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2020.6.28主日礼拝説教「みことばはその日のうちに」(マルコ4:35-41)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 さて、初版が2010年と今から10年前に上梓されたものでありながら、今年とくに注目されている本があります。

以下は、出版社の紹介文からの引用です。
先生がねえ、死ねって、ぼくに言いよった……ある日突然「殺人教師」にされたーー 恐怖の実話ドキュメント!
「早く死ね、自分で死ね。」2003年、全国で初めて「教師による児童へのいじめ」と認定される体罰事件が福岡市で起きた。地元の新聞報道をきっかけに、週刊誌やワイドショーが大々的に報じ、担当教諭は「史上最悪の殺人教師」と称され、停職処分に。児童側はさらに民事裁判を起こし、舞台は法廷へ映り、正義の鉄槌が下るはずだったが、待ち受けていたのは予想だにしない展開と、驚愕の事実であった……。第六回新潮ドキュメント賞受賞。累計13万部突破、恐怖のロングセラー。
今年に入ってからブレイクしている理由は、コミカライズ(漫画化)の影響でしょうか。

コミックのほうはまだ第一巻が出たばかりのようで私は読んでいませんが、原作のほうを知人に勧められました。
牧師にとって最も大事な日とも言える土曜日にもかかわらず、約250ページを一気読み。(先週の話)
やつはとんでもないものを盗んでいきました。私の3時間です。

「予想だにしない展開と、驚愕の事実であった」が何なのかは、「でっちあげ 福田ますみ」で検索してください。
一言で言うと「えん罪」ですが、そのえん罪の過程が「えっ、こんな簡単に人を罪に定めていいの?」と驚かされます。
モンスターペアレントの恐ろしさだけでなく、体面を重んじて検証もせずに謝罪させる学校関係者。
「安易な罪の告白」がどれほどの結果を生んでいくのかを考えない教師本人(クリスチャンは良く読み取るように!)
被害児童をいい加減な所見でPTSDと判断する大学病院の医師。
地元住民の証言も取らないまま、一方的に教師を追い込んでゆくマスコミや人権派弁護士たちの思い込み・・・・
ノンフィクションですので一部を除き、登場人物は実名で掲載されています。

決して教会にとって他人事ではありません。教会で罪が明らかになったとき、聖書に基づいて「教会戒規」を行います。
しかし実際のところ、その解釈や運用は各教会にゆだねられているため、それが原因で裁判沙汰になった事例が散見されています。
私も以前、ある教会の戒規事例に関わりましたが、宗教法人法が規定する教団−教会の関係や、牧師の守秘義務について、
あまりにも牧師自身が不勉強であるということを痛感しました。
センセーショナルなタイトルですが、このような本をクリスチャンが読んでおくべきだと思います。新潮文庫です。
週報はこちらです。

聖書箇所 『マルコの福音書』4章35-41節



1.
 まず35節をお読みします。「さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた」。
「その日」、そして「夕方」、じつはこれらの言葉は、この嵐の中でのできごとを理解するための、大事なキーワードにほかなりません。
「その日」とはどの日でしょうか。その日、イエス様は人々に種まきのたとえを語られました。
種とは、神のことばのことですが、神のことばを聞くとは、心に種が撒かれるということです。イエス様はそのときにこう語られました。
心に撒かれたみことばの種を、真剣に受け止めるならば、種は芽吹いて成長し、その人は30倍、60倍、100倍の信仰の実を結んでいく。
しかし聞く気がなかったり、批判しながら聞いたり、よく吟味せずに受け入れて信じたつもりになる、そうであれば実を結ぶことはできない。
弟子たちがその日に聞いた、種まきのたとえ話を、彼らがどのように受け止めて、心の中で消化しているかどうかをためしたのが、この嵐でした。
みことばの種が芽吹き、生み出された信仰が、どのように実践されるのか、その実を見るためのものでありました。

ですから、この嵐は、偶然であるばかりか、弟子たちの信仰を見るために創造主がご用意されたものであることがわかります。
夕方、弟子たちは船の上で暴風にさらされます。「その日のこと」、そう、「その日」のうちでなければならなかったのです。
昼間、弟子たちがイエスのことばによって学んだ教えは、夕方、嵐の試練の中で実際に試されなければならなかったのです。
聖書は、聞いたみことばを実践しなさいと語っています。しかし聞いても、そのみことばを思い巡らす時がなければ、実践できません。
ではいつ思い巡らすのでしょうか。「鉄は熱いうちに打て」と言われますが、みことばは、聞いたその日のうちに思い巡らすべきです。
弟子たちは昼間、自分が聞いた、種まきのことばをどのように聞いていたのでしょうか。
心の深みにがりがりと刻みつける思いで聞いていたのか、それとも右耳から入って左耳から抜けていくような態度で聞いていたのか。
いずれにしても、彼らは身をもって、聞いたみことばを嵐の中で実践していくこととなりました。
死を覚悟するような嵐の中、彼らがイエス・キリストのみことばにしがみつくのか否か。
その試練に勝利する鍵は、イエス様が語られたことばを、心の中で味わい、何度もかみしめ、自分の血、肉として取り込むということです。
そのとき、信仰はおのずと私たちの行動を導く力となります。しかしみことばが生きていないのに行いだけ変えようとしたら、偽善になるのです。

2.
 信仰は、心で信じるものです。しかし心で信じた信仰は、実際の経験を通して試されなければなりません。
神さまは、私たちの信仰が形だけのものになっていないか、実際の試練を通して確認されるのです。
私たちの平穏な生活に突然起こる苦しみも、夕焼けのガリラヤ湖に突然起こった嵐も、同じく神が与えたもうた試練です。
その試練の中であなたは何と叫ぶのか。「主よ、助けてください」とイエス・キリストにしがみつくのか、
それとも「私が滅んでも何とも思わないのですか」と恨めしさを口にするのか。

 残念ながら、この時の弟子たちの姿は、神の期待に反するものでした。しかしそれでも、神は弟子たちに失望してはおられません。
私たちはどんな失敗からでも学ぶことができます。そのために、聖書は使徒たちの失敗を隠すところなく、はっきりと書き残しました。
それは弟子たちの失敗を、私たちが自分も陥りやすい失敗として心に刻みつけ、それを救いの完成に向けて生かしてゆくためです。
彼らの失敗の原因は何でしょうか。まず、何と言っても、彼らがイエスのみことばを忘れていた、ということがあります。
「種まきのたとえ」は、どんなみことばであっても、それを小さなものと考えずに、神の救いの力の表れとして受け止めるべきことを教えています。
そしてイエス様は、彼ら弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう」とおっしゃいました。これもまた、みことばです。
わたしがあなたがたとともにいる、だから向こう岸へ安心して渡りなさい、たとえその途中に、そしてその先に、何が待ち受けているとしても。
聖書66巻の中に込められている、どんなみことばも、あなたが信仰をもって受け止めるときに、必ずあなたを救い、守り、導きます。

 みことばの力を味わうためにオススメしたい、いや、お願いしたいのは、ぜひ暗唱聖句を実践してほしいということです。
暗唱聖句は子どもたちのためだけのものではありません。あらゆる人がみことばをおぼえることができるし、実際にそれを求められています。
年をとると記憶力がなくなるというのは、現代の脳医学では完全に否定されています。
薄れはしても、なくなりはしません。むしろ、記憶力を訓練している老年の者は、それを知らない若年の者よりも、よくおぼえることができます。
そして訓練と言っても、30万円の通信教育を受ける必要はありません。とにかく、みことばを口ずさむ、それに時間をかける、それだけです。
教会の週報には、毎週、暗唱聖句を掲載しています。一週間にひとつのみことばをおぼえる。
一週間後、また新しいみことばをおぼえると同時に、先週のことばをもう一度おぼえる。その次の週は、その週と、先週と、先々週と・・・。
これを一ヶ月繰り返すだけでも、みことばとともに歩む生活は、劇的に変わっていくことを、私も経験しております。

3.
 最後に、弟子たちが忘れてしまったのは、もうひとつ、イエスさまご自身がともにおられるのだという事実を忘れてしまったからでした。
確かに彼らは、イエスがこの船に乗っていることをおぼえていました。
しかし彼らにとって主イエスは、彼らの生き死にに何ら関心をもっていない冷たい主人になってしまっていたのです。
もしかしたらあなたの目にも、神がまるで眠りこけてしまっているか、あなたの苦しみに関心がないように見えるかもしれません。
しかしどんな苦難であっても、神の赦しの中で私たちの上に起きています。それは脱出の道も、神はみこころにとめておられるということです。
イエス様が眠っておられたのは、単に疲れておられたからではなく、嵐の中でも平安を持っておられたからでした。
イエス様は弟子たちを見捨てて眠ってしまっていたのではありません。その眠りは、嵐の中でもゆだねきることができるという模範でした。

私たちも主にゆだねきることができません。あるいは自分で何とかしようとさんざん走り回ったあげく、結局主をたたき起こそうとします。
しかし必要なのは、主をたたき起こすことではなく、主に信頼することです。私が死にそうでも、何とも思われないのですか。
そんなわけがありません。私たちを救うために、十字架で死んでくださったほどの方が、どうして私たちに無関心なことがあるでしょうか。
私たちにとって危険なのは、嵐でもないし、迫害でもありません。主は私のことなんか関心を持っておられない、という不信仰が最も危険です。
もちろんクリスチャン個人も、教会としても、さまざまな問題にさらされます。
しかしどんな事態に直面しても、神が私たちの真ん中におられるのだ、という信仰を堅く保っているならば、必ずそこに御手が働きます。
弟子たちは、一度は神の愛を見失ってしまう危険に陥りましたが、しかしキリストは立ち上がり、その危険から救い出してくださいました。
そして彼らはイエス様が自然をも支配しておられる神ご自身であることを改めて信じ、再び主に従っていく決心をしたのです。

 私たちはどうでしょうか。イエス・キリストは、天地の主です。あなたを決して見捨てないと約束しておられます。
ほかの誰よりも、あなたのいのちに関心をもっておられるお方です。どんな試練の中でも、この方を見失わないようにしましょう。
この一週間も、イエス・キリストから目を離さずに歩んでいくことができますように。

posted by 近 at 20:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ
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