外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。
新型コロナウイルスの流行によるテレワークの普及により、迷惑メールが激増しているそうです。
ヒトゴトみたいに書いてますが、うちの教会にも、今日一日だけで9件もメールが届いています。

なに、このアマゾン祭り。しかし教会としてはアマゾンに加入しておりませんので、だまされません。
ここで注意喚起を兼ねて分析すると、偽のアマゾンメールは
(1)「お支払い方法の情報を更新」
(2)「セキュリティ警告:サインインが検出されました」
(3)「Amazon.co.jpにご登録のアカウント(名前、パスワード、その他個人情報)の確認」
(4)「Amazonプライムの自動更新設定を解除いたしました!番号:○○(12けたの無作為の数字)」
(5)「Amazon.co.jp ご注文の確認「最新モデルApple MacBook Pro・・・(以下略)」
実際の文面は、青字をクリックしてください。高額請求されるようなことはありません。
最後のメールがとくに狡猾です。赤ペンで消したところは調べたところ、実際に存在する住所でした。
Amazonのほうで電子メールを暗号化することはできないのでしょうか。
それが不可能であれば、電子メールに対する法整備を急いで進めるべきだと考えます。
たとえば今ホームページは「https://」というセキュリティ認証が普及し、見分けることが容易になっています。
今は野放し状態になっているメールにも、これと似た仕組みを導入してほしいと思います。
なお、このブログはhttpに「s」がつけられないので、グーグルの検索ロボットからしょっちゅうはじかれるようです。
ブログの運営会社であるさくらインターネットの仕様なので仕方がありません。
現在、各社のブログシステムの中で「s」に対応しているのは、はてなブログPro(有料)だけのようです。
乗り換えを検討しているのですが、記事の引っ越しが大変、また編集方法も一から学び直しなので、保留しています。
とにかく、あやしいメールが来たら、スマホではなくてパソコンのほうで確認してください。
そうすれば、見分けやすくなります。一手間増えますが、だまされたら一手間どころではすみません。
現在、キリスト教会でも「見破る」ということが大事になっています。
かつては異端の御三家と呼ばれる「T協会」「Eの証人」「MM教」だけ気をつけていればよかったのですが、
いまは正統派の教団・教派に属しているにもかかわらず、カルト的な傾向の教師もおり、教師試験の質的改革が追いつきません。
「私(牧師)に反対すると天国に行けない」「○○をしない(できない)信徒は救われていない」
まさかそんなことが教会で語られるはずがないと思いつつも、宣教区長時代にもそういう事例の相談を受けていました。
講壇で牧師を通して語られることが、聖書に根拠を置いているかどうか、信徒自身が見極める目が必要です。
オンライン礼拝の普及で、説教を動画で公開する教会は増えましたが、原稿まで公開しているところは少ないようです。
当教会はその少数派のひとつですが、炎上のリスクを冒してもそれをする理由は、
教会の健全度を量るモノサシのひとつが説教であり、それを文字として公開することで、安心して通っていただくためです。
「この程度の説教しか語れない牧師なのか」と批判されるんじゃないか、といつもドキドキです。
それでも公開することで、間違いを指摘されたときは反省し、聖書に基づく神学を堅持していくことができます。
その意味で、同盟教団のすべての教会は、説教を文字ベースで公開すべきだと思っています。
なにしろ前理事長の十八番の説教がワ●ピースネタなので。やべ、また言ってしまった。週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』12章35-40節
序.
今日から、イエス様が再び地上に来られる、再臨についてお話しさせていただきます。
まず、35節をお読みします。「腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。」
私たちは、「腰に帯を締め」という言葉を聞くと、ふつうにベルトを締め直す、気合いを入れ直すというくらいにしか考えないと思います。
しかし、当時の人々にとって、帯を締め直すというのは、じつは恥ずかしさを覚悟することを意味していました。
当時のイスラエルの人々の服装は、袖やすその長い服を着ていました。
それは、男性にとっても女性にとっても、肌を見せるということは恥ずかしいものとみなされていたからです。
弟子たちはもともと漁師でしたので、もちろん漁の時にそんな長い裾のものなど着ていなかったでしょうが、普段着としては長服だったはずです。
「腰に帯を締め」というのは、裾をめくりあげて、よけいな布地を全部帯の下に入れて、いつでも走って行けるようにという臨戦態勢を表します。
それは他人の目から見たら、足を見せることになり、恥ずかしいということでもありました。
しかしその恥を忍んででも、走れ、戦え、というのが、聖書の勧めの中に何回か出てくる、「帯を締めよ」という言葉でもあります。
1.
イエス様は、そのような臨戦態勢を表すひとつのたとえとして、主人の婚礼を用意するしもべたちの姿を語られました。
いつでも走り回れるように、そしてともしびをたやすことなく、わたしの帰りを待ちなさい、と言い残して、主人は花嫁を迎えに行きました。
イスラエルの結婚式は、まず夕方に花婿が花嫁の家に行き、両親に娘さんをくださいとお決まりの宣言をするところから始まります。
そしてまず花嫁の家で、別れを惜しむ、簡単な婚礼が開かれます。夕方からですから、それは夜中になるかも、夜明けになるかもしれません。
それで終わりではないのですね。今度は花婿は花嫁を自宅に連れ帰り、そこからなんと約一週間に及ぶ婚宴が開かれるのです。
36節で、イエス様は人々にこのように語っておられます。
「主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。」
ここでいう「婚礼」は、花嫁の家での簡単な宴のことであり、一週間に及ぶ本格的な宴は、花婿の家に妻を連れ帰ることから始まります。
花婿、つまり主人にとっては、自分自身の指導力や人徳、豊かさ、などあらゆる評価が決まるところといっても過言ではありません。
使用人たちがどれだけ丹念に準備しているか。花婿・花嫁を待たせずに迎え入れるか。客人に対するもてなしぶりはどうか。
使用人がほめられることは花婿がほめられることであり、使用人の不手際は花婿の不手際です。
しかしいくらなんでも、「主人の方が帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれる」というのは、当時でもあり得ません。
しかし主が地上に再び帰ってきたとき、目をさましている信者たちに対しては、主は確かにそのように愛をもって扱ってくださるのです。
その保証が、十字架につけられる前の過越の食事のとき、イエスさまが手ぬぐいを腰にまとい、弟子たちの足を洗ってくれた姿です。
その驚きにあずかったのは12弟子だけでしたが、再臨の時には、すべての目を覚ましている聖徒たちは、イエスさまに給仕していただきます。
そしてイエス様自身が別のところで語られているように、イスラエルの12部族とともに神の国の食卓に着くという特権にあずかります。
2.
39節以降では、たとえが、「婚宴のために帰宅した主人」から「泥棒に入られてしまった主人」に変わります。
今までは、主人はキリスト、私たちがそのしもべとして描かれていたが、今度は、主人は私たち、そしてなんとキリストがどろぼうになります。
ご自分をどろぼうにたとえるという、この大胆なたとえを主が語られた目的は、いったいどこにあるのでしょうか。
いうまでもなく、まさに「人の子は、思いがけない時に来る」ということを強調するためです。
「主が今日来られるかもしれない」というのは、いつも気が抜けない、何かあまり気持ちのよくないものに感じられるかもしれません。
そして、いや、それは信仰が足りないよ、クリスチャンだったら、喜んで待っていなければいけないよ、というのもすこしずれています。
なぜならば、イエス様自らが、主の日は盗人のようだ、と自分が再び来られることをはっきりとどろぼうにたとえているからです。
どこの世界に自分をどろぼうにたとえて喜んだり自慢する人がいるでしょうか。しかしイエス様はあえてそう語っているのです。
この時代、この世界において、いつ来るかわからないものを、目を覚まして待ち続けるというのは、忍耐を必要とします。
しかし日常におぼれず、緊張を失わず、イエス・キリストが今日来られるかもしれない、という信仰を保ち続けること。
朝起きたときには、主よ今日来られるのですかと問いかけ、夜休むときには、眠っているあいだに来られるかもしれない、
そのときにも速やかに起き上がることができるようにと祈り、床につく。
はたから見たら気が触れていると言われかねません。しかしそれでもなお、私は、イエス様を待ち続けます。そう告白できる人は幸いです。
教会二千年間の歴史の中で、クリスチャンを動かして、証しをさせていた力は、「主が今日来られるかもしれない」という緊迫感でした。
主が今日来られたら、それまでに福音を信じるに至らなかった人を救える手段はありません。たださばきの場を待つのみです。
どんなに今まで福音を何度も聞いていたとしても、信じるに至らなかったら、そのときにはすべてが無駄になってしまいます。
そうはさせない。そのために、今日、あの人に福音を伝えなければならない。信じるように促さなければならない。
そのような信仰は、現代の教会では極端と言われるかもしれません。しかしそこに流れているのは、偽善でも貪欲でもなく、愛です。
結.
教会の中でも少子化高齢化ということが言われる中で、これからもキリスト教の宣教は厳しい道を通っていくことでしょう。
ただその中で私たちがどうしてもやらなければならないのは、ひとり一人が福音を伝えるということです。
「福音を伝える」ということは、私たち一人ひとりに与えられた使命です。
今日、イエス・キリストが来られるかもしれない。それは時代がどれだけ変わろうとも、クリスチャンが忘れてはならない皮膚感覚です。
もし今日、イエス様が戻ってこられたとき、「よくやった、よいしもべだ」と言われたい。その思いを共有できたら幸いです。