリヤというひとりの信仰者の中に、神が直接与えてくださった恵みを私たちはかみしめていきましょう。
あらゆる教会行事がストップしてしまうなかで、私にとって、救いとは何か、私にとって福音とは何か、私にとってイエスのよみがえりとは何か。
他人任せであった教会運営、牧師任せであった聖書理解から、多くのクリスチャンが脱皮する時なのかもしれません。
教会にとってかつてないピンチは、かつてないチャンスになる可能性を秘めています。自ら考え、自ら立ち上がる信仰が与えられるように。