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2020.5.3「裸で飛び込め」(ヨハネ21:1-8)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 心理学者の碓井真史先生はYahoo!ニュースのオーサーコメントに積極的に投稿されています。
最近の投稿に、「ウイルスの次にやってくるもの:日本赤十字社からの大切なメッセージ」というものがありました。
碓井先生の文章についてはリンク先で読んで頂くとして、この日赤のアニメーション動画は、伝道説教にも似たものを感じるほどの作品です。

動画のタイトルからは、コロナ収束後のことを連想するかもしれませんが、
すでに私たちの中に忍び寄っている「恐怖に支配された状況」がテーマです。
「まったき愛は恐れを締め出します」というヨハネ書簡の一節を思い出しました。
人を見るとマスクをしているかしていないかにすぐに目が行ってしまい、後者であれば批判や攻撃を始める風潮があります。
教会の自粛期間も、5/31(日)まで延長することになりました。
せめてペンテコステ礼拝は、みなで集まって記念したいと思っていましたが、ちょうど自粛期間の最終日になってしまいました。
集まることはできませんが、自宅で祈りに専心する、この期間を有効に用いていきたいと思います。
週報はこちらです。

聖書箇所 『ヨハネの福音書』21章1-8節


1.
 クリスチャンの間で親しまれている、「Footprints」という賛美があります。
「主と私で歩いてきたこの道 足跡は二人分 でもいつのまにか一人分だけ消えてなくなっていた」
主とはイエスさま。救われてからいつもイエス様といっしょに歩んできたはずなのに、振り返ってみると、わたし一人の足跡しかない。
主はいつから離れ、そしてどこへ行ってしまったのか。いや、そもそも一緒に歩んできたというその思いそのものが幻、自己満足だったのか。
しかしそのとき、主はこの心に優しく語りかけてくださった。その一人分の足跡は、あなたの足跡ではないよ。わたしの足跡なんだ。
あなたはおぼえているかい。もうこれ以上は歩けないと思った、あのときを。あの日以来、わたしがあなたをおぶってきたのだ、と。

 しかし私たちは、どんなに歩くことがつらくても、もう歩けない、と自分から言い出すことの難しさを感じることはないでしょうか。
とくに、今のこの社会状況の中で、「つらい」と言える人と、言えない人がいます。
家庭では、親は子どもの前で「つらい」と言えない。自分がつらいと言えば、子どもを不安にさせてしまうかもしれません。
医療の現場では、医師はつらいとは言えず、介護の現場では介護士もまたつらいと言えず、学校の現場では、先生はつらいとは言えず。
警察、消防、電気・ガス・水道などのライフライン、運送業、その他数え切れない人々が、「つらい」という声を挙げるのを我慢しています。

 ペテロも、「つらい、もう歩けない」と言い出すことのできない人たちのひとりではなかったかと思います。
かつての彼は、自分が弱い人間であることを知らない者でした。イエス様が十字架にかかられる前に、彼にこう予告したことがありました。
「鶏が二度鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うだろう」。
しかし彼は「一緒に死ぬことを選びはしても、知らないなどということは決してありません」と答えました。
しかし実際にイエスが捕らえられると、ペテロは予告のとおり、のろいをかけてイエスなんて知らないと三度も言ってしまったのです。
彼の心は、今もそのときの傷から立ち直っていないのです。「私は漁に行く」。この言葉が、その傷を如実に現しています。
もし彼の心の傷がいやされていたら、こう言ったことでしょう。「一緒に漁に行こうではないか」。
しかし彼は「私は」と言ったのは、彼が他の弟子たちと離れて、網を湖に打ちつけながら、ただ一人になりたかったからです。

2.
 かつてペテロはイエス様から「あなたは魚をとる漁師ではなく、人をとる漁師になる」というみことばで招かれ、弟子となりました。
そのときに彼はそれまでの商売道具であり、唯一の財産とも言える、舟と網を捨てて、イエスについていきました。
そのとき、彼の人生は180度変わったはずでした。ところがそこからまた180度変わり、今の彼は昔とまったく同じように、網をつかんでいます。
イエスがよみがえらなかったのなら、それはわかる。あるいはよみがえりのイエスに出会っていないのであれば、それもわかる。
しかしイエスはよみがえったのです。ペテロの前に、二度も現れてくださっていたのです。しかし彼の心はいまだにいやされていない。
ペテロは湖に向かう道のなかで、心に自問し続けたでしょう。ペテロよ、おまえは人間をとる漁師、という使命を忘れてしまったのか。
おまえが行くところは、湖ではない。おまえがやらなければならないのは、魚を捕ることではない。
イエスはよみがえられた、と人々に向かって語るのだ。人々の前に出て行くのだ。
しかし彼の中のもう一人は、こう答える。そんなことはわかっている。わかっている。でもできないのだ。
俺は三度も主を知らないと言ってしまった。裏切り者の事実は消えないのだ。その俺がどうして人々に救いを語ることなどできるのか。

 信仰生活の中には、このような霊的スランプ、あるいは倦怠感ともいうべき、どうしてもたましいに力が入らないときがあります。
経験上、そういうときは何をしてもだめです。なにしろ、聖書を開く気も起きなければ、祈る気も起きないのですから、どうしようもありません。
しかしそれは誰でも経験することです。ただ、それをまるで自分の信仰がだめだからだ、と責めてしまうとき、ますます悪化していきます。
自分が神からも見捨てられ、一人ぼっちだと思ったそのときこそ、私たちは信仰生活の始まりについて振り返る時となります。
主とふたりで歩んできたと思っていた。しかし私は、自分が歩けなくなっていることに自分でも気づいていなかった。
だけど主は私を責めることなく、私をおぶってくださり、私が自分の弱さに気づくまで、待っておられたのだ。
霊的スランプは決して恥じるべきことではありません。むしろスランプを知ることは、自分自身を知り、神を知ることへと繋がっていきます。

3.
 たましいの倦怠感をおぼえるとき、神から手を差し伸ばしてくださることをおぼえましょう。
4節、「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた」。イエス・キリストは私たちをとりまく闇の中、岸辺に静かに立たれます。
5節、「子どもたちよ。たべるものがありませんね」。イエス様は私たち以上に、私たちの現実を知っておられるお方です。
そして懐かしい声で、懐かしい言葉をかけてくださいます。6節、「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」と。
かつてペテロを弟子に招いたとき、イエス様は同じ言葉を語られました。「深みにこぎ出して、網を下ろしなさい。そうすれば、とれます」。
この懐かしい言葉を聞き、この懐かしい言葉にもう一度従ったとき、何が起こったでしょうか。
それまで何をやっても空っぽだった網に、数え切れないほどの魚がかかりました。しかしそれだけではありません。
網以上に、何もひっかかることのなかった、ペテロの心そのものが、激しく揺さぶられたのです。
彼は裸の上に急いで一枚の上着をまとうと、水に飛び込みました。そして岸辺のイエスに近づいていったのです。
彼は気づきました。神が決して変わらない方であるということを。たとえペテロが何度も主を否んだとしても、イエスの約束は決して変わらない。
あなたを、人をとる漁師にしてあげよう。その招きの言葉が、今までとは比べものにならないほど、彼の心で燃えさかりました。

 ペテロがわざわざ上着をまとって水に飛び込んだのは、イエスの前に裸で出るわけにはいかないととっさに考えたからでしょう。
しかし実際のところ、上着をまとう必要はありませんでした。イエスは私たちが裸で御前に出ることを願っておられるからです。
裸というのは何でしょうか。それは、心の中に隠し込んでしまった罪、恥、傷を隠そうとせず、神の前にさらけ出すことです。
自分のプライドや立場を守るために生きていたときは、私の心は常に人の目を気にし、疲ればかりがありました。
しかし裸の心を神様に明け渡したとき、そこには解放があります。何も飾らず、何も誇らず、汚れたままの自分でイエスに近づきましょう。
あとはイエス様が何とかしてくださいます。神は悪しきことでさえ益と変えてくださり、私たちを導いてくださるのです。
苦しいとき、苦しいと言える人は幸せです。しかしもし人前で言えなくても、神様に対しては正直に、裸の心を伝えてください。
神は今までも、これからも、あなたをずっと背負ってくださいます。今週も、このイエス・キリストとともに、一歩ずつ歩んでまいりましょう。

posted by 近 at 20:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ
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