外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。
今回、説教原稿には含んでいませんが、第二礼拝の説教(アップロードしているもの)でだけ話したことがありました。
戦後の日本の、福音宣教が「25年周期」で区切られるのではないか、という私の分析です。(20:10〜)
1.欧米の宣教師による揺籃期(1945〜1970)なんといっても一番のターニングポイントは、「地下鉄サリン事件」(1995年3月)です。
2.日本人牧師による成長期(1970〜1995)
3.オウム真理教の影響から、信徒伝道に対する啓発期(1995〜2020)
4.家庭伝道に対する再認識(2020〜)
ひとつの宗教結社がこれを計画・実行したということが判明するにつれて、世間が震撼したのは、
毒ガスによる無差別テロということだけでなく、その宗教の中核が、大学や企業のエリートであったということです。
オウム事件の結果、それまで比較的、宗教に寛容であった日本人の中に、宗教に対する忌避と恐怖感を作り出しました。
ざっくりとした俯瞰ですが、それからの四半世紀、教会はそれまでの伝道姿勢を顧みながら「信徒による伝道」を改めて目指してきました。
その中で、今回の新型コロナウイルスの世界的流行が起こりました。
会堂での集会が自粛され、家庭でのオンライン礼拝が定着し始めています。
この新型ウイルスは、確かに社会にとっても大きな脅威です。しかしそれだけで終わるものでもないと考えています。
信徒伝道を目指してきたとはいえ、「礼拝に出席していればよい」という教会依存はいまなお健在です。
しかし礼拝を通して神が求めておられるのは、出席しているという事実ではなく、ひとり一人の心です。
求道者に対しても関心を持たず、まるで指定席のようにいつも決まった場所に座り、おざなりに一時間を過ごすなら、何のための礼拝か。
礼拝の自粛は、不幸な出来事であると同時に、「霊とまことによる礼拝」とは何かを問いかけています。
これからの25年はどうなるか、と大上段に構えて論じられるほど勉強していませんが、
教会でも家庭でも表裏がないクリスチャンの姿が、これからの宣教の鍵になるのだろうと漠然と考えています。
「25年周期」の最初の二つについては、次回以降に改めて書きたいと思います。週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』12章22-34節
1.
イエスさまは群衆に向かって、身近な例を用いて実にわかりやすく話されました。
空では鳥がさえずり、野の花がそこかしこに咲いているような場所でイエスさまは説教されたのでしょう。
空に飛ぶカラスを指さし、彼らをごらんと言い、野にあるユリの花を指さしてあの花をごらんと優しく語りかけられました。
「烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。
ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。」
イスラエルでは、カラスは貪欲の象徴です。しかしその貪欲なカラスでさえ、神は確かに毎日、養っていてくださる。
そしてカラスが貪欲の象徴だとすれば、ユリの花とは儚さの象徴です。
イスラエルは雨期と乾期に分かれ、半年近く雨が降らないこともあります。そして草花は、東から吹き付ける熱風で瞬く間に枯れてしまいます。
しかしそのユリの花さえも、かのソロモン王よりも美しく、神はこのように装ってくださる。
あなたはカラスよりも、ユリよりも優れたものなのです。ましてや神が必要なものを与えてくださらないはずがありません。
これらのイエス様の説教は、たいへんわかりやすく、群衆も引きつけられたことでしょう。
そして、主は聞く人々にこう命じられたのです。31節をご覧ください。
「何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます」。
「何はともあれ」とは、「まず第一に」という意味です。「まず第一に」あなたがたは神の国を求めなさい。
イソップ童話の中の、「アリとキリギリス」というお話しを知らない人はいないでしょう。アリは冬に備えて働き、キリギリスは遊び呆けていた。
人間は、アリのように将来を見据えて、貯えなければならない。キリギリスのように考えない、怠惰な生活ではいけない、と解説されます。
確かに教訓的な寓話ではあります。しかしそれは神を認めようとしない世界での教訓です。
2.
何のために貯えるのか。将来のために、老後のために、不意の事態に備えて、貯えるのだ、と人は言います。
しかしこの直前に語った、愚かな農夫のたとえ話を通して、将来のために、老後のために、という人に対して神は警告しています。
「愚か者。お前のたましいは今日取り去られる。そうしたら、おまえのたくわえたものはいったい誰のものになるのか」。
それでも、いや、夫のために、妻のために、子どものために、これだけ財産を残せれば、きっと家族は幸せに暮らしてゆけるだろう。
しかしイエスがみことばを語っておられたとき、ある人が口をはさんでこう呼びかけたではありませんか。
「先生、私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」。
たしかにこの世では、貯蓄や遺産を残すのは、美徳と言われるかもしれません。
しかしそれが、神は愛する者をどんな時にもみつめ、最善をなしてくださるのだということを認めないならば、美徳は悪徳になります。
クリスチャンは二つの人生観が必要です。私を守るのは貯蓄でも保証でも遺産でもなく、ただ神ご自身なのだという感謝。
そして神は一瞬で私のいのちを取り去ることのできるお方なのに、あわれみによって今日も私は生かされているのだ、という恐れ。
この二つの人生観をあなたは持っておられるでしょうか。それがなかったならば、他のすべてを手に入れたとしても、あなたは不幸です。
あなたの信仰は自己努力となり、神はあなたの頑張りに応じて答えてくださる方に成り果てます。それは信仰ではなく、人事評価です。
貯えるな、という意味ではありません。貯えることは大切です。しかし貯える前に、あなたの宝がどこにあるかを確認しなければなりません。
あなたの宝は、イエス・キリストそのものであるのか、それとも預金通帳の残高の桁数があなたの宝になっていないでしょうか。
イエスさまが私のそばにいてくださることよりも、老後の面倒を見てくれる人たち、家族、兄弟、友人たちの数が宝になっていないでしょうか。
イエスは言われました。まず第一に神の国を求めなさい、と。神の国、それは死んでから行く天国のことを言っているのではありません。
私たちがこの地上に生きているあいだに、イエスを心に受け入れて、人生そのものを神さまに譲り渡す生き方を指しているのです。
私が何をしたいのか、ではなく、神が私を通して何を求めておられるのか、それを心の中でよく吟味しなければなりません。
3.
とはいえ、私たちは、御国のことよりも自分たちの必要の方を優先させてしまう弱さを持っていることを、みなが感じていることでしょう。
しかしそんな私たちにキリストは励ましの言葉を与えてくださっていることを覚えたいと思います。32節をご覧ください。
「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」。
地上のものに目がいきやすい者よ、恐れるな、と。見えるものに縛られやすい者よ、恐れるな、と。
わたし、キリストから目を離さずに、ただ神の国だけを求めよ。そうすればあなたの必要はすべて満たされる、と語ってくださっているのです。
ここでイエス様は、「小さな群よ」と呼びかけています。「群れ」とは小さなものが大きくなるための手段です。
イワシは群れることによって、群れそのものをまるで巨大な魚のように見せて、敵に抵抗します。
その他の動物たちが群れをつくるのも、より強く、大きな獣たちに対抗するためです。
人間の世界でも、集まって組織や団体、軍隊や国そのものを作り、より大きなものに抵抗しようとします。
しかしこれもまた、神を知らない者たちの処世術でしかありません。
たとえ集まってどれほど大きなものを装ったとしても、神の目からしたらひとりぼっちも千人、万人の群れも、どんぐりの背比べにしか見えません。
神が群れを量る視点は、そこにどれくらいの人が集まっているか、ではなく、そこにいる一人ひとりに、神を第一とする信仰があるかないか、です。
一人ひとりはこの世の戦いの中に置かれ、世の荒波の中で翻弄されるような小舟であるかもしれない。
その小舟が集まった教会もまた小さく、この世に対して無力さを感じずにはいられない時さえある。
しかし私たちにとって最大の励ましは、私たちの父である神が、こんな私たちに「喜んで」御国を与えてくださるということです。
もう少しことばを補って訳すならば、あなたがたに御国を与えることこそ父の喜びなのだ、というニュアンスになります。
御国というのは天国のことではない、と先ほど言いました。御国とは、あなたの心と生活のすべての領域で、神の支配を受け入れることです。
私が生きるということは、私の中におられるキリストが生きておられる、ということ。
みことばを通して、天からの神の語りかけを聞く。祈りを通して、内なる御霊のうめきとともに、私の思いを神に語る。
証しと交わりを通して、この御国の喜びを、兄弟姉妹、そしてまだイエスと出会っていない人々へと広げていく。
ひとり一人が、心に刻みつけて歩んでいきましょう。