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2020.8.16主日礼拝説教「束縛からの解放」(ルカ13:10-17)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 世に教会は数あれど、週報の表紙が毎回変わるという、ウチみたいなところは少ないでしょう。
最近では、礼拝当日が何の記念日にあたるかを調べて、トリビア的なコメントを加えるようなことをよくやっています。
今週(8/16)の表紙は、その日が「女子大生の日」であるということで、ナデシコの画像を用いて控えめにこんな説明をしていました。
2020.8.16_page-0002.jpg 
撫子(大和撫子)は秋の七草の一つ。7〜10月にかけて薄紅色の花を幾何学模様(正五角形)につける。美しさと聡明さを兼ね備えた日本女性の象徴とされるようになった。今から107年前の1913(大正2)年8月16日、東北帝国大学に三名の女性が入学。日本最初の女子大生と言われる。そのうちの一人、黒田チカは日本初の女性理学博士となった。
そしたらなんということでしょう。つい昨日(8/21)のニュースにこんなものが出てきてビックリ。
「女子大生の日」 ホントはきょうなのに・・・ 日付誤認の理由は?
 インターネットで検索すると、「8月16日は女子大生の日」と紹介するサイトが複数ヒットする。1913(大正2)年のこの日、東北帝国大が女性3人の合格を発表した、との記述がある。
 東北大に確認すると、16日は東京朝日新聞が「女性3人が入学を許可され、16日の官報で発表される」との記事を掲載した日だという。ところが実際の官報に掲載されたのは8月21日だった。
 東北大の大隅典子副学長は、8月16日という誤った日付が記事やインターネットで話題になることが気になっていたという。そこで東北大はことし6月、日本記念日協会(長野県佐久市)に8月21日を「女子大生の日」として申請し、7月に登録された。
 しかし、東北大の動きは世間にあまりに認知されなかったようだ。行政文書を管理、保存する国立公文書館は8月16日、「今日は女子大生の日」と誤った情報を会員制交流サイト(SNS)に投稿してしまった。(以下省略、河北新報)
国立公文書館が間違えるくらいだから、ウチの教会が間違えてもまあいいかとも思わないでもありませんが、
一応、週報は、教会にとっては永年保存として扱うものですので、謝るべき・・・だよね。
とはいえ明日の礼拝でわざわざ報告するものでもなし(妻いわく「みんな読んでない」)、この場を借りて謝罪いたします。ごめんね。
いくらネットでそれっぽく書かれていても、よく調べなければいかん、と悔い改めました。な、国立公文書館。
説教で紹介したわけではなかったのがせめてもの救いでした。
もっとも、振り返ってみるともっとひどいうろ覚えの情報をアドリブでポロッと出してしまうこともありましたが。スシ○ーの回転スピードとか。
これからは気をつけます。特に明日の説教。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』13章10-17節


序.
 まず最初に、今日の聖書物語を始めから終わりまで貫いているテーマを一言で申し上げるならば、束縛からの解放、になるかと思います。
18年ものあいだ、ひとりの女性が、病の霊に縛られて、腰を伸ばすことがない苦しみに耐え続けていました。
しかしある安息日の礼拝のなかで、イエスさまをこの女性に目をとめられました。彼女は長年の束縛から解放されて、神をほめたたえました。
ところがそれを喜ばない者たちがいたのです。当時のユダヤにおいて、会堂での礼拝を指導していた会堂管理者とその支持者たちでした。
会堂管理者は言いました。安息日は束縛から解放されてはならない。それは安息日に禁じられている、仕事にあたるからだ。
支離滅裂なクレームです。じつは彼自身も、気づかないまま、長い間たましいを束縛されています。だから彼女の解放を憎んだのです。
イエス様は、やはり束縛と解放というキーワードを用いて、こう諭しました。
家畜でさえ、生きるために安息日には束縛から解放されるではないか。
それなのに、家畜よりもはるかに価値のあるこの女性が、安息日に束縛から解放されることがなぜいけないのか、と。

1.
 全体のあらすじは以上になりますが、続けて今日の物語を段落ごとに分けてみていきましょう。まず、この女性のいやしについてです。
11節をご覧ください。「すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた」。
18年も、腰がまっすぐ伸ばせない病気でありながら、安息日に礼拝をささげるために来ていたこの女性は、驚くべき信仰を持っています。
ほかの人々のように、イエスにいやしを求めて群がっていたのではありません。彼女は毎週しているとおりに、安息日の礼拝をささげていました。
病の霊にからだは縛られていたとしても、心は支配されていません。病の霊は居候にすぎず、決して病の霊が主人ではありません。
ここにまず私たちに対するひとつのメッセージがあります。病の霊にからだは影響されたとしても、心は明け渡さずに生きるということです。

 病というのは、私たちの誤った生活習慣から生まれるものもあります。心配事や、人間関係のトラブルが昂じて、病になることもあります。
この女性のように、悪しき霊が影響を与えて病になることもあるでしょう。そして神さまが私たちを訓練するためにあえて与える病もあります。
しかしいずれにしても、私たちの主(あるじ)は病ではありません。
からだは病の影響を受けても、心は神さまだけを主として崇めることができます。
病を主として生きている人はどんな生活になるのでしょうか。病から解放されるために、ドクターショッピングに夢中になります。
自分の収入や生活にお構いなしに、自分の気に入った医者が見つかるまで、評判の良い医者を渡り歩きます。
やがて医者だけでは満足しきれず、霊能力者のようなたぐいにも頼ります。
そして一度そういうものに頼り出すと、病だけではなく、自分の欠点だとか、愛のない家族とか、そういうものも霊のせいにするようになります。
これが、病の霊に支配されている人間の生き方です。生き方とは言っても、すでに死んでいます。たましいが悪魔の奴隷とされています。
イエス・キリストはこの女性を、18年ものあいだサタンが縛っていたと言います。しかしからだは縛られていても、たましいは縛られてはいません。

 「あなたの病気はいやされました」。このことばを直訳すると「あなたは病気から解放されました」となります。
神は、私たちの苦しみを知っておられるだけではなく、私たちの心の内側の信仰を見ておられます。あなたはだれを主としているのか、と。
もし、あなたの心の中に不満や不安ばかりが溢れるならば、それは心のなかでそれらがまるで主人のようにふんぞり返っているということです。
だから反抗できません。いつも不満ばかりを抱きます。いつも不安を糧としています。
しかしあなたの主は、イエス・キリストです。この方しかおられません。サタンを縛ることができるのは、サタンよりも強い方しかいない。
それがイエス・キリストです。私たちの主はだれか。このイエス・キリストが私の唯一の主であると、高らかに告白しようではありませんか。

2.
 この女性とまるで対照的なのが、会堂管理者です。
彼女が信仰を保ち、病の霊に人生航路の舵を渡すことはなかったのに対し、彼はいとも簡単に明け渡してしまっていました。
彼を支配していたのは、人は伝統やしきたりに従わなければならない、という思い込みです。安息日にはどんな仕事もしてはいけないのだ。
そして人をいやすことも、いやされることも、仕事にあたる。だから彼は、イエス様のなさったいやしのわざに対して怒りを燃やしました。
ところがところが、イエス様に直接文句をつけると後がこわい。だから彼は、そこに集まっていた群衆に対して叱りつけました。
こういう人っていますよね。直接文句をいうとかどがたつので、歯向かいそうもない、自分よりも弱い人を叱ることで溜飲を下げる人。
まさにそれを「偽善者」というのです。「安息日にはどんな仕事もしてはならない」という言い伝えを守ることだけが、彼の信仰です。
それは自分では信仰とは思っていても、神さまの目にはただ不安でいっぱいな人のみじめな生き方でしかありません。
彼は自分で何が正しいかを判断できません。いや、判断したくないのです。
目の前に起きたいやしの出来事を受け止めるよりも、昔からの言い伝えに従っているほうが、考えなくてもすむから楽なのです。
しかしイエス様は繰り返してこう語られました。「なぜ、何が正しいかを自分で判断しないのですか」。
「雲や空には敏感でも、今の時代を見分けることができないのですか」。
そして「自分の家畜のためには安息日の決まりを破っても、この女性についてはそうではない、そこにあわれみはあるのですか」と。

結.
 この女性は、神の目には家畜よりもはるかに尊い、アブラハムの娘、ひいてはご自分の娘と言ってもよいほどの存在でした。
父なる神は、たった一日でさえもご自分の娘が苦しんでいるのを見て、苦しまれない日はありません。次の六日間では遅すぎるのです。
この安息日のいやしは、この世界がつくられる前から神がみこころに定めておられ、そして与えられた一日でした。
私たちにとってもそうなのです。この日、この時、ここに集い、みことばを聞くことができたのは、決して偶然でも当たり前のことでもありません。
もしあなたが、まだ神を信じておらずに、神以外の何ものかを主人としてこの世を這いずり回る生き方を続けているならば、
神は今日、あなたをその束縛から解放するために、この日のみことばを与えてくださったのです。
そしてもしあなたが、すでにキリストを信じているにもかかわらず、いまも不安や恐れがあるのであれば、今一度神のあわれみをおぼえましょう。
この女性へのあわれみは、あなた自身へのあわれみです。そのことに気づくとき、私たちは恥じ入る側ではなく、喜ぶ側に確かに立っています。
一人ひとりが、今日のみことばを心の中に深く刻みつけて、歩んでいきましょう。

posted by 近 at 20:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ
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