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2020.8.30主日礼拝説教「キリストだけが救いへの門」(ルカ13:22-30)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。

 今日(9/5土)の夕方、ひとりの婦人役員から、教会に一本の電話が入りました。
グループホームに入居中で、コロナが流行する前には毎週訪問させていただいていたTさんが、肺炎のために急逝されたという報告でした。
葬儀は、やはりコロナの影響のために、家族葬で行うとのことでした。
姉妹も涙ぐみ、私も驚きのあまり言葉が続かずに、電話を切った後、涙がこぼれました。

 Tさんは、もともと、十年以上前に亡くなられた教会員、N子姉のお兄さんでした。
生前のN子姉を訪問していたときには、別室でテレビを見ているばかりでほとんど会話もなかったのですが、
N子姉の葬儀を私たちがさせていただいたとき「N子への最高のはなむけだった」と喜んでくださり、それから親しい関係になりました。
Tさんはやがて自宅での生活が厳しくなり、教会の近所にあるグループホームに入居しましたが、
その後も先の役員を含む二人の姉妹が毎週訪問、しばらくして私も合流し、週一回、四人の幸いな時間が続けられてきました。
そのグループホームはそれぞれ一人部屋があてがわれており、童謡を歌ったり、聖書のお話しをさせていただきました。
3月からコロナのために外部からの訪問が禁じられましたが、一日も早く再開するようにと祈り続けていたところでした。

 Tさんは愉快な人でした。ユーモアがあり、人を不快にさせるジョークは一切語らず、いつも和ませてくださいました。
築ウン十年の古民家に住んでいたときには「すきま風ばかり吹くから、絶対に一酸化炭素中毒にはなりませんワ」と笑わせ、
グループホームにいたときには「きょうも首が痛い」。「だいじょうぶ?」と聞くと「借金で首が回りませんワ」。
 洗礼を授けるには至りませんでしたが、ある日の訪問で自分の罪を認め、キリストを信じると告白しました。
つい先日の役員会で、例の婦人役員から「あの時、先生の導きはなんか強引だなと思いましたが、
早く洗礼を受けられるといいですネ」と本気とも冗談ともつかない発言があり、数日間、その言葉がひっかかっていました。
振り返ってみると、たとえ強引と思われても、訪問できなくなる前に信仰決心に至ったことが、神様の恵みでした。
 救いに導く者も、救いに導かれる者も、救いの神が定めた「時」に動かされています。
いつでも語れるチャンスがあるわけでも、いつでも信じるチャンスがあるわけでもありません。
イエスの御霊が心の扉を叩いておられることに気づいたなら、内側から開けなければなりません。
躊躇していたならば、気づいたときには音はやみ、そして二度とないかもしれないのです。

 Tさん、やがて永遠の御国で会いましょう。御国では首が痛むこともありません。
でもきっと肩をすくめながら、あなたは何か面白いことを言うのでしょうね。期待しています。
そしてN子姉にもよろしくお伝えください。お二人に「センセイ」と言われて私は幸せでした。週報はこちらです。

聖書箇所 『ルカの福音書』13章22-30節


1.
 「主よ。救われる者は少ないのですか」。
クリスチャンがわずかしかいないこの日本で、みなさんも一度はイエス様に尋ねてみたい質問ではないでしょうか。
しかしイエスはこの質問者の心を見抜いておられました。この質問は、イエス様の教えに対する一種のクレームであったのです。
この一、二年ほど、礼拝説教では、このルカ福音書から順番に語ってきました。
が、この二ヶ月ほどのメッセージを振り返ってみると、イエス様のメッセージが今までになく激しいものになっていることにお気づきでしょうか。
このところ牧師のメッセージが、さばきとか悔い改めとかばかりで激しいなと思われる方もいるかもしれませんが、
私が激しいのではなく、聖書が激しいのです。イエス様がエルサレムに向かわれるのは、救いを与えるために十字架にかかるためでした。
エルサレムへの一歩一歩。町々、村々で語られた、教えのひとつひとつ。そこでイエス様はまるで狂ったように叫ばれました。
わたしこそが真理であり、わたしを通してでなければ神の御国に入ることはできない。いま信じて、救われよ。手遅れにならないうちに、と。

 しかし、ある人々はその教えに納得できませんでした。そのうちの一人が、イエス様にこう聞いてきたのです。
先生、あなたは、わたしを通してでなければ救われないと言われます。しかしだとしたら、救われる人はごくわずかでありましょう。
これは質問というよりは、むしろ皮肉と言えるものでした。ですからイエスは、この質問に対して、多いとも少ないとも答えません。
代わりに、イエス様は彼だけでなく、集まっていた人々に対しても、こう語られました。24節をご覧ください。
「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。」
ここで「努力して」と訳されている言葉は、むしろ「戦って」と訳す方がよい、もっぱら軍隊用語として使われていた言葉です。
「戦って狭い門から入りなさい」。ではその「狭い門」とは何でしょうか。それは、イエス・キリストそのものです。
救いは、このイエス・キリスト以外にはどこにもありません。だったら救われる人などわずかでしょうね、と言われても、譲ることはできません。
この世には、私こそ救いだ、私の信じているものこそ救いだ、と主張するものは、宗教に限らず、数え切れないほど存在します。
私たちのイエスも、その一つに過ぎないのでしょうか。世の人々にとってはそうとしか見えないでしょう。
この日本は、どの宗教にも寛容な国です。初詣や七五三は神社で、お盆やお葬式はお寺で、クリスマスと結婚式はキリスト教もいいね。
この国で、イエス・キリストだけが救いを与えることができるお方だと信じ続けることは、まさに「努力」どころか「戦い」そのものです。
この狭い門をくぐり、さらにそこから続く狭い道を歩み続けることは、周囲との軋轢を避けては通れません。
しかし私たちが信じるイエス・キリストがほんとうにただひとつの救いかどうか、それはやがて、この門が閉められるときに明らかになります。

2.
 このイエス・キリスト、すなわち狭い門は、やがて入ろうとしても、入れなくなる、と語られています。
この門に入る、とはイエス・キリストを私の救い主として信じるということです。しかし信じる機会は、この与えられた人生の中にしかありません。
人はだれもが、死とともにからだは朽ち果て、たましいは眠りにつきます。そしてたましいが眠りから覚めるのは、最後のさばきの時です。
そしてその時にはひたすらさばきを待つだけの身となり、キリストを信じる者は永遠の御国へ、信じなかった者は永遠の地獄へ向かうのです。
つまり、死んだ後にはいっさい悔い改める機会はありません。それは、つらいことではありますが、聖書がはっきりと語っていることなのです。

 イエス・キリストは門です。救いを求めてこの門に近づくならば、必ず開かれます。しかし開かれても、くぐらなければ意味はありません。
ここでイエス様が語ったのはたとえ話ではないのです。「あなたがた」という言葉が示すように、終わりの日に、人々の上に起こることなのです。
生きている時に信じなかった者は、そのときに外から門をたたきながら、こう叫びます。「ご主人さま、開けてください」。
どんなに、一緒に食べたり飲んだりした、大通りで教えていただいた、ということを涙ながらに訴えたとしても、決して門は開きません。
生きているときにこの門をくぐらない限り、たとえどれだけ門に近づいたとしても、救いはあなたのものにはならないのです。

 求道者の方々にとって、確かに教会に導かれていることは偶然ではなく、その背後には神のご計画があるということを私は信じています。
しかし礼拝に出席していることイコール救われたことではありません。この方を救い主として信じないならば、門をくぐったことにならないのです。
じつは門をくぐっておらず、門の前で飲み食いをしたり教えを聞いただけなのに、救われたと誤解することがあってはなりません。
救いは、私と神との一対一の関係の中で結ばれるできごとです。代わりに信じてあげることはだれにもできません。
あなたが自分の意思によって、イエス・キリストか、それともそれ以外のものかを選ばなければならないのです。
もちろん、今日決めなくても、次があります。しかしその次は、生きているあいだにしかありません。
そして私たちの命はいつ取り去られるかわかりません。まだチャンスがあるうちに、信じる、と自分自身がはっきりと告白するのです。
どうか今日がその恵みの日になりますようにと願います。

3.
 最後に、これはクリスチャンの方々に対する勧めです。27節をご覧ください。
「だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』」
主人、これもまたイエスさまご自身ですが、「あなたがたがどこの者か」という言葉を、27節と25節で、二度も繰り返しています。
「あなたがたは何者か」ではなく、「どこの者か」という呼びかけは、イエスの話を聞きながら信じようとしないユダヤ人に対するメッセージです。
ユダヤ人は、自分たちはアブラハムの子孫だ、だからユダヤ人として生まれることですでに神の国が約束されていると信じていました。
しかしユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、どの民族として生まれたか、ということは、救いにはいっさい関係がありません。
ユダヤ人であっても、イエスを信じたユダヤ人は救われます。異邦人であっても、イエスを信じるのであれば救われるのと同じです。
救いは、ただイエス・キリストを救い主と信じる信仰によるのです。
しかし自分がユダヤ人として生まれたことのうえにあぐらをかき、イエスを信じなかった人々は、終わりの日には泣き叫びます。
代わりに、信仰によってイエスを信じた者たちが、どんな民族の生まれであっても、永遠の祝宴にあずかるのです。

 ここでまた「神の国」という言葉が出てきます。しかしこの神の国は、信じた私たちには、終わりの日が来る前にすでに与えられています。
アブラハム、イサク、ヤコブ、幾多の預言者たちは、まだ地上に来ておられなかった救い主イエスを霊の眼で見上げながら神とともに歩みました。
そして今私たちは、実際に地上に来られ、十字架で死によみがえってくださった救い主を見上げながら、やはり神とともに歩んでいます。
神の国の祝宴は、すでに始まっています。そしてそれは決して終わることのない、イエス・キリストとの永遠の交わりに他なりません。
終わりの日には、罪も汚れも苦しみもない、新しい天と新しい地が生まれ、神の祝宴は、私たちが想像もできないような喜びに満ちあふれます。
しかしすでに私たちは、この信仰生活を通して、神との祝宴の中に入れられているのです。
まだ罪、汚れ、苦しみ、誘惑は世に満ちています。
それでもなお、私たちはこのイエスさまとの生活の中で、赦され、きよめられ、癒やされながら、一日一日を歩んでいます。
クリスチャンにはすでにそのような特権が与えられています。恵みをおぼえながら、歩んでいきましょう。

posted by 近 at 23:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 2020年のメッセージ
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