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2020.5.31主日礼拝説教「神が定めた恵みの日」(使徒2:1-11)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 6月に入り、多くの教会が少しずつ活動を再開しているようです。
当教会でも、いわゆる三密状態にならないように、会堂の椅子を含めて調度品のレイアウトなどを見直しております。
そんななか、キリスト教用品の通販業者「CBD」からセルフ聖餐セットのダイレクトメールが届きました。
97444_5_adv.jpg形が似ていますが、褐色の恋人「スジャータ」ではありません。紫色だから間違えることはありませんが。
97444_7_adv.jpgまず上の薄いビニールを剥がすとウェハースが入っています。これがパンですね。もちろん食べるためのものです。
97444_8_adv.jpgその後、プラスチックのフタを剥がしてぶどう液をダイレクトにいただきます。
ただウェハースをそのまま置いているこの写真は衛生的に無意味ではないかとツッコミたくなります。

当教会でも、聖餐式が当分再開できる見通しはありません。
牧師または役員が準備しているのですが、平熱や無症状であっても感染している場合もあるからです。
この聖餐セットだと、本人しか触れることはありませんので安心ですが、届くまで一ヶ月かかりますし、送料が商品価格の3割くらいかかります。
500個セットで75ドル×1.3=単価25円くらいでしょうか。消費期限は一年くらいのようです。
御教会でも検討してみたらいかがでしょうか。週報はこちらです。

聖書箇所 『使徒の働き』2章1-11節



1.
 今日は教会の暦でペンテコステと呼ばれる日です。
「ペンテ」というのは、数字の5を表すギリシャ語から来ており、日本語では「五旬節」とも呼ばれます。
「五旬」は「50日」ということなのですが、何から数えて50日かというと、過越の祭りが始まってから50日目にあたります。
「過越の祭り」も「五旬節」も、もともとユダヤ教の祭りです。
過越の祭りは一週間続きますが、最初の晩に、小羊の肉を、苦い野菜と一緒に家族みんなで食べて、礼拝をささげます。
それからの五十日間は、ユダヤ人にとっては特別な、聖なる時期です。そして五旬節の祭りが終わると、日常生活が戻ってきます。
過越の祭りが始まるときに、イエス・キリストは十字架にかかって死なれました。
そして約七週間に及ぶ、一連の祭りの期間が終わる五旬節の日、聖霊が弟子たちに下り、教会が生まれました。

 今日まず、みなさんにお話ししたいことは、これらのタイミングが、決して偶然とか突然ではなく、神の周到なご計画があるということです。
二千年前の当時、ユダヤ人たちは世界じゅうに散らされて、それぞれの国で、生活していました。
しかし彼らは、この過越の祭りから五旬節までの七週間だけは、エルサレムにやってきて、お祭りをお祝いして暮らします。
過越の祭りが始まるとき、イエス様は十字架にかけられました。世界じゅうから集まって来たユダヤ人たちも、その話を見聞きしたはずです。
イエス・キリストは十字架から三日目によみがえり、四十日間のあいだ、多くの人々の前に現れて、神のことばを伝えました。
そしてイエス・キリストが天に昇られてから数日後のことです。いよいよユダヤ人たちがそれぞれの国に帰る、五旬節がやってきます。
そのとき、弟子たちに聖霊がくだり、それぞれの国のことばで神のみわざを語り出すという、このペンテコステのみわざが起こるのです。

2.
 私は今まで、この箇所を何度も読んでいましたが、こう考えていました。
弟子たちにとって、いつ聖霊が下ってくださるかわからない、だけどみんなで心を合わせてひたすら祈っていこう、という思いだったのだろう、と。
しかしどうやらそれはちがっていたようです。弟子たちは知っていました。五旬節以外に、聖霊がお降りになるときはあり得ない、と。
この五旬節こそが、十字架のできごとを聞いていた人々が故郷に帰る前に、最後に福音を語るチャンスでした。
だから彼らは、この五旬節を目指してひたすら祈っていたはずです。そして聖霊が下ったときにも、彼ら自身は一切あわてることがなかった。
この五旬節の朝が明けたときには、今日みこころが起こる確信があったことでしょう。

 ここには、いまの試練の時を過ごしている私たちに対する、大きなメッセージがあります。
私たちが、聖書と祈りを通して、神のみこころを行おうとするとき、まさに空を打つような戦いはしないのです。
いまどこを走っているのか、何と戦っているのかわからないような戦いは、私たちにはありません。
みことばを学び、神のみこころを探っていくときに、いま自分が直面している小さなことが、神の大きな計画に繋がっていることがわかるのです。
何が起こるかわからない世の中だ、とだれもが言います。しかし私たちは、神にとって想定外はあり得ないことを知っています。
すべてを知っておられ、その御手に収めている神さまにとって、きづかないあいだにこんなことになっていた、なんてことはあり得ません。
だから私たちは、この神のみことばを毎日味わい、心にたくわえていきます。そうすれば、たとえ何が起こっても右往左往することはありません。
それがいま、私たちに最も必要とされている、信仰の確信です。たとえ何が起こっても、私の心がざわめくことはない。
なぜならば、私の歩みはこの神とともにあり、私の歩むすべての道が、神のご計画に繋がっているからだ。そう告白できるのです。

 明日のことはわからない。確かにそうです。しかし明日のことはわからなくても、神が私たちに何を求めておられるのかはわかります。
私たちのいのちと生活の行き先を神さまにおゆだねするということ。どんな小さなことに対しても、忠実に向かっていくこと。
それが神のみこころという大きな流れに繋がっていることを忘れずに、決して失望せずに、今日を生きていくということ。
すべてのことが神のみこころという大きな流れに繋がっていることを知るとき、どんな悲しみや痛みにも意味が生まれてきます。

3.
 メッセージの最後に、弟子たちが、集まってきたユダヤ人それぞれのことばで話すようにされたことの意味を改めて考えたいと思います。
それは、ただ人々にことばが通じるということだけではありません。9節から11節で、人々はこのように顔を合わせてこう語り合いました。
「私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、
エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。
またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」

ここまで詳しく書く必要はあるのだろうかとだれもが思うでしょう。しかしこの地名、国名の羅列の中に、ひとつの共通したメッセージがあります。
それは、痛みです。彼らは好きで外国で暮らしていたわけではありません。ある者はパルテヤ人、ある者はメジヤ人、ある者はアラビヤ人、
民族的にはれっきとしたユダヤ人でありながら、彼らは散らされたそれぞれの国の人間として、生きていかなければならない。
それは、遠い昔にイスラエル人が神に反逆したがために、さばきとして世界じゅうに散らされたからでした。
そして祖国であるイスラエルから遠く離れて、外国で暮らさなければならない日々を、彼らも、彼らの父母も、彼らの祖父母も送ってきた。
祭りのたびにエルサレムを訪れることはできても、そこでもことばの違いから、自分たちが異質なものであることを自覚せざるを得ない。
これが自分の子どもたち、孫たち、ひ孫たちにも繋がっていく。弟子たちが彼らの国のことばで語ったメッセージは、その現実を思い出せました。
しかし同時に、弟子たちのメッセージは、このイエス・キリストによって、神の怒りとさばきは、信じる者から取り去られるという恵みでもありました。

 聖書は、私たちに罪を自覚させ、痛みを与えることもあります。しかし同時に、聖書だけが私たちに本当の慰めを与えてくれます。
聖霊が私たちに語ってくださるとき、みことばは私たちの心の闇をえぐり出すと同時に、イエスの血潮を通して傷をいやしてくださいます。
私たちがいま、神さまに心を向けて、自分の罪を告白するならば、慰めが心を満たします。
しかしクリスチャンに求められていることは、それだけではありません。私たちが聖霊に導かれて、その慰めを人々に語るのです。
私のような罪人のためにイエスは死んでくださった。そしてこのイエスは、あなたのためにも死んでくださったのだ、と。
このペンテコステの日、どうか一人ひとりが、神のふところに心を休め、赦しのみことばを人々に語っていく準備の時とされますように。
いよいよ来週から、少しずつですが、再び礼拝に集まることができる時が始まります。心から感謝して、歩んでいきましょう。

posted by 近 at 21:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ
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