こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』12章1-12節
1.
ある主婦が、スーパーでレジのアルバイトを始めることになりました。
最初の出勤日、同じ職場で働く方々、やはり同じように主婦の方ばかりですが、何人かで自己紹介の時間がありました。
ところが最初の人が名前だけでなく、なぜか年齢まで付け加え、さらに次の人、その次の人も前にならえでやはり年齢を口にしました。
いやだなと思ったそうですが、新人なので流れを変えることもできず、つい実際の年齢よりも5歳ほど差し引いて口走ってしまいました。
ところが次の日からが、苦労の日々の始まりです。
サバを読んでいるのに気づいてるのかいないのか、なぜかみんな年齢に関係ある話ばかりしてきます。
干支の話、旦那と結婚した年、子どもが生まれた年、そのたびに、実際の年よりも5年引いて、さっと計算して答えなければいけません。
昭和と平成が切り替わるころになってしまうと、昭和67年って平成に直すと何年だっけ、と、つい指を折って数えたり。
いいかげん疲れてしまって、最後にはとうとう白状したそうですが、「年はごまかしてもレジはごまかさないでね」としばらく言われ続けたとのことです。
この程度の嘘であればまだかわいいと思えますが、自分を実際の姿よりもよく見せようとする嘘のことを「偽善」と言います。
そして偽善の厄介なところは、嘘をついているのに、自分では嘘だと気づいていない、ということでしょう。
イエス様は、パリサイ人の偽善に気をつけなさいと弟子たちに言われました。そしてその彼らの偽善を「パン種」と呼んでいます。
パン種、今日ではイースト菌として知られていますが、これをパン生地に入れて焼くと、数十倍に膨らむということが古代でも知られていました。
イエス様はこのたとえを用いて、こう言われています。パリサイ人、律法学者たちは、自分を実際の姿よりも大きく膨らませて、人に見せている。
しかしその膨らんだ姿は虚像、ごまかしであり、彼らの本体はごく小さなものでしかない。それはやがて神の前に明らかにされる。
だがあなたがたは、彼らと同じ過ちを犯さないように気をつけなさい。たとえ人々があなたがたをほめちぎったとしても、神に栄光を帰しなさい。
2.
1節から3節でパリサイ人の偽善を警告されたイエス様は、4節からは人々を恐れてはいけないと語ります。
突然話題が切り替わっているように感じられますが、しかし決してそうではありません。偽善の本質は、「人への恐れ」なのです。
「偽善」を漢字で書くと、「人の為の善」となります。しかし「人の為」とはこの場合、人の目や評価を気にして、ということにほかなりません。
他人が自分のことをどう見ているか。自分の行動をどう言っているか。多くの人々が、他人が自分をどう評価しているかを恐れています。
人の評価を恐れるからこそ、その評価を高めるために「よりよい自分」を演じる、それが偽善です。
聖書を読むと、パリサイ人は人々の評価など気にせず威張り散らしていたようなイメージがありますが、実際にはまったく逆でした。
人々の評価が気になって仕方がないのです。だから自分をより宗教的、より信仰的な者として飾り立てようとしていました。
しかしイエスさまは、彼らの演じている宗教者としての姿が、ただ空気が詰まっているだけの膨んだものでしかないことを明らかにしていました。
だから彼らは、自分たちの立場を危うくする者として、イエス・キリストを憎んだのです。
私たちも、たとえ信仰を持っている、と言っても、人の目を恐れ、人の評価ばかりを気にしているならば、同じ過ちを犯します。
では偽善への誘惑に対して、どのように立ち向かえばよいのでしょうか。
イエス様は、それは神を、ただまことの神だけを恐れること、それに尽きるのだ、と言われるのです。
神だけを恐れる者は、他のあらゆる恐れが気にならなくなります。
人の目を気にする人生から、神が私を見てくださっていることに喜びと平安を感じるようになります。
この地上で、神を知らない人々は、神を知っている私たちの行動や言葉尻をとらえて、苦しめたり、傷つけたり、命を奪うことさえあります。
しかし、神を恐れる者は、「それがどうした」と告白します。私が恐れる神は、地上の命だけでなく、永遠のいのちをも左右されるお方なのだ、と。
市場でたたき売られている雀でさえ、神に守られている。ましてや、あなたがたは雀よりもはるかに価値のある者だ、とイエス様は言われます。
神を恐れるとは、神に恐怖心を抱くということではありません。
人間をはるかに越えた、力のある方が、私たちの髪の毛一本に至るまで、私たちに目を注ぎ、関心をもって、守っていてくださること。
神を恐れるとは、このすばらしい神さまを愛することです。そして神の愛に生きる者たちは、この方を人々に伝えずにはいられません。
3.
最後に、8節から12節までのことばを補足しながらまとめて、この説教を閉じたいと思います。
イエスは救い主であると、人々の前で認めた人は、やがて天で神の前に立ったとき、イエスもその人を救われた者として認めてくださいます。
しかしイエスを人前で知らないと言う人は、天で神の前に立ったとき、イエスもその人のことを知らないと言われます。
イエスにどれだけ悪いことを言ったとしても、それがまだ救われる前、罪がわからないときであれば、赦されます。
しかし救われた者は聖霊をいただいていますから、救いの恵みをいただいたうえでイエスを悪く言うならば、その人は赦されません。
そして救われた者たちがもし人々の前に引き出されるとき、彼らの心の中に生きておられる聖霊が、そのときに言うべき言葉を与えてくださる、と。
ここでイエス様が言われようとしていることは、自分に頼るのでも、他人にすがるのでもなく、聖霊に従って歩みなさい、ということです。
人が救われる前にどんな人生を送っていても、神に出会い、信じ、救われたならば、必ず神が最後まで守ってくださるのは間違いないことです。
しかし、「救われた」とはどういうことでしょうか。洗礼を受けたから救われたと言えるのでしょうか。
礼拝や伝道集会で語られたメッセージに対して、「イエス・キリストを信じます」と、そのとき手をあげたから救われたのでしょうか。
自分が所属する教会に、定期的に献金や奉仕をしている。礼拝を休まず出席しているから、それが救われた証拠でしょうか。
じつは私たちが救われたかどうかは、これだけ確信があるから救われているとか、こんなまっとうな人間になりましたということでは判断できません。
救いは100%、聖霊のみわざです。そして救われた後も、聖霊が100%その人の人生を導かれていきます。
イエス・キリストを救い主であると人々の前で認めることも、聖霊の助けがなかったらできません。
人々の前でイエスを知らないと言ってしまうとすれば、それは聖霊ではなくて、トラブルに巻き込まれたくないという人間的な思いです。
そう考えてみると、イエスさまがここで問われていることは、
「自分は本当に救われているのだろうか、聖霊を受けているのだろうか」と心配することではありません。
聖霊を受けたことを心から感謝しつつ、私の信仰は、自己努力ではなく、この聖霊によりたのむしかない、とすがることなのです。
いま信仰に立っていると思う者は、自分が本当に聖霊により頼んで生きているかどうか、振り返る。
もしいま信仰に揺れ動いている者がいたら、その動揺は、自分の中に生きておられる聖霊が、
わたしを見よ、わたしにすがれ、自分の力に頼らずにわたしによって生きよ、と呼びかけておられる、ということなのだ、と思ってください。
それが神を恐れるということなのです。私たちをいつも顧み、最後まで導いてくださる神さまに信頼して、今週も歩んでいきましょう。
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