外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。
今回の礼拝説教は、終盤にて原稿にはない、ヘンリー・H・ハーレイ『新聖書ハンドブック』の中の言葉を読み上げています。
多くのキリスト者にとって、教会は霊的な燃料の補給所になってしまっている。いま多くの教会で、さまざまな問題が起こっています。いな、隠れていたものが表れるようになった、ということかもしれません。
一週間で燃料を使い果たし、平日にはやらなかったことを埋め合わせるようにして行う。
神のことばを読み、思い巡らすことは、本来なら平日に時間をとってやっておかなければならないのである。
聖書を読む習慣をないがしろにすると、霊的に枯渇した状態で教会に行くことになる。
教会をからっぽになったたましいを満たす手段と考えるなら、それは失望に終わる。
神のことばを無視することによって生じた霊的な枯渇が、教会に一時間や二時間いただけで癒されるはずがないからである。
教会へは十分な備えをして行くこと。聖書をしっかり読んでおくこと。
そうすれば祝福を受けることができ、キリストがあがめられることになるのである。(p.21『礼拝の行為として教会に通う』より)
それは自戒も含めつつ、牧師の牧会力(=人間力)の衰退であると同時に、聖書(を読むこと)の軽視にも大きな原因があります。
2011年の震災復興活動、2012年からの子ども食堂の流行以降、多くの教会が地域奉仕活動に積極的になりました。
しかしその一方で、そういった活動に対するモチベーションが信仰のバロメーターのように誤解され、
信徒ひとり一人が聖書や説教によって育まれているとは言えない状況が生まれています。
とくに福音派の教会でそれが顕著です。
かつて福音派は、日本基督教団をはじめとする主流派をリベラルと揶揄し、批判していました。
それらの教派教団では、すでに半世紀前に福音と社会的責任の関係について、まさに教団の存続をかけて戦われていました。
しかし当時の福音派はそれを証しにならないと言って冷笑していました。
いま福音派ではかつての教会成長の勢いが停滞し、聖書回帰よりも地域や行政に喜ばれる活動に軸足が置かれています。
教会がなし得るどのような活動も、みことばに対して信仰をもって応答した結果であるはずです。
しかし多くの社会活動が聖書から吟味されずに、一方的に導入されている傾向を確かに感じます。
ただそれを声高に言えば「愛がない」と言われ、よきサマリヤ人のたとえを引き合いに批判される空気が漂っています。
そのほうが、日本の教会の中で強くなってきて怖いなあと感じる部分です。
その意味では、このハーレイや、フォーサイスのように、今から百年以上のものでありながら、
まるで今日の霊的窒息への預言のような良書が、教派問わず、もっと読まれるべきでしょう。
とくにこのハーレイの書籍は、100年以上温められ続けている本であり、非常にわかりやすいものです。
興味のある方はどうぞご購入ください。ことば社の本にしては比較的高価ですが、一生使えます。週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』11章37-54節
1.
イソップ童話に「狐と鶴」という話があります。
ある日、狐が鶴を食事に招待しました。鶴は喜んで狐の家に出かけたのですが、平皿に入ったスープが出されます。
鶴は、くちばしが長いので、せっかくのスープも飲むことができません。なんともイジワルな狐ですね。
この続きはいずれ話すとして、イエス様を食事に招いた、このパリサイ人は、まさにこのイジワルな狐のようです。
善意で食事に招いているように見せかけて、その心の中では、イエスを罠にはめようとする悪意が待ち受けていました。
食事に招いたのは善意ではなく、イエス様の言葉尻をとらえて訴えるためです。イエス様自身もそれに気づいていました。
そしてパリサイ人たちもこのたくらみがイエス様に気づかれていると知っていました。ところがイエス様はあえて、誘いに乗るのです。
しかも食事の前にからだをきよめなければ、彼らに訴えられるのは明らかなのに、堂々と、一切やらない。彼らはそれに驚いたのです。
福音書を読んでいると、どうみても罠がしかけられているのに食事に付き合ったり、悪意のある質問に答えたりする場面が多くあります。
イエス様は、どんな相手であろうと、目の前の人間と向き合うことから逃げません。向き合ってこそ、伝えられることがあるからです。
パリサイ人たちは、律法を守らない外国人や取税人、遊女は、絶対に救われないと決めつけて、彼らと関わることを一切避けました。
しかしイエス様は、たとえ律法を守らない者であろうと、そしてパリサイ人たち、権威を守るために律法を利用する者たちであろうとも、
神さまの前にはじめから退けられている者などいない、恵みが絶対に与えられない者などいない、と示すために、あらゆる人々と関わりました。
パリサイ人でさえ例外ではなかった、という、この事実を、イエス様とパリサイ人との会話の中からよくかみしめていただきたいのです。
一見、たいへん辛らつな批判ばかりのように見えます。しかし、その中にきら星のように、建設的、積極的なことばを見つけることができます。
わかりやすく訳を変えますが、たとえば41節、「あなたの内側にあるものをささげなさい。そうすれば、いっさいのものがきよいのです」
42節、「あなたがたは小さなものの十分の一は守っているが、一番大事な公義と愛をなおざりにしている、これこそ優先すべきものです」
2.
イエス様は、批判だけではなく、彼らが何をすればよいのかを語っています。それは、彼らを見捨てていない、ということに他なりません。
確かにイエス様の言葉は、どう逆立ちして聞いても厳しく聞こえます。しかしそれは吐き捨てるのではなく、拾い上げる厳しさです。
大部分の者たちは、イエス様のことばを受け入れず、反発したことでしょう。しかし私たちは次のことから目を離してはなりません。
イエス様が、パリサイ人らの悪意を知りながらも彼らの中に入っていき、揚げ足を取られる恐れがあってもぶれず、本当の模範を示したこと。
それは彼らの中のいくらかでも救うためであったことを。反発する大多数の中に、一握りの回心者が起こされる、ただそのことのために。
パリサイ人の指導者のひとりであったニコデモがそうでした。彼はイエスが十字架にかけられたあと、人々の前で信仰を証ししました。
人と関わらなければ、苦しむことはありません。最近のSNS騒動が示すように、匿名で攻撃し、いざとなれば隠れるということもできます。
しかし自分が何者かをはっきりと伝え、人と直接、関わっていくならば、人は変わりうる。イエス様は逃げませんでした。そして私たちも。
パリサイ人の過ちをまとめると、最も大切なことは何かが見えていなかったことにありました。
外側、すなわち、目に見える行動や体裁は整えるが、内側、目に見えない、心の深みにある自分自身の姿は見ようとしない。
そして外側をきよくすることがとにかく大事なんだという思い込みを人々に押しつけることで、人々をかえって汚していたのです。
それに対して律法学者の過ちは、律法は自分たちの解釈によらなければ、一般人には理解も実行もできないもの、と決めつけていたことです。
彼らは律法を本来の愛の精神からかけ離れたものへと変えてしまいました。
つまり、命令を守ることで神さまへの義務を果たすという無味乾燥なもの。さらには聖書が命じていないことまでも、付け加えたりもしたのです。
律法の専門家を自称する彼らに対して、イエス様は怒りさえもにじませながら、このように言います。
46節、「人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとしない」
そして52節、「おまえたちは知識のかぎを持ち去り、自分も入らず、入ろうとする人々をも妨げている」
3.
イエス・キリストは、永遠の御国へと入るための門です。律法は、その門がどこにあるかという案内板にすぎません。
イエス様が地上に来られた今、誰の目にもこの方を通して神の国への扉が開かれたのに、律法学者たちは人々をこの方へと近づけさせない。
彼らはこう言っていたのです。イエスなど、単に神の名をかたっている偽教師だ。本当の救いは、私たちが語る律法の教えにしかない。
お前たち一般人には、律法はわからない。律法は、私たちのように専門知識を積んだ者にしかわからないものなのだ。
私たちクリスチャンが、彼らと同じような考え方に陥らないように注意しなければなりません。
聖書は、牧師が説教したときに神のことばになるのではなく、だれが読んでも、はじめから神のことばなのです。
どうか、毎日聖書を読んでください。牧師に頼らなければ聖書がわからないクリスチャンではなくて、
牧師が恥じ入るくらいに聖書のことばをおぼえて、生活の中に明らかに聖書が息づいているとわかる、そういうクリスチャンを目指してください。
私の尊敬する牧師のことばです。「一万人が集まる有象無象の教会を建て上げるよりも、一万時間かけて聖書を読みこなす信徒を育てよ」
またある先輩牧師は私にこう聞いてきたことがあります。「信徒は礼拝にお腹をすかせてやってきますか、満腹してやってきますか」
実際の食べ物のことではなく、みことばのたとえです。私が「みことばに飢えてやってきます」と答えたら、一喝されました。
「礼拝説教だけで信徒を養えると思うのは、牧師の高ぶりだ。日々聖書を読んでいるならば、霊的に飢えることはなく、満たされるはずだ」
これらのことばが教えているのは、私たちが毎日聖書を読んでいるかどうかで、教会が生きているか死んでいるかも変わってくるということです。
生きている教会を目指しましょう。イエス様のことばに、日曜日だけでなく毎日支えられていく生活を歩みましょう。