外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。
先日の臨時役員会での議を経て、5/10(日)まで礼拝を除くすべての集会の自粛(中止)を決定しました。
礼拝に関しても、第一礼拝(8:00)と夕拝(19:30)をやめ、午前10:30〜12:00までのオンライン礼拝に完全移行となります。
とはいえ、約30名の教会員みながすぐに「ではネットで見ます」と対応できるわけではありません。
説教も含め、次の週の礼拝プログラムをあらかじめCDに録音し、週報とともに主日までに郵送する、ということも必要です。
初めてのことだったので、事務プロセスの整理もかねて、ここに一週間の流れを記しておきます。
1.月曜日と火曜日の二日間を使って、説教と週報(礼拝プログラム)の作成。
2.水曜日の午前、妻が奏楽、私が司会で、日曜日の礼拝と同じものを録画・録音する。60分のCDに礼拝の全プログラムを収録するために、説教は絶対、脱線しないこと。これがいちばん大変でした。
3.水曜日の午後、録音した礼拝CDを15枚ほどコピー。こういう時ほどパソコンが言うこときかなくなるので注意。週報など印刷物と一緒に発送準備をする。
4.木曜日の午前、上記のものを郵便局で発送。必ず土曜日までに届くように、郵便局のおじさんに確認。午後、ちょっと一息つける。
5.金曜日は翌々週の礼拝説教のための準備。今までより準備が一週間早い。一年分の説教をすべて用意していると噂される泉○昭先生の苦労にはいまだ遠し。
6.土曜日、起きると「あれ、今日って日曜日?」と勘違いするほど、曜日感覚に慣れていない。雑務や面談(長時間はNG)をこなしながら、明日の礼拝のために祈る。
さて、明日は10:00頃に、準備も含めてネット中継を始めますが、水曜日に録画しておいた礼拝も同じ時間帯にアップロードします。
万一、中継の方が遅延がひどかったりする場合、そちらを使って礼拝してください。
水曜日の事前録画もそうですが、明日のリアル礼拝でも、マスクをいたしません。
なぜなら、講壇に「飛沫バリヤー・TOYOSAKAスペシャル(仮称)」を設置しているからです。
じつは先週の礼拝から設置していたのですが、だれも興味を示しません。
質問されないのに自分から言うのもアレなので、こちらも黙っていました。だって秘密兵器ですもの。

幅44cm、高さ66cm、厚さ0.2cmの透明アクリル板です。講壇の高さが113cmなので、身長170cm(寝ぐせ含む)の私でも十分。
知る人ぞ知るアクリ屋さんに特注(セミオーダー)しました。注文する前にイメージが3D画像で出たり、ここはオススメです。
講壇に釘を打ちたくないので、L字型の出っ張りの部分に、鉄製のスタンドを重し代わりとして固定しています。
本当はL字型ではなくてコの字型にして、横方向もガードしたかったのですが、予算および講壇の形状の都合で、こうなりました。
気分はまさにホワイトハウス前で演説する、オバマ・バラク前アメリカ大統領。弾丸や座布団が飛んできても平気です。
妻からは、むしろ刑務所で「おい○○番、面会だぞ。30分までな」と呼ばれた人と言われましたが。ちぇっ
おっと秘密兵器なのにペラペラしゃべってしまった。
そんなわけで、明日はネット越しに面会をお待ちしております。1時間までな
週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』20章24-29節
1.
「私はその手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」。
この言葉のおかげで、トマスは二千年の間、疑い深い人の代名詞になってしまいました。
疑い深いだけでなく、グロテスクです。「指を釘のところに差し入れ」るなどとは。
しかし目を閉じて、トマスの心を思い浮かべてみましょう。そこに見えてくるのは、疑い深い弟子の代名詞トマスではありません。
弟子たちの中でいちばん主を見捨てたという罪悪感に苦しみ、イエスの体に打ち込まれた傷跡を間近に見ているトマスの姿です。
彼の言葉は、どうしてそこまで、と言われるほどに激しさに満ちています。
しかしそれは不信仰だから激しいのではなく、自分自身を責め立てているがゆえの激しさです。
手の穴に指を差し入れ、脇腹の穴に手を差し込む。その言葉が伝えているのは、そのような傷を与えたのは私なのだ、というトマスの叫びです。
この箇所を読むとき、トマスは十字架にかけられたイエス様の姿を見ていない、ということを忘れるべきではありません。
トマスだけでなく、ほとんどの弟子がイエス様の十字架を見ていません。彼らは蜘蛛の子を散らすように逃げ出してしまったのです。
しかし一度イエスの弟子にされた者は、その恵み、醍醐味を忘れられるものではありません。
逃げ出した一人ひとりは、磁石がばらばらにされてもすぐに引きつけあうように、十字架から三日目、週の初めの日には再び集まっていました。
それは、私たちが主日礼拝をこのようにささげる姿に通じるものがあります。
しかしそこに、トマスだけがいませんでした。なぜ彼だけがそこにいなかったのでしょうか。
私は次のように想像するのです。彼ほど、自分がイエスを見捨てたという罪の意識に苛まされていた者はいなかったのではないか。
仲閧ゥら離れて、ひとりでどこかにたたずんでいたのではないか、と。
なぜならば、十字架を見たわけでもないのに、イエスの傷跡に対する彼の言葉はあまりにも生々しい表現となっているからです。
それは、トマスが最も深く、己の罪を見つめていたからではないでしょうか。
イエスを十字架につけたのは私だ。イエスの脇腹に槍を刺したのは私だ。私は主を見捨ててしまった。もう弟子と名乗る資格などないのだ。
彼のかたくなな態度は、自分を許すことのできないかたくなさ。彼のグロテスクな表現は、自分の罪のおぞましさを知るがゆえ。
自分を許せないほど、自らのおぞましい罪を知る者だからこそ、彼は誰よりも復活のイエスをその目で見ることを求めていました。
2.
毎朝、健康のためにジョギングを日課としていた牧師がいました。彼は公園でいつも出会う、一人の老人と親しくなりました。
やがてベンチに座って聖書のお話しをするようになり、あるとき、「おじいさん、あなたもイエス様を信じてみませんか」と勧めたことがありました。
すると、その老人はニッコリと微笑んでこう答えたそうです。
「ええ、信じてもいいですよ。私は信仰とつくものならば、どんな宗教でもすばらしいと思っていますから」。
この方も後にはまことの神を信じて洗礼を受けたそうですが、まさに典型的な日本人の宗教観を表していると言えます。
一見、不信仰とも思えるトマスの姿は、このかつての老人の姿と照らし合わせてみると、まったく違った見方になります。
信仰とつけばよいものと考え簡単に受け入れる人と、まことに信じるに足るものに出会うまでは、どんな批判を受けようとも疑い続ける人。
どちらが神の前に正しいかと問われれば、間違いなくそれは後者であると言えます。
信仰は、私たち罪人が永遠のいのちを受けるか、それとも永遠の地獄の炎に焼かれ続けるのかを決定します。
何でも良いわけがありません。本物を手に入れなければ、たとえどれだけのニセモノを多く手に入れたところで意味がないのです。
「信仰とつくものだったら何でも好き」。確かにそのように考えている人は多いでしょう。
しかし少なくともトマスにとっては、本物のイエスに出会うことだけが、彼の苦しみを解き放つことのできる唯一の答えでした。
主に出会い、主をこの目で見、主の傷跡に指を差し入れなければ、私はこの生き地獄のような罪悪感の洪水から解放されないのだ、と。
その意味で、トマスは疑り深い人間ではなく、真剣に救いを求める人間の代名詞です。
そして真剣に神に近づこうとするならば、必ず神も真剣に答えてくださいます。
3.
イエスさまはその次の週のはじめの日、再びトマスの前に、トマスのために、現れてくださいました。
「あなたの指をここにつけてわたしの手を見なさい。手を伸ばしてわたしのわきに差し入れなさい。
信じない者にならないで信じる者になりなさい」。
トマスは懐かしいその声を聞いたとき、心の中に何かが溢れました。「私の主。私の神」と答えるのがやっとでした。
しかし後の時代に生きる、見ずに信じる者たちはもっと幸いなのだとイエス様は語っておられます。それは私たちのことです。
トマスについて聖書はこれ以上語っていませんが、エルサレムから東に向かって宣教活動を行い、南インドにまで至った、と言われています。
そして面白いことに、インドでのトマスの活動が伝説化し、インド出身で禅宗の開祖となった達磨大師となったという伝説が残ります。
それは眉唾の域を出ませんが、達磨大師と言えば、「ダルマさん転んだ」や「七転び八起き」のように、何度でも立ち上がるダルマのモデルです。
たとえ信憑性は薄くても、不信仰というイメージのトマスと、決してあきらめないダルマを結びつける伝説が残っていること自体、愉快なことです。
内村鑑三という明治時代に生きたクリスチャンが、トマスでもダルマでもなく、新潟県人についてですが、こう語っています。
「新潟県人はとかく頑固で、福音を信じようとしない。しかしその頑固さゆえに、ひとたび信じたならば決して捨てようとはしない」。
こちらの方言で「いちがいこき」と呼びますが、「一概」の一とは、ただひとつ、信じるに足るものを指しているのではないでしょうか。
説教を閉じるにあたり、あえて「疑え」という言葉を残したいと思います。本物を手に入れるまでは疑いなさい。
信じたあとも、念仏のように教理を唱えるだけの薄っぺらい信仰ではなく、自分の中に信仰が息づいているか、疑いなさい。
私たち自身が真実なのではなく、私たちの中におられるイエス様が真実なのですから。
この新潟でも、教会に集まって礼拝できなくなる時が近づいています。
私たちの信仰が、口先だけではなく家庭での生き方に直結しているかが試されようとしています。
どうか一人ひとりの信仰が守られて、イエス・キリストとそのみことばにしっかりと結びついていけるように。