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2020.7.19主日礼拝説教「きよくなるために打たれる」(ルカ12:41-48)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 福音書にあるイエス様の言葉を学ぶとき、多くの読者は「その言葉が人々に語られた時代状況」を想定して聞くことでしょう。
たとえば山上の説教で言えば、紀元30年前後、イエス様の宣教活動の初期、群衆に語られたメッセージとして聞きます。
ただ共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)にちょくちょく出てくる、並行記事の相違点に着目するとき、
それ以外にも「その福音書が書かれた時代」についても考慮するとさらに理解が深まります。

 イエス様が実際に語られた時代と、それが福音書としてまとめられた時代には約30年、一世代に相当する時間差があります。
たとえば今日の箇所は、マタイ福音書24:45〜51にほとんど同じ記事が掲載されていますが、
ルカのほうには「ペテロの質問」(41節)と「主人の心を知っていた悪いしもべと、知らなかったしもべ」(47-48節)が加筆されています。
どちらも同じイエス様のメッセージなのに、なぜその違いが生まれているのか。
それを読み解く鍵が、十二弟子のひとりとしてリアルタイムで聞いていたマタイと、
改めてイエスの語られた言葉を収集し、それを一世代またいだ時代の中で再構成しているルカとの違いです。

 すなわちルカが加筆した「この話はみんなに語っているのか、それとも私たちに語っているのか」というペテロの質問は、
イエス様の時代から少し下って教会の中に生まれていた、執事や監督などの管理職に対する特別な心構えを提供しています。
また同じ不忠実なしもべなのに、「主人の心を知っているか、知らないか」というたとえ話も、
イエスを直接見たことがないが信じている、第二・第三世代のクリスチャンに対する、特別な励ましとして見ることができます。
 うがちすぎと言われるかもしれませんが、そんな違いに着目してみるのも、また楽しいものです。
ウチの妻はいま同じ説教を四回聞いていますが、「何度聞いても、なぜ再臨なのに役員会が出てくるのかワカランふらふら」と言っていました。
楽しいのは私だけでした。ムズカシイ説教を繰り返して申し訳ありません。スマン、妻よ。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』12章41-48節



序.
 先週の説教では、再臨は、私たちクリスチャンが、喜びと忍耐をもって待ち望むものだということをお話ししました。
しかし弟子のひとりペテロがそのたとえ話を聞いた感想は、「わかったような・・・・わからないような・・・・」
だからペテロは、このように聞きました。「主よ。このたとえは私たちのために話してくださるのですか、それともみなのためなのですか」
ちょっと見栄張って、イエス様、私たち弟子ならばなんとかお話しはわかりますよ。でも弟子でもない、ほかの人たちにわかりますかねえ。
そのときにイエスさまの目がキラーンと光ったかどうかはわかりませんが、この質問がきっかけとなり、イエス様の新しいたとえ話が始まりました。
そこに登場してくるのは、二種類の人々です。まずひとつは、さっきまでのたとえ話に出てきた、主人の帰りを待つ、多くの召使いたち。
たとえ話では、下男下女と訳されていますが、これは、すべてのクリスチャンのことです。
そしてもうひとつの人々というのが、そのクリスチャンたちを任されて、食事時には食べ物を与える、忠実な賢い管理人。
しもべがしらというべきでしょう。そして問題は、この管理人たちとは、いったい誰のことを指しているのか、ということです。

1.
 ある人々は、これはイエス様の12弟子、すなわち使徒たちを指すと考えます。現代でいえば牧師や伝道師のことになるでしょう。
しかし私は、そう考えません。それは、このルカ福音書が、書かれた時代を考えると、すでに教会の中には信徒組織が生まれているからです。
聖書を読むとき、何も予備知識なく読んでも結構ですが、書かれた時代などを踏まえて学ぶと、よりメッセージの意図が鮮明になります。
このルカ福音書が書かれた当時、教会はすでにパウロや使徒たちによってある程度組織化されていました。
使徒や監督、教師だけでなく、信徒の中から立てられた執事や長老、現代でいう、役員による牧会がなされていました。
ところが、すでにその中には、権限を利用して私腹を肥やす者、聖書から逸脱した教えを語る者、といった堕落への萌芽がみられたのです。
同じルカが書いた『使徒の働き』のなかに、パウロがエペソの長老たちに「私が去った後、あなたがたの中からも狼が出る」と語るところがあります。
つまり、このイエス様が再臨のメッセージの中で語られたことも、そのような背景の中での警告として受け止めなければならないのです。
ここに登場する、忠実で賢い管理人、それは、あえて今日の言葉で言えば、牧師だけでなく、信徒から立てられた役員も含みます。
イエス様は、ご自分のからだである教会を立てられ、それぞれのクリスチャンをそのからだの一部として召されました。
そして教会が、ひとりの脱落者も出すことなく、こぞって再臨を迎えるために、牧師だけでなく、信徒からも人々に仕える者たちを選ばれました。
それが「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人」です。
そしてそれが、今日の教会における、教師と信徒、それぞれの代表者から構成されて、教会全体に仕える、役員会を表します。

 再臨の日、それは教会が最高のものを主に差し出す日でもあります。そして牧師、役員はそのために選ばれ、任されて働くしもべです。
天から地上に再び降りてこられた主イエスに対して、「お待ち申し上げておりました」と、私たち自身を最上のささげものとしてささげる時です。
「私たち自身」とは、個人としての私たちであると同時に、主を信じるひとつの群れとしての私たちでもあります。
そのために、群れを整える者たちはだれか。それは、教師と信徒それぞれから選ばれた者たちによって作られる、役員会です。
教会の霊性、いうならばその教会の基礎体力と免疫力は、役員の信仰によって測ることができます。
牧師の信仰さえ揺らぐ事態に陥ったとき、役員が「先生、みことばに立ってください」と励ませる方ならば、それだけで勝ったも同然です。
しかし教会として決断しなければならないときに、役員が「私たちには決められませんから臨時総会を開きましょう」という群れはどうでしょうか。
一見、民主的であるように見えますが、役員会にゆだねられた問題を決められないゆえにたらい回しているだけです。
それは教会の徳を高めるどころか、むしろいつまで経っても幼子のような群れのままにとどめてしまいます。

2.
 教会にゆだねられた人々が、こぞって再臨のキリストをお迎えできるように養い、整えていく、役員の働きは尊いものです。
だから信者の方だけでなく、救いを求めている方々も、だれもが役員として教会に仕えることを信仰の目標に挙げてほしいと思います。
すべてのクリスチャンは、教会の一員となったときには、次のような祈りを日々重ねていくべきです。
私はあなたのために用いてください。群れに仕えさせてください。あなたが戻ってこられたときに、最上の群れをあなたにおささげするために。
それが、忠実で賢い管理人である、役員会を表すものです。教会は、この役員会によって、立ちもすれば、倒れもします。
だから役員に要求される霊性や資質は、テモテの手紙に書かれてあるとおり相当なものです。だからまわりの祈りがなければ立ち行きません。
イエス様は、再臨の日に教会に戻ってこられ、役員会の働きをご覧になられます。
そのとき、その務めにふさわしくない場合は、「きびしく罰して、不忠実な者どもと同じ目に会わせるに違いありません」と語られています。
「不忠実な者」は「不信者」とさえ訳される言葉です。
マタイの福音書の並行記事では、このような悪いしもべは、永遠の闇の中に放り出されて、そこで歯ぎしりして泣き叫ぶと書かれています。
冗談ではない、だったらだれが役員なんかになるもんか、来年の総会ではもし選ばれても拒否します。そう考えても不思議ではありません。
だからこのルカ福音書では、マタイ福音書には記されていない言葉が、最後に付け加えられています。それが47、48節です。

「主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべはひどくむち打たれます。しかし知らずにいたためにむち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」

聖書の中で、親が子どもをむちで打つ、あるいは主人がしもべをむち打つのは、しつけ、矯正のためであるとして語られています。
再臨が来たら、そこで今さらむちでしつけてもしょうがありません。再臨はすべてが終わりを迎える時ですから。
じつはここで「むち打たれる」と書いてある言葉は、その前に書いてある、「きびしく罰する」ということとは、まったく別のことを意味しています。
言い換えるならば、47、48節は、46節までとはまったく別のたとえ話を指していると理解すべきでありましょう。
仕事を果たさなかったしもべがむち打たれるのは、再臨の時ではありません。行いを正すために、再臨が来るまで、何度もむち打たれるのです。

結.
 神さまは、教会の中のある人々を、他のしもべに愛をもって仕えてくれる、忠実な管理人だと信頼して、役員に任じてくださいました。
「主人の心」とは、私を忠実な管理人と認めてくださったからこそ、主人は私を選び、ゆだねてくださったのだ、という自覚です。
その信頼を自覚している者ほどひどくむち打たれ、信頼されていると思っていない者はそれほど打たれない。なんだかあべこべのように思えます。
しかしむち打ちとは、矯正のためであるということを忘れないでください。期待しているからこそ、神はその期待に応じて管理人を打たれます。
そして再臨が来てすべてが手遅れになる前に、地上の教会がみこころからそれていくたびに、神は教会をむち打ち、軌道修正されるのです。

 聖とされた者たちの群れであるはずの教会に、なぜこんなことが起こるのか、なぜ許されるのか、という事柄がしかも内側から起こり得ます。
どんな教会であっても、完全・完璧な群れはありませんし、どんな牧師や役員であっても、間違えることのない人はいません。
しかし間違えてもよいのです。失敗することを恐れなくてもよいのです。なぜならそのたびに、ちゃんと神さまは愛のむちで正してくださるからです。
ただ打たれるのは管理人、つまり役員です。でも神が信頼してくださったと自覚している者ほど、多く打たれるというのです。
いつか主をお迎えする日が来たならば、私たちが打たれたその傷は勲章になります。神の一打ち一打ちはじつは恵みにほかなりません。

 神は、私たちクリスチャンがどのように生きているか、そして教会がどのように歩んでいるかをいつも見ておられます。
そして永遠の昔から定められた再臨の日までに、地上の教会が整えられるように願っておられます。
教会やクリスチャンの上に起こる、ときにつらく、苦しい出来事は、私たちをその都度、神にふさわしい器とするための一打ち一打ちなのです。
一つひとつの出来事の中にも、神の訓練が含まれていることを認めましょう。信頼されているからこそ多く打たれるのだと自覚しましょう。
そして、いつの日か、必ず戻ってくられる主イエス・キリストにふさわしい者、ふさわしい群れを目指して、歩んでいきたいと思います。

posted by 近 at 21:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ
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