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2020.7.26主日礼拝説教「真の平和は分裂の後に」(ルカ12:49-53)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 毎週、牧師は説教準備という苦行の連続ですが、そこで不可欠なものに「原語釈義」というプロセスがあります。
旧約聖書はヘブル語、新約聖書はギリシャ語で記されていることはよく知られていますが、
それを各国の言葉に翻訳したものが、たとえば日本であれば新改訳や新共同訳にあたります。
そして、いずれの翻訳であれ、わずかながらも翻訳者独自の解釈が含まれることは免れません
たとえば「救う」を意味する、ソーゾーという新約ギリシャ語があります。これは「(病を)直す」という意味もあります。
12年間長血で苦しんでいた女性(マルコ5:34)にイエス様が語られたのは「あなたを救った」か、「あなたを直した」か。
口語訳、新共同訳では「救った」ですが、新改訳第三版では「直訳:救った」という小さな注をつけたうえで「直した」と訳していました。
新改訳2017では「救った」になっています。
 実際に説教を語るとき、その教会が公に用いている聖書の言葉に立って語らないと、会衆が混乱してしまいます。
(神学生の頃は説教の中に「ここは原語では・・・」と頻繁に使いましたが、逆効果であったことを牧師になってから気づきました)
翻訳に依存せず、また翻訳を無視せず、原語が本来語ろうとしていたことを結晶化してゆく営み、それが原語釈義です。

 今回の聖書箇所で登場する「分裂」と訳されたギリシャ語「ディアメリスモス」は、聖書の中でここにしか出てきません。
すべての聖書翻訳で「分裂(division)」と訳されていますが、ここにしか言及がないということは、
それが「分裂」という言葉で正しいのか、比較する対象がないということです。その場合、それが語られている文脈で判断します。
51節で「ディアメリスモス」を語られたあと、52、53節で動詞形「ディアメリゾー」をイエス様は語られます。
この言葉は「分ける」という意味で聖書に11回登場します。それで「分裂」と確定的に訳されているのでしょう。
しかしこのディアメリゾーが新約聖書に登場するのは、福音書と使徒の働きだけです。
「分裂」についてあれほど語られているパウロ書簡で、「ディアメリゾー」は一切使われていません。
つまりこの「分裂」は、私たちが想像するような内部分裂とは少し違うものを意味しているようです。
 さらに言えば、11回のうち4回は「分裂」(ルカ11:17・18、12:52・53)ですが、
残りの4回はイエスの着物を兵士たちが「分けた」こと(マタイ27:35、マルコ15:24、ルカ23:34、ヨハネ19:24)、
残りの3つはそれぞれ、聖餐のときに「分けて」飲みなさいと主が命じたこと(ルカ22:17)、
聖霊が「分かれた」舌のように下ってこられたこと(使徒2:3)、
初期の信者たちが財産を「分けて」生活していたこと(ルカ2:45)と、二つは明らかに積極的な意味で使われています。

 その意味で、ディアメリゾーやディアメリスモスは、単に「分裂」という消極的な意味ではないと解釈されます。
「分裂」と訳されたこの言葉は、言語的には「共有」と紙一重であり、キリスト者や教会にとって、恐れるものではありません。
逆に分裂を恐れて、家庭・職場・教会(教団)のなかで何も言えなくなってしまうとしたら、その方がはるかに問題と言えるでしょう。
「真の平和は分裂の後で」と説教題につけましたが、もしかしたら分裂のように見える事柄そのものが、実際には分裂ではなく、
そこに気づくとき、何ものにも揺るがされることのない平和がすでに生まれているのかもしれません。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』12章49-53節



序.
 関西地方にある教会に、一本の電話の問い合わせがありました。
「キリストはんでっか?「世界人類が平和でありますように」って書いている、白いポールがありまんな。
いまうちの空き地を子どもたちの遊び場に使ってもらとりましてな、どうせならあの棒を立ててもらったら、
教育上よろしいかなと思うんやけど、どないでっか?」
どないでっかと言われても、じつはあのポールはキリスト教会ではなく、「白光真宏会」という、まったく別の宗教団体が立てているものです。
そこで牧師は、そのことを伝えて、丁重にお断りしました。
「なんや、そうでっか。人類みな兄弟とか言うてるから、てっきり、あれはキリストはんが立ててらっしゃるんだと思うてましたわ。
しゃあない、そこをあたりますわ」。
牧師はなんとも複雑な気持ちになったそうです。

1.
 クリスチャンでない方々でさえこのように間違えるほど、イエス様のイメージは平和を願い、平和を祈る方として定着しています。
だとしたら、今日の聖書箇所を読んでしまったら、まさにイエス様のイメージダウンはまぬがれません。
「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです」。「地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。むしろ分裂です」。
イエス様がお生まれになった夜、御使いたちは「天には栄光、地には平和」と、神を賛美したはずではなかったでしょうか。
イエス様こそ、地に平和をもたらすお方である。そう信じて、イエス様についてきた人々も少なくなかったはずです。
そうです、イエス様は確かに、この世界に平和をもたらすために来られました。
しかし本物の平和がもたらされるためには、ニセモノの平和が砕かれなければなりません。その過程において、分裂がもたらされるのです。
本物の平和を手に入れるために、分裂は避けて通れません。分裂の先にまことの平和があるならば、分裂さえもを恐れてはならないのです。

 49節をご覧ください。「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。」
火は、ほんものとニセモノの違いを露わにします。
お祭りの屋台でよく売られているべっこう飴、あれを火にかけてみたら、どんなに鼈甲の輝きに似ていても、そうではないとわかります。
人々は、平和だというとき、それは本物の平和ではありません。知っておくべきことを知ろうとしないがゆえの平和でしかありません。
見なければならないことから目をそむけ、頭の中から消し去っているがゆえの平和でしかありません。
しかしイエス・キリストのことばは、私たちにこの世界の真実を伝えます。それは罪によって互いに通じ合うことのない世界です。
通じているようで、じつは通じているふりをしているだけの、偽りの愛と平和に酔わされているだけの世界。そこにイエスは火を投じます。

2.
 しかし、イエスの火は家族に和解をもたらすよりも、分裂をもたらしてしまう、悪しきものなのでしょうか。
「今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。
父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」
 しかしイエス様がここで語っているのは、家族のことではありません。家族に象徴される、この社会、この世界そのものです。
この世は、罪を認めない世界です。他人の罪にはたいへん敏感です。しかし自分の罪は決して認めようとはしません。
その平和は、罪を認めないがゆえにオブラートにくるまれた、偽りの平和でしかありません。目をつぶりながら平和だと言い聞かせているのです。
このような、偽りの平和という土台の上に、そのまま、まことの平和を継ぎ足すことはできません。土台そのものが腐っているからです。
偽りの平和は一度こわされなければなりません。そして代わりに、まったく新しい、神の平和という土台が築かれるのです。

 イエス様が語る分裂とは、この一度壊されるということそのものです。まったく新しいものを生みだしていくための分裂、破壊です。
イエス・キリストのみことばが家庭・地域・社会で語られるとき、なあなあで見過ごしてきた、偽りの平和がまず揺れ動かされます。
その偽りの平和は、私たちの古い生活の土台となっています。だからみことばが語られるとき、混乱と対立が生じます。
それまでの人間関係の中に、キリスト者の証しが投じられることで、お互いに敵対する関係に陥ることも珍しいことではありません。
それが信仰の戦いです。しかしその戦いは、相手を殺す戦いではなく、相手を生かすために、腐った土台を壊すための戦いです。
偽りの土台が破壊されなければ、真の土台は建てられません。本当の平和は、その場しのぎの応急処置では作り出せないのです。

 すべての人間は、偽りの平和に満足し、次の一歩を中空に踏み出そうとしている盲人です。
すぐ下には、永遠のさばきが口を開けています。ただ神にしがみつくしか、救われる道はありません。
そして、神さまにしがみつくためには、自分の今までの生き方にしがみついていてはならないのです。
今までの生き方を変えることは年齢を経るごとに難しくなります。人は過去の経験から学んできた知識の蓄積によって生きているからです。
イエス様が語られた、火とは、福音のみことばであるとともに、それは聖霊なる神が心の中に燃やされる、内なる炎です。
キリストの十字架のメッセージを聞いた人の上に、この聖霊なる神が働かれるとき、その人は一度壊され、そして新しく作り変えられるのです。
壊れること、失うことを恐れてはなりません。キリストを信じて一度失ったものがあっても、必ず神は新しいものを与えてくださいます。

結.
 しかしこの聖霊が下られるためには、イエスは十字架という血だらけのバプテスマを通らなければなりませんでした。
だからイエスは言われました。「だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう」と。
十字架は、イエス様でさえ、恐れずにはいられないほどの苦しみでした。
それは、永遠の昔からつねに父とひとつであった神の御子キリストが、たとえ一時的ではあっても、父にのろわれた者となることだったからです。
しかし同時にイエス様は、次のことも知っておられました。この十字架と復活がなければ、聖霊はこの世に下ることがなく、平和が訪れないことを。
クリスチャンとは、この聖霊によって生かされ、聖霊に押し出されて、この世にまことの平和を語り、まことの平和を作り出す者たちです。
そしてまことの平和は、神が人となって、私たちの罪のさばきの身代わりになってくださったのだ、という十字架の福音以外にはありません。

 十字架の福音は、理屈では納得しがたいものです。だから語っても必ず受け入れてもらえるものではありません。
しかし救いに定められた者たちが、この理屈を越えた十字架のメッセージを聞くならば、そのときに聖霊が確かに働かれるのです。
神は、この十字架のメッセージを、あえて有限なる私たちにゆだねられました。
しかしそれは私たちを通して、中に住んでおられる聖霊が語られるのです。
私たちは、十字架によって変えられた人生をすでに体験しています。その喜びを語るのに、何の脚色も加える必要はありません。
私の中に生きておられる神はあなたを愛しておられる。そしてあなたの人生も変えてくださるのだということを語り続けましょう。

posted by 近 at 16:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ
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