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2020.5.24主日礼拝説教「王と共に門をくぐれ」(詩24:1-10)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 「重要なお知らせ」のところにも記載してありますが、6月から集会活動を再開いたします。
ただし、いきなり30人規模の方々が一堂に会する礼拝を復活させることはできません。
礼拝堂の大きさは(7×8=)56u。講壇や聖卓、受付などを除いた実面積は最大限とっても30u。
隣の人と1mの距離を取るのであれば、一人あたりの密度は1.4mの2乗=約2uと計算すると、収容人数は15名。
粗い計算ですが(本当はもっと狭い)、大人子ども合わせて15名以下に抑えるために、一日3回の礼拝を行います。
じつは以前から3回の礼拝(第一8:00、第二10:30、夕拝19:30)を行っていたのですが、
第一と夕拝はそれぞれ3〜4人、第二は教会学校の後ということもあって、子ども合わせて30人くらいでした。
この6月は、一ヶ月の試行期間として、以下のように変更します。
第一礼拝 8:30〜9:30  比較的近所の教会員  10人程度
第二礼拝 10:30〜11:30  求道者と新来者含めて15人程度
教会学校+第三礼拝 13:00〜15:00 子どもたちと親御さんを中心に、15人程度
教会員については、誰がどの礼拝に参加していただくのかをあらかじめ決めて、役員会報告を郵送し、それぞれにお伝えしました。
ただご本人の希望に基づくものではないので、とくに午後の子どもたちや親御さんには負担を強いることになり、申し訳なく思います。

 それにしても、千人教会ならまだしも、この規模の人数で、入場制限を行う日が来るとは思いもしませんでした。
COVID-19に関しては、やがてワクチンや特効薬が生み出されますが、これからも次々とウイルスの亜種(パンデミック)は起こり得ます。
教会堂を含めて、「利用者が社会的距離を保てない施設には建築許可が下りない」という状況が来ることもあり得ないとは言えません。
従来、日本の教会で理想とされる会堂イメージは、4人がけの長椅子が狭い間隔で整列されている「密集陣形」でした。
「駅から○分」に確保した狭い敷地の中に建ぺい率ギリギリの教会堂、さらにその中にどれだけの人を詰め込めるか、という永遠の命題。
そうなると小さな教会の選択肢は、二階建て一択。牧師館も含めると三階建て。
牧師館をあきらめて平屋にするか。平屋と駐車場を取得するために町から離れた調整区域にするか。
しかしこの「社会的距離」という概念がこれからスタンダードになるようであれば、会堂の「新しいかたち」が生まれるのかもしれません。
いずれにしても、会堂は神にささげるものです。今回の説教で扱った、神の箱に対するイスラエルの情熱をいつか共有したいと思います。
週報はこちらです。

聖書箇所 『詩篇』24篇1-10節



1.
 世界的音楽家、ベートーベンの名前を知らない人はいないと思います。
今年、2020年は、ベートーベンの生誕250周年にあたる年であり、コロナがなければ、世界各地で記念式典が行われる予定でした。
ベートーベンの曲の中で、とくに日本人に好まれているのが、第九交響曲第四楽章、いわゆる「歓喜の歌」と呼ばれているものです。
この第九交響曲は、シラーという文豪の詩のことばに感銘を受けたベートーベンが、約10年間かけて曲を作りました。
ですから作詞はシラーとなりますが、冒頭に三行の言葉だけ、ベートーベンが付け加えたものがあります。それは次のようなことばです。
「おお友よ、このような旋律ではない!もっと心地よいものを歌おうではないか!もっと喜びに満ち溢れるものを!」

 いま、世界じゅうの人々が顔の下半分を隠し、喜びを閉じ込めています。今日ほど、私たちが喜びを必要としている時はありません。
来週、教会暦はペンテコステ、聖霊降臨日を迎えます。喜びをもってその日を迎え入れるために、今日はこの詩篇24篇から語りましょう。
この詩篇24篇はまさに「歓喜の歌」です。表題に「ダビデの賛歌」とあります。
この詩の背景には、エルサレムに神の箱が帰ってきたとき、王から子どもに至るまで、人々がこぞって喜び踊ったできごとがあります。
何十年ものあいだ、敵に奪われたあげく、野ざらしにされていた、「神の箱」が、とうとうエルサレムに帰ってきたのだ。
イスラエルのあらゆる町々、村々から人々が集まり、ダビデも裸になって喜び躍りながら、神の箱が帰ってきたことを喜びました。

 私たちは、イスラエルの人々が神の箱に対して抱いていた情熱はわからなくても、その喜びは共有することができます。
イスラエルの人々にとって、神の箱は、神我らとともにいますという証しでありました。それが帰ってきたのです。喜ばずにはいられません。
私たちクリスチャンにとっても、たとえ会堂に集まることができない日々が続いても、神我らとともにいますという事実は変わりありません。
今日、それぞれが家庭にて礼拝をささげています。そこに、イエス・キリストはおられます。
明日何が起こるか。明後日、世界がどうなっているか。しかしダビデが真っ先にこう歌ったことに目を留めましょう。
「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは【主】のものである」。
そうです、人にはわからなくても、神にはすべてがわかっています。なぜなら、この世界に存在するすべてのものは、神が造られたものだからです。
たとえ先が見えなくても、この創造主に信頼するときに、私たちを喜びから妨げるものは何一つないのです。

2.
 3節で、ダビデはこう告白しています。「だれが、【主】の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。」
「主の山」、そして「聖なる所」。ダビデが指しているのは、神の箱が安置され、神と出会うことができる聖所、神殿です。
ダビデはこの詩篇の中で、ただ喜びを表しているだけでなく、聖所、神殿、すなわち礼拝こそが、もっとも喜びにふさわしいと告白しています。
いま私たちは、その礼拝が与えられています。
たとえかたちはどのようであったとしても、おのおのにみことばが語られている、この礼拝こそ、私たちの喜びの出発点であり、原点です。

 だけど同時に、「だれが登りえようか」「だれが立ちえようか」とあるのです。
すべての人間は、生まれながらにして罪人です。罪人はどれだけ逆立ちしても、神の前に立つことはできません。
4節にはこうあります。「手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人」。
私だけはそうだ、と言えますか。だれも言えないのです。ダビデもまた、自分自身がその条件に当てはまる者ではないことを知っていました。
しかしダビデには将来の約束が見えていたのです。イエス・キリストという救い主がやがてこの地上にお生まれになるということを。
そしてこの方を信じた者は、イエス・キリストによって罪のない者として認められて、あらゆる祝福を受け取ることができるのだ、と。
5節をご覧ください。「その人は【主】から祝福を受け、その救いの神から義を受ける」。
この恵みの希望に生きる者たちこそ、神の御顔を慕い求めるヤコブの一族である、と続く6節では語られます。
イエス・キリストの十字架によって、ヤコブ、すなわちイスラエルに与えられていた恵みは、信じるすべての者たちにも広げられました。
いま、私たちはキリストを慕い求めます。救われた喜びをかみしめます。このイエスを信じて、歩んでいきましょう。

3.
 最後に、終盤で繰り返される、次のみことばをかみしめながら、説教を終わりたいと思います。
「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入ってこられる」。

 かつてヨーロッパにオーストリア=ハンガリー帝国という、約650年間も続いた巨大な国家がありました。
この帝国を治めていたのがハプスブルク家ですが、王が亡くなると棺がウイーンのカプチーナ教会の地下霊廟に運ばれるのが伝統でした。
そして宮内大臣が、亡くなった王の代弁者として、霊廟の門の前に立ち、修道院長と次のような問答を行うのが儀式となっていました。
修道院長が尋ねます。「お前は何者か。この永遠の門をくぐるを願う者は?」
すると宮内大臣はこう答えます。「われは皇帝。オーストリアの皇帝にして、ハンガリーの王なる者ぞ。さあ、この門を開けよ。」
すると、院長がこう答えます。「われはそのような者を知らぬ。今一度聞こう。この永遠の門をくぐるを願うお前は何者なるぞ?」
「われは皇帝。オーストリア帝国教会の守護者にして、ハンガリーの使徒王、・・・」と、さらにいろいろな肩書きを並べる。
しかし院長はこう答える。「われはそのような者を知らぬ。最後にもう一度だけ聞こう。この永遠の門をくぐるを願うお前は何者なるぞ?」
すると宮内大臣はひざまずいてこう答えます。「・・・われは、あわれな罪人の一人なり。ただひたすら神の恩寵にあずかりたし」。
これらの問答の後に、ようやく門が開き、棺が霊廟に納められたということです。

 永遠の門をくぐることができるのは、ただおひとり、栄光の王のみ。力ある方、万軍の主、イエス・キリストのみ。
たとえ皇帝であろうとも、この方のしもべにすぎないことを認めなければ、決して永遠の御国へ入ることはできない、という信仰を見る思いです。
確かにいま、この世界は混乱をきたし、将来に不安をおぼえることがあるかもしれません。
しかし私たちはイエス・キリストを信じています。神が確かに生きておられ、私たちを礼拝に招いてくださったことを信じています。
信じた者を、神は決して見捨てません。私たちはどんな時も、どんな所でも、いつも神とともに歩み、恐れる必要がないのです。
永遠の門よ、上がれ。栄光の王が入ってこられる。さあ友よ、喜べ、喜べ、このキリストとともにある生活を喜ぼうではないか。
今日のみことば、また第九に込められた大作曲家の喜びの叫びも心に響かせながら、これからの一週間を歩んでいきましょう。
私たちに与えられている恵みをかみしめながら、喜びがこの心に溢れ、この世界を潤すことができるように、いっしょに祈りましょう。

posted by 近 at 15:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ
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